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福沢諭吉はなぜ瘠我慢之説で勝海舟を批判したのか?
勝海舟は幕臣ではあったが、早くからこの幕府封建体制では難局を乗り越えることはできず、衆知を集めたより近代的な政治体制が必要と考え、徳川家の安泰を図りながらもこのような観点で行動した。結果的には薩長中心の政治体制になったが、彼の思想と行動には矛盾はなかったと思う。 一方、福沢諭吉はおそらく薩長政府に批判的で、それゆえ官職につかず民間で活躍したと思うが、薩長嫌いが海舟批判に繋がったのか、それとも、海舟が幕臣でありながら倒幕に与したと考え批判したのか、はたまた、別に批判の理由があったのか、お教えください。
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吉田松陰の『幽囚録』(内容は下記URLをご参照下さい) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0 http://www7a.biglobe.ne.jp/~katatumuri/yosida/syoin60.htm を読むと、筆者の名前を伏せれば石原莞爾か東條英機の主張としても通じそうな内容で、事実、松陰の薫陶を受けた伊藤博文、山県有朋らの長州閥の手により始められた日清・日露戦争を経てやがて日中・太平洋戦争へと突入していく帝国主義の道を歩んでいったことは、改めてご説明するまでもないと思われます。 一方、幕臣でありながら薩長との早期停戦、江戸城無血開城を主張した勝海舟は、維新後、明治政府で参議、海軍卿の要職を務めながらも、軍事力強化に興味がなかったのか、仕事に精を出さず、また、自ら育てたとも言える海軍が日清戦争に参加するのに終始反対しました。三国干渉で窮地に立たされた時も、「政府のやることなんてぇのは実に小さい話だ」と批判しています。(出典は下記URL) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F もっとも聞いた話ですが、西郷と親しかったせいか、征韓論には賛成したそうです。 勝海舟には、中国に進出すれば必ず欧米列強と対峙(利権をめぐる衝突)せざるを得なくなり、中国を植民地化することはおろか逆に列強から日本の独立自体を侵されかねないという考えがあったのでしょうか? 歴史は皮肉にも吉田松陰の敷いた路線をひた走った結果、勝海舟の予想通りになってしまったわけですが、もし日本が帝国主義路線でなく勝海舟の主張通り中国進出を行わず、せいぜい朝鮮半島留まりであったならば、欧米列強、殊に米国と敵対することもなく、あのような未曾有の戦禍を免れ、明治維新から現在に至るまで東洋の一小国としてささやかな繁栄を謳歌する独立国たり得たのではないかと考えるのは、穿った見方でしょうか?
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お礼
少し調べてみました。福沢さんは木村さん(芥舟)の従者としてアメリカに渡り、その経験を通して後半生を確立したこと。木村さんのお陰で福沢さんは世に出られたこと。 木村さんは提督として、勝さんは艦長として咸臨丸に乗り合わせたが、勝さんは後に木村さんの人となりを理解することとなるが、当初は木村さんが7歳も年下ということもあり、相当に毛嫌いしたようであり、その辺りも福沢さんの勝さん批判に及ぶのかと思われます。ありがとうございました。
補足
ありがとうございました。格調高い内容で恐れ入りました。何か心が洗われたような、背筋が伸びる気分にさせられました。 ところで伯夷淑斉ですが、その通りだとは思うんですが、勝さんは古い、既に時代に即さない幕藩体制には批判的で、夷狄に対抗できる、幕府に代わる近代的な政治体制の必要性を強く認識していました。 しかし、彼は徳川慶喜には何度か煮え湯を飲まされたにもかかわらず、お膳立てをして、慶喜が参内して朝廷の許しを得るのを見届けて亡くなりました。そういう意味では彼は徳川家には忠節を励んだと思います。 そういう意味で福沢さんの「伯夷淑斉=痩せ我慢」という批判は勝さんには少し見当違いのところがあり、それが「行蔵は我にあり」という答えになったように思うのですが如何でしょうか? ちなみに、私は伯夷淑斉などどこ吹くかぜ、カラオケでストレス発散してます。