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福沢諭吉はなぜ瘠我慢之説で勝海舟を批判したのか?

thegenusの回答

  • thegenus
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回答No.3

愉快愉快そうゆうんかい。 濁点ありですよね。まるで読ませてる字では。 たしか孫文の号は日本人の名字由来の、 中山ですよね。Middlemountain。ちなみに小山はSmallmountain。 山中ならinでしょうね。 質問者さんの補足のお蔭もあって、私自身、回答しながらとても勉強になっています。 福沢がとやかく言うことはおかしいとのご指摘は否定できません。 しかしながら、ご質問は、勝を責める正当性があるか、ではなくて、 福沢の動機ないし言い分ですよね。 村の先輩へ(笑)屁理屈を言わせてもらえるならば、 自由主義は、公共の福祉に反しない限り、各自がルールを決めます。批判(言論)と強制は違います。 自由主義の方が言論の自由が多いのですから、矛盾するどころか、福沢らしいのです。 福沢の「痩せ我慢の説」、これに反論する勝の言葉「行蔵は我に在り」は、 「おいおい、頼むぜ、諭吉さんよ。お前さんが決めることじゃねえだろ」 を礼儀正しく文語にしたものです。高官の勝がカンカンだったかは知りません。 福沢にしても、どうにもならんことなだけに言うしかないというところですね。 勝・竜馬の線から、歴史に親しむ人が多いのでしょうが、私はこの二人に関心が薄く、福沢・適塾の線から幕末を楽しんでいます。ひいきの人が違うと歴史認識も変り、当人はそれが正しいと思ったままです。何事もマニアほど冷静じゃない場合が多いです。長州と会津なんかは未だに遺恨があるような話も聞きますが、国内の場合は、反対の認識から学んで、より高い認識へ移していくべきで、それに損はありません。 私も今回はだいぶ考えを新にしました。 「伯夷叔斉」についてですが、これはたぶん実際、福沢が勝への批判に使っている言葉だったと記憶しています。 そのあたりから、福沢の読者の一人である私は、ある意味、まんまと、その理屈で一件落着していたのです。 しかしまず最初に念押しとして「伯夷叔斉」で批判するのは間違ってはいません。木村摂津守(芥舟)は明治元年に隠居して、死ぬまで歌を詠む生活。福沢は木村家を経済的に援助したようですから、貧しかったことも事実で、ワラビの変わりに、野草ぐらいは摘んでお膳に添えていたかもしれません。木村芥舟は別段、文句も言わず、正直に生きていたのでしょう。それが尚更、大阪人的に義理堅い福沢を当事者でもないのに、いきり立たせたのでしょう。「伯夷叔斉」とは「摂津守」のことをほめちぎったのです。あてつけですから間違いにはならないのです。 摂津守に恩があるのは知っていましたが、福沢が著述で、恩があるから、ご恩と奉公なんだ、とは書くはずがないので、勝の出処進退が道理に合わないという過剰な批判かとも思っていましたが、元より官職が嫌いなの事が、摂津守が高官でなくなったことで、爆発したということですね。 例えるなら、太平洋戦争の敗戦を機に、軍を辞めた元上官が、自衛隊からの誘いを丁重に断り、30代で恩給暮らし、別の上官は自衛隊で出世し、すべての将校から重鎮として扱われている。世話になった元軍人の塾経営者が、出世した方に、時代錯誤の戦陣訓を言っているのような感じですかね。 ただし、封建時代の武士と武士との関係ですから、近代以降の組織内における人間関係とは違いますね。咸臨丸においては勝も木村も福沢よりも上官の立場ではありますが、福沢の主君ではありません。主君以外の誰に逆らおうが武士の不義にはなりません。よって明治維新前より、近現代の社会に見られるレベルのいがみ合いではなく、中津藩の出の福沢にとっての勝は気に入らなければ果し状を出して、殺し合っても構わない間柄なのです。明治になりそういう元武士が「痩せ我慢の説」などと遠まわしな一説を出版しようが、激し過ぎるということはない、そう思います。 元々幕臣ではない福沢の、いうなれば主君が厳密にはどのように調整されていったのかは忘れました。 私は知らないのですが、勝と将軍は、幕末にそんなにもめたのですか? 慶喜の家の為に、勝が働いたことは、評価の対象にできますが、動機を考えて下さい。将軍は廃業したのに、勝は出世しているのです。周りは福沢ほどではないが、元武士ですからね。自分の為にも、元主君の名誉を回復してやらなければ、と戦略家の勝なら考えますよ。 福沢には、守るべき役所の立場など、摂津守同様に自ら捨ててしまってないのですから、こちらは義理と名誉のためなんです。私怨であっても利益ではないのです。 儒教と門閥を敵視した福沢の方が、古風な精神を説いています。これも一見すれば矛盾です。 日本で一番の功労者で、落ち度のない重鎮の、スキのない勝を、批判する人が一人だけいて、それが一番売れる本を書ける塾経営者だった。貴重な存在ですよ。

signak
質問者

補足

いやいやこんな話をしているときりがありませんね。えらく福沢教の御信者のようですが、ひょっとしてKock Out Boyでしょうか。 (海舟の慶喜評他) (1)ソノ内、アーいふ事になったからネ。ソレから慶喜は、後見職といふ格で、ワシに言ひつけたのサ。(海舟座談)(第2次征長休戦協議) (2)慶喜はそれから急におれに油をかけやがって、「長州に談判に行ってくれ、天朝でもぜひ、お前の外にないと仰るから」などと、ひどく油を掛けやがった。(海舟座談)(慶喜は海舟との約束=全権一任を反故にした) (3))慶喜公は済むまいぢゃあないか。さういふ国を売るよやうな事をして置き、又、大政奉還後、外交の事は、依然、此の方にて取扱ふなどといふ書付を各国公使に渡した。(海舟座談) (4)明治25年、慶喜十男精を養子とする。 (5)明治31年、皇室と徳川家の和解が成立したその日の日記、「我が苦心30年、少し貫く処あるか」 (6)明治32年、海舟はこの世を去った。遺言により墓は「海舟」の二文字のみを刻ませたもので、爵位、贈位、経歴などは一字も刻まれることはなかった。 日本が内戦に陥らず、莫大な外国からの借金を残すこともなく、独立を確保できた最大の恩人は勝海舟その人。日本史上最高のStatesmanと思います。

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