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戊辰戦争での幕臣間の意見

最近幕末に興味があり調べていました。 調べていくうちに戊辰戦争にかなり興味をもちました。 教科書ではよく官軍側、薩長側の内容が取り上げていますが、幕府内はどのような状況だったのでしょうか? 幕臣の中でなぜ勝海舟は恭順を唱えたのか? また榎本武揚はなぜ箱館戦争をおこしたのか? またそれぞれどのような人が彼らに影響を与え、そのような行動を起こさせたのか? お答えして頂けないでしょうか? よろしくお願いします。

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回答No.1

もともと幕府が結束を失い権力が失墜したのが倒幕運動の始まりです。すでに戊辰戦争の頃には旧幕府軍は分解してて各々の意思はバラバラです。特に慶喜が京から江戸に逃げ帰って謹慎してからは、旧幕臣は一枚岩のかけらもなくなってます。 勝海舟は黒船以来から「日本人同士が争ってもしょうがない」と言い、坂本竜馬と同じように日本全体を考える思想ですから戦争を止めたいのは当然です。榎本武揚も江戸城無血開城をした時には抗戦を諦めましたが、政府の徳川家に対する処置や薩長のやり方など納得できなかったため、新政府を拒絶して自ら北海道で独自の国を作ることにしたのです。その独立国作りは単なる榎本の抵抗ではなく、職を失った幕府側の武士や幕臣達の生活を救うために蝦夷地に街を作って失業者を移住させようと計画したものです。 敗戦を続けながら北上してきた抗戦派の旧幕府軍もこの話に加わって北海道に蝦夷共和国を建国しましたが、日本の一本化を目指す新政府はこれを許さずに追ってきてそのまま函館戦争になったのです。 ですから榎本武揚は函館戦争を意図的に起こしたわけではありません。民の生活を救うために独立国家を作ろうとしたにすぎず、結果的に戦になっただけです。

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