• ベストアンサー

徳川慶喜は、箱館戦争について何か語っていますか。

徳川慶喜自身は恭順していましたが、榎本武揚や大鳥圭介他旧幕臣の一部は蝦夷地で新政府軍と戦いました。 慶喜は、旧幕府軍の戦いを「よくぞやってくれた」と思ったのか、「余計なことをしてくれた」と思っていたのでしょうか。 質問です。 1.慶喜は、箱館戦争について何か語っていますか。 2.榎本武揚、松平太郎 荒井郁之助 永井玄蕃 大鳥圭介 澤太郎左衛門ら6名は、明治5年、東京辰の口の軍務官糾問所の牢獄から釈放されましたが、慶喜はこれら6名に関して何か語っていますか。 また、これら6名の誰かと会ったり、連絡を取り合ったりしたことはありましたか。 よろしくお願いいたします。

  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数2

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • oska2
  • ベストアンサー率45% (2184/4838)
回答No.1

>慶喜は、箱館戦争について何か語っていますか。 亡くなるまで、幕末の事は一切話していません。 >慶喜はこれら6名に関して何か語っていますか。 こちらも同様で、一切話していません。 >これら6名の誰かと会ったり、連絡を取り合ったりしたことはありましたか。 明治天皇に謁見するまでは、賊扱いでしたよね。 謁見後に、名誉回復がなされています。 公爵になります。 明治天皇との会見内容は一切不明ですが、ここで何らかの話をした可能性はありますね。 「徳川慶喜公伝」(渋沢栄一著作)にも、記載がありません。 大河ドラマになっている渋沢栄一は、幕末に慶喜に仕えていましたよね。 客観的に見聞きした事を、記録として残した様です。 が、本来の目的は「慶喜の名誉回復」 ひ孫(徳川慶朝)が書いた「徳川慶喜家」でも、「慶喜は、何も語らないで趣味に没頭していた様だ」と述べています。 ※慶朝さんは、癌で死亡。慶喜家は4代で断絶。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 やはり何も語っていませんか、言いたいことは山ほどあったでしょうに。 薩長の世になったのですから、薩長の恨み言を言うのも憚らざるをえなかったのですね。

その他の回答 (1)

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10494/33001)
回答No.2

1 たぶん、何も語っていないと思います。 2 おそらく連絡もなにもしていないはずですよ。 徳川慶喜その人は、明治維新後に自分自身の直臣も含めてかつての家臣に対して徹底的に無関心でした。ですので「冷たい」と少なからず恨まれもしました。 けれど、そのおかげで平和裏に天寿を全うすることができました。もしかつての家臣たちの面倒を見てやったら、それこそ明治維新後に不満を持った薩摩武士たちが西郷隆盛の元に集まり西南戦争になったように、不平武士が慶喜の元に集まって内乱となっていたでしょう。 元々慶喜という人は水戸藩に生まれた人で、本人は少なくとも一橋家を継ぐまでは自分が将軍になるとは夢にも思わなかったと思います。 ですから、旗本というか徳川家の直臣を自分の家臣であるという自覚はほぼなかったと思います。水戸藩の家臣は自分の部下の感覚はあったでしょうけどね。 大阪からの「敵前逃亡」をして江戸城で蟄居した時点で、慶喜と勝海舟のラインは「降伏」という路線で一致していたと思います。それで当座一番血気にはやっていたであろう近藤勇を「甲陽鎮撫隊」という任務を与えて江戸から放り出してしまいました。 そこから先の出来事は「まあ、勝手にやってくれ」というものであったと思いますよ。 釈放されたかつての家臣と連絡をとらないのも当然だと思います。ヘタに連絡したら「クーデターでも考えているのではないか」と痛くもない腹をさぐられることになります。 こちらからも連絡しないし、仮に連絡が来ても無視。それが一番賢明な身の振る舞いだと思いますよ。ヘタに行動すれば、それこそ何かの御輿に担ぎ上げられかねませんからね。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 やはり、なにも語っていないのですね。 黙しておることが最善だと判断ができる、賢明な人だったのでしょう。 自身のため、宗家のため、弟・昭武のためであると。

関連するQ&A

  • 戊辰戦争での幕臣間の意見

    最近幕末に興味があり調べていました。 調べていくうちに戊辰戦争にかなり興味をもちました。 教科書ではよく官軍側、薩長側の内容が取り上げていますが、幕府内はどのような状況だったのでしょうか? 幕臣の中でなぜ勝海舟は恭順を唱えたのか? また榎本武揚はなぜ箱館戦争をおこしたのか? またそれぞれどのような人が彼らに影響を与え、そのような行動を起こさせたのか? お答えして頂けないでしょうか? よろしくお願いします。

  • 函館&松前で歴史巡り・・・

    函館&松前歴史に関するで史跡やその他施設巡りをしようと思うのですが、何処が良いのかついつい迷ってしまいます...。 オススメの場所・プランを教えて下さい。 (因みに箱館戦争では人見勝太郎、荒井郁之助、榎本武揚が好きです。特に嫌いと言った人物はいませんが…大鳥圭介はちょっとだけ苦手です…)

  • 旧幕府軍はどうして勝てるわけがない箱館戦争を戦ったのか?

    箱館戦争とは戊辰戦争の末期の戦いであり、この頃には 新政府軍の戦力は旧幕府軍を圧倒しており、もはや勝負が 見えていました。 しかし、旧幕府軍の榎本武揚らは北海道南部を拠点として、 明治政府とは別の政権を樹立しようとする荒唐無稽な 計画を立てました。 大儀がない。護るべき主君がいない。戦力がない。利益がない。 民衆の支持がない。金がない。勝ち目がない。 現代人の感覚からすれば、「コイツら馬鹿じゃないのか。 勝てるわけがないのに。」という感想もあるかと思います。 しかしそれは結果を知る者の視点であり、歴史の当事者から 見ればそうではないのかもしれません。 そんな彼らを突き動かしたものは一体なんだったのでしょうか?

  • 戊辰戦争時の軍装に詳しい方

    箱館戦争の末期に 函館において徴募に志願した歩兵が 身につけさせられた軍装(表現が正しいのかどうか不明)は どのようなデザイン(?)だったのか ご存じの方いらっしゃいませんか? できればその外見など 具体的な挿絵などが見られるとなお助かるのですが。 加えて 志願した人たちに刀の扱いなど猛特訓をしたと聞いています。 その場所はどの辺りだったのでしょう? 榎本武揚が五稜郭を明け渡す直前くらいだと思いますが 函館軍が敗走を続けて 現在の大野辺りで挟み撃ちになったとか。 その場合、志願兵らはどこの戦場から敗走してきたのか 正確なものではなくてもいいのですが 考えられる戦場を教えて下さい。 よろしくお願いいたします。

  • 勝海舟、徳川慶喜、山県有朋の共通点

     幕末・維新史に名を連ねた多くの才人が、戦死し、暗殺され、あるいは刑死していった中で、表題の3人は、勝海舟(享年77歳)、徳川慶喜(享年77歳)、山県有朋(享年83歳)と、あの時代としては、まさに天寿をまっとうしたといってよいと思います。他にもいると思いますが知識がありません。  質問は2点です。 (1)激動の時代を生き抜く、「生き方」とか、「知恵」という観点から、3人に共通する点があるでしょうか???あるとすればそれは何でしょうか???榎本武揚、西郷従道なんかも、共通する点があるかも知れませんが。 (2)幕末・維新期に限らず、例えば武士が誕生した平安~鎌倉時代や、戦乱に明け暮れた室町時代~戦国時代など、戦乱、激動の時代をくぐり抜けながら、ほぼ天寿を全うしたという人物とその生き方を紹介して下さい。徳川家康はその代表格かも知れませんが。

  • 会津藩について

    会津藩ってよく悲劇だの、義、会津魂や徳川家に最後まで忠誠だっただと会津藩って美化されすぎていませんか? 戊辰戦争での会津戦争って初めは 「会津藩は恭順していたけど、新政府軍から無理やり攻められたから仕方なく戦った」というのを聞いたのでそれを調べもせずに信じてたのですが、いろいろ調べると実際は会津藩側にも問題が ありますよね。朝命に従い軽装して京へ行こうとする慶喜に対して興奮する会津藩、桑名藩、旧幕府軍が薩摩を成敗することを慶喜に求めて、抑えられなくなった慶喜が攻撃を許可して会津藩、桑名藩、旧幕府軍は武装して京へ進軍。新政府軍の薩摩に説得されて薩摩に寝返る藩もいたために、旧幕府側は敗北。 旧幕府に味方した藩や慶喜は朝敵に。ただしすぐに恭順すれば、寛大な処置で済むように告げると桑名藩や旧幕府に味方した藩は恭順、大阪城にいた慶喜も完全恭順を決めて、開戦責任について謝罪、家名を残して欲しい、会津藩や桑名藩含めた家臣を許して欲しいと謝罪。しかし、会津藩だけは自分たちは無罪だと主張。容保は当時、慶喜と一緒に大阪城に逃げていたとはいえ、会津藩の藩主として責任を問われて出頭命令を新政府軍が出すも それに応じず。新政府軍は会津討伐を決定するも、今からでも謝罪すれば、寛大な処置もあり得ると会津藩に求めたものの、会津藩は謝罪拒否の返事を出す。 会津藩は天皇に対して恭順を示すも、新政府軍の権威は認めていませんでしたし、裏では不審な行動ばかりをとっていて、他の藩に嘆願運動を頼んでおきながらも自分たちは戦争のために庄内藩と同盟を結んでいます。最終的には会津藩が新政府軍の占領地を奇襲したことで会津戦争が始まってます。会津藩側にも降伏派はいましたが、会津藩の抗戦派に藩主の命だと嘘を言われ多くが切腹しています。 当時の会津藩には降伏の文字はなかったというのもはっきりわかっています。戊辰戦争研究家も会津藩側の書類には一切謝罪 や恭順の文字がなかったと言っています。 池田屋事件についても志士側の京都の火の海計画である「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち・・・」というのも これは今の研究では新選組による陰謀の可能性が高い事が わかっています。 新選組の行動の辻褄が合わないようです。また志士側の 持ち物にもそのような道具はなく、木戸の日記にも 仲間を救出するためとあります。 京都の観光サイトだと京都に長年住んでいる人からしたら 祇園祭の前に強い風が吹く事がありえないことくらいわかるから 無謀な計画。新選組による陰謀だと言っています。 そもそもこの京都の火の海計画って信憑性自体がかなり低いものなんですが、なぜかこれが真実かのように広まっていますよね。新選組は計画を阻止したなんて言われていますが。 2020年に大学講師が新選組が村に分宿「生活に迷惑」 という内容である豪農日記を分析しています。 2013年には会津藩と庄内藩が幕府から防衛のためと言われて譲渡された蝦夷地を担保にしてドイツから軍資金を得ようとしていたのが明らかになっています。北海道新聞にも大きく掲載されました。これって孝明天皇を裏切る行為とも言えますよね。容保は鳥羽の戦が始まった後に、藩主を辞職しているので、容保が関わっているのか、容保が辞めた後に会津藩が勝手にドイツと交渉をしたのかはわかりませんが。脱藩した水戸藩士を使って略奪行為をしたり、戦争のために町民から財産の没収したり、農民に対しては米も奪っています。 容保がいない会津藩は好き勝手やって暴走してるようにも見えます。 あれだけ新政府軍から埋葬を禁止されただのと言われていたのに2016年に会津若松市で戦後の一週間後に政府の命令で埋葬された証拠が出てきています。福島県郡山出身の歴史家の野口さんが言うにはそもそも埋葬が禁止されたとか長い間放置されたなんていう証拠は ないみたいです。小説やエッセーで使われるようになってそれが 広まっちゃったとか。 皆さんはどう思われますか? 別に会津藩自体が嫌いなわけではないです。

  • 徳川慶喜について

    徳川慶喜について皆さんはどう思いますか?例えば鳥羽伏見の敵前逃亡や長州征伐時旗本を率いて最後の1兵まで戦うとかいきなりの保身行動。。。会津は勝手にしろみたいな行動、これが先代の家茂だったらどうだと思いますか?

  • 徳川慶喜

    15代将軍になったのに、彼やその子孫が明治以降本家筋と見做されていないのはなぜでしょうか。やはり鳥羽伏見の戦いで敵前逃亡したことを一族から非難されたとかですか。

  • 徳川慶喜はなぜ?

    いろいろな考え方があるようですが、私は、幕末の将軍が徳川慶喜のような方(タイプ)で よかったと思っています。  引くことも大事だと思います。ただ、なぜ、鳥羽・伏見の戦いから逃げるときに、撤退命令を 出さなかったのでしょうか。 また、錦旗を見て、自分が賊軍なっていることを知って急いで退散。淀川を下ったのもわかり ますが、開陽丸と間違えてアメリカの軍艦で一夜過ごす?というのも、今一つわかりません。 宜しくお願いします。

  • 勝海舟の人物像

    幕末・維新の簡単な通史を読むと、勝海舟について、概略、以下のようなことが出てきます。 (1)ペリー艦隊の来航(いわゆる黒船来航)時に、海防に関する意見書を提出した。 (2)幕府の遣米使節派遣時に、護衛と言う名目で咸臨丸も渡航し、遣米使節の補充員として乗船した。 (3)徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任される。勝は単身で談判に臨み長州の説得に成功した。 (4)明治元年、官軍の東征が始まると、旧幕府方を代表する役割を担う。早期停戦と江戸城の無血開城を主張、歴史的な和平交渉をなしとげる。 (5)明治維新後は、参議、海軍卿、枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙せられた。 しかし、何故か、勝海舟の人物像というのが浮かんできません。勝海舟を主題にした小説を読んでいないからだと思いますが、幕末・維新史への登場が断片的な気がするのです。 ウィキの記述や参考書から、その人物像の一端を、私なりに整理してみました。(下記) (1) 幕府の要人でありながら、明治32年まで生きたということは、それなりに世渡りが上手かったのか?そのことが、関連するかどうかは分かりませんが、旧幕臣の代表的人物でありながら、なぜか榎本武揚をはじめとした旧幕臣からの信頼も薄いようにも見受けられます。徳川慶喜の信頼は厚かったようですが。 (2) 『明治維新後改名して安芳。勝本人は「アホウ」とも読めると言っている。』……発言の意図は分からないが、多少のユーモアのセンスがあるのか?あるいは、卑下しなければならないような理由・経歴があるのか? (3) 神戸の港湾としての発展を見越して、付近の住民に土地の買占めを勧め、勝自身も土地を買っていた……お金に無頓着ではなかったということか? (4) 徳川家の取扱いに関する交渉に当たり、江戸の町もろとも敵軍を殲滅させる焦土作戦の準備をして西郷に決断を迫った。……外交的、戦略的センスがある人物か? (5) 旧幕臣たちによる「徳川氏実録」の編纂計画を向山黄村を使い妨害している。……幕府の要人であったにもかかわらず、このような行動をするということは、彼の活動の中に、何か後ろめたいものがあるのか? (6) 「氷川の大法螺吹き」となじられることもあった。……(4)とも関連するが、適切な表現が見つかりませんが、「見栄っ張り」の性格を持っていたのか? ここで質問なのですが、 (1) 勝海舟の人物像として、上記の(1)~(6)について、どう思いますか? (2) 勝海舟の人物像について、あなたが知っていること、考えていることを教えて下さい。 (3) 勝海舟の人物像がよく理解できる小説をご存じであれば、紹介して下さい。 ご回答は、上記(1)~(3)の一つだけでもかまいません。