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勝海舟の人物像

幕末・維新の簡単な通史を読むと、勝海舟について、概略、以下のようなことが出てきます。 (1)ペリー艦隊の来航(いわゆる黒船来航)時に、海防に関する意見書を提出した。 (2)幕府の遣米使節派遣時に、護衛と言う名目で咸臨丸も渡航し、遣米使節の補充員として乗船した。 (3)徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任される。勝は単身で談判に臨み長州の説得に成功した。 (4)明治元年、官軍の東征が始まると、旧幕府方を代表する役割を担う。早期停戦と江戸城の無血開城を主張、歴史的な和平交渉をなしとげる。 (5)明治維新後は、参議、海軍卿、枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙せられた。 しかし、何故か、勝海舟の人物像というのが浮かんできません。勝海舟を主題にした小説を読んでいないからだと思いますが、幕末・維新史への登場が断片的な気がするのです。 ウィキの記述や参考書から、その人物像の一端を、私なりに整理してみました。(下記) (1) 幕府の要人でありながら、明治32年まで生きたということは、それなりに世渡りが上手かったのか?そのことが、関連するかどうかは分かりませんが、旧幕臣の代表的人物でありながら、なぜか榎本武揚をはじめとした旧幕臣からの信頼も薄いようにも見受けられます。徳川慶喜の信頼は厚かったようですが。 (2) 『明治維新後改名して安芳。勝本人は「アホウ」とも読めると言っている。』……発言の意図は分からないが、多少のユーモアのセンスがあるのか?あるいは、卑下しなければならないような理由・経歴があるのか? (3) 神戸の港湾としての発展を見越して、付近の住民に土地の買占めを勧め、勝自身も土地を買っていた……お金に無頓着ではなかったということか? (4) 徳川家の取扱いに関する交渉に当たり、江戸の町もろとも敵軍を殲滅させる焦土作戦の準備をして西郷に決断を迫った。……外交的、戦略的センスがある人物か? (5) 旧幕臣たちによる「徳川氏実録」の編纂計画を向山黄村を使い妨害している。……幕府の要人であったにもかかわらず、このような行動をするということは、彼の活動の中に、何か後ろめたいものがあるのか? (6) 「氷川の大法螺吹き」となじられることもあった。……(4)とも関連するが、適切な表現が見つかりませんが、「見栄っ張り」の性格を持っていたのか? ここで質問なのですが、 (1) 勝海舟の人物像として、上記の(1)~(6)について、どう思いますか? (2) 勝海舟の人物像について、あなたが知っていること、考えていることを教えて下さい。 (3) 勝海舟の人物像がよく理解できる小説をご存じであれば、紹介して下さい。 ご回答は、上記(1)~(3)の一つだけでもかまいません。

noname#205122
noname#205122
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みんなの回答

noname#204885
noname#204885
回答No.7

♯3です。 >「頼まれたら嫌とは言えない、任侠的で親分肌なところがあった。」……これなのですよね。不思議なのは。 鍵となるのは『体制内反逆者』と言う言葉だと思います。 反逆者とは、本来体制から抹殺されるべき存在ですが、体制側よりも知恵があって、かつ権力との間合いを十分に見切れる能力があれば、体制内でも反逆者として生きていけます。 こういう人は、(そもそもが反逆者なので)体制が危機となっても倒れそうでもいっこうに気にしません。その一方で、体制外反逆者のように体制から命を狙われている訳でもないので、必死になって体制を倒す必要もありません。良く言えば自立した存在、悪く言えば日和見主義者となることが多いです。いずれにせよ、こういう人達は能力はあるが体制内で出世できないので、どこか世の中にたいして斜に構えたようなところがあります。その代わり、世の中がどう転んでも生きていけるので、ちょっと高見の見物的な余裕が感じられます。 任侠と言うのは、体制側でも反体制(犯罪者)でもない、体制内反逆者の典型例ですので、多くの体制内反逆者は任侠的な雰囲気を帯びているような気がします。多分、本人もそういう雰囲気を好むのでしょう。 今の政治家で言うと、小泉純一郎が体制内反逆者に近いように思います。この人もちょっとべらんめえ的なところがありますよね。私は、勝海舟も小泉純一郎も好きなのですが、嫌いな人は、このどちらも嫌いと言う人が多いのではないのでしょうか(間違ってるかもしれませんが…。)

noname#205122
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございました。恐縮しています。<(_ _)> 「頼まれたら嫌とは言えない、任侠的で親分肌なところがあった。」……これなのですよね。不思議なのは。……幼い頃から新門辰五郎にかわいがられたということの影響なのでしょうね。 『鍵となるのは…………高見の見物的な余裕が感じられます。』……よくわかりました。確かに海舟ほどかっこよくはありませんが、現代でも、また、どんな組織にも、『体制内反逆者』モドキはいますね。ただし、「モドキ」はあくまでも「モドキ」ですから、自立もしていないし、日和見というよりも、風見鶏のような輩が。(*^_^*) 「頼まれたら嫌とは言えない、任侠的で親分肌なところがあった。」ということと、「多分、本人もそういう雰囲気を好むのでしょう。」……幼い頃から新門辰五郎にかわいがられたということと考え合わせると、理解できるような気がしました。 「このどちらも嫌いと言う人が多いのではないのでしょうか」……間違っていないと思いますが、どうでしょうか?ほとんどの人は、理解しないで、「好き」、「嫌い」だけを論じているのだと想像しています。 私は、小泉純一郎は、確かに海舟に似た面はあるかも知れませんが、体制内反逆者だとは、思えません。「体制内反逆者」と呼ばれるに値するほど、そんなに立派な人物ではないように思います。むしろ「モドキ」ではないでしょうか?今回、皆様方からいただいたご回答を呼んで、小泉純一郎は、勝海舟とは、全く違うと理解しました。

noname#205122
質問者

補足

皆様方から、大変貴重なご回答をいただき、本当にありがとうございました。どういうわけか、私の質問には、大変充実した内容のご回答が寄せられます。このご回答に対しては、OKWaveの趣旨からしても「ベストアンサー」を選んで終了すべきでしょうが、「一人だけ」ということであれば、今回も選ぶことが出来ません。<(_ _)> 回答者全員が「ベストアンサー」と思っていただけるような「締め切りの方法」はないでしょうか?(T_T)……今度は、これを質問してみよう。(*^_^*)

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.6

お礼ありがとうございます。 >(1) 確か、新門辰五郎の娘は慶喜公の妾ではなかったですか?「慶喜とも馬が合わなかったとも言われています。」という、それが本当だとすれば、その理由は何でしょうかねぇ。二人は「身内」も同然という仲ですよね。身内だからこそ、「馬が合わなかった」のですかね。 (2) (1)のことを考えると、第二次長州征伐の停戦交渉の後、慶喜公のやり方に海舟はすねていますが、これも一種のポーズだとも考えられますね。 (3) 「女好きで何人も妾を持つ」……この点は、おそらく慶喜公と話が弾んだでしょうね。(*^_^*) 実はここいら辺りが、人により評価の判断がまちまちな所で、私も良く判らないのです。 慶喜の人物評価も優秀なのか、お坊ちゃまなのか、人によってまちまちなので何とも煮え切らない説しか唱えられないのです。 慶喜との仲は正反対の説が存在するので、私は取り合えず、幕末時の二人の関係だけから推察して書き込みました。 少なくとも勝の軍艦奉行の罷免時に慶喜が弁護した等の説が見当たらなかった為です。 政策においては事在る毎にぶつかっていました。 しかし明治になってから慶喜の爵位授受の為に奔走したり、晩年には海舟の孫娘に婿養子として慶喜の十男の精(くわし)が跡継ぎとして入っています。 仲は修復されて(元々良かったのか?判らないのです)いたのは判ります。 >(4) 「受爵も渋々受けたと、語られており、また式は代理を立てたそうです」というのが事実であれば、すごい大人物というか、大馬鹿というか。「明治天皇」をないがしろにするような行為なのでしょ。 代理は特に問題はありませんし、辞退も同様です。 本人の言として「自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ。」との言葉が残っておりますので、その様な飄々とした面があったかと思います。 まぁ、中々高評価を受けられない自身に対する慰めの意味もあったかもしれませんが、辞世の言葉の「コレデオシマイ」が真実を突いているのではないでしょうか。

noname#205122
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございました。恐縮しています。<(_ _)> 「慶喜の人物評価も優秀なのか、お坊ちゃまなのか、……」……私は、慶喜は、頭が切れる人物だったと思います。お坊ちゃまではなかったと思います。しかし、海舟とは、全く違うと感じます。新門辰五郎との関係からすれば「身内も同然」の関係にありながら、慶喜の将軍としての、武士としての、人間としての覚悟の乏しさに、「おまえさん、何やっているの……???」という気持ちというか、慶喜に対する思いが、海舟にはあったのではないでしょうか?……私の個人的な印象です 「政策においては事在る毎にぶつかっていました。」……この辺の事情は、私も勉強不足で分かりませんが、上述の事情や性格の違いなどを総合すると、「納得」という感じです。 「慶喜の爵位授受の為に奔走したり、晩年には海舟の孫娘に婿養子として慶喜の十男の精(くわし)が跡継ぎとして入っています。」……私のような下賤の人間には、理解が及びませんが、腐れ縁というものでしょうか。 「自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ。」……この言葉で、私は海舟を尊敬します。私も人生そうありたいと心がけています。「飄々とした面」という以上の「人間としての生き方」を知っていたのだと感じます。紹介していただいたことをお礼申し上げます。ありがとうございました。 「コレデオシマイ」……意味が分からないというか、大人物なのでしょうが、「寂しさ」を漂わせます。これも海舟像なのかなという気がします。

noname#205122
質問者

補足

皆様方から、大変貴重なご回答をいただき、本当にありがとうございました。どういうわけか、私の質問には、大変充実した内容のご回答が寄せられます。このご回答に対しては、OKWaveの趣旨からしても「ベストアンサー」を選んで終了すべきでしょうが、「一人だけ」ということであれば、今回も選ぶことが出来ません。<(_ _)> 回答者全員が「ベストアンサー」と思っていただけるような「締め切りの方法」はないでしょうか?(T_T)……今度は、これを質問してみよう。(*^_^*)

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10478/32953)
回答No.5

だいたい#3さんに書かれているので、その補足の意味合いで。 1. 勝海舟に限らず、旧幕府側で新政府によって血祭りにあげられた人はほとんどいません。特に立場が高くなればなるほど。他ならぬ徳川慶喜は天寿を全うしていますし、勝海舟もそうですが、松平容保でさえ天寿を全うしています。徳川慶喜なんか、維新後は静岡の自宅近辺を趣味のカメラを持って一人でうろちょろしていたことで有名ですが、逆にいえば「お前のせいで俺はこんなに落ちぶれた!」といって襲いに来た奴が誰もいなかったってことです。 2. 多少のユーモアどころか、勝海舟のお父さんの勝小吉さんは破天荒な人物で、「夢酔独言」という回想録を残しています。その内容が「決して俺の真似をしてはいけないから、そのことをこれから書いていくよ」ってなもので、文体は当時は文語体といって話し言葉と書き言葉は別々なのが常識だったのですが、口語体で書かれていて、しかもその内容は「昔信州に検地に行ったんだが、手心を加えてやったから農民にはずいぶん喜ばれたよ」とツィッターでつぶやいたら炎上間違いなしの内容だったり、「箱根の関所を突破したぜ」というホラ話とか思えないものだったり、まあ面白い人ですよ。 その息子で江戸っ子ですからね。野暮な人ではなかったようですよ。 3. 貧乏では苦労した人です。江戸っ子ってのは見栄っ張りですからお金に困っていても「お金に困ってる」とは口にしないのですが、お金に対する執着心は人並みにあったとは思いますよ。だけど、そう見せたがらないのが江戸っ子なのです。 4. これは#3さんのいう、ハッタリは得意だけど根回しは苦手の真骨頂ですな。勝海舟は江戸の大物侠客新門辰五郎とお父さん(勝小吉)の代からの交友があっていざというときは新門辰五郎の一門を使って江戸を焦土にすると西郷隆盛に迫ったわけですが、いかな勝海舟や新門辰五郎といえどじゃあ実行できるかといったらそれはまた別の話しだったと思います。しかし、西郷隆盛をして「こいつだったらやりかねないし、実行する能力も持っている」と思わせるだけの実力はあったと思います。 外交的、戦略的センスというより、ポーカーゲームの駆け引きに長けていたというべきでしょうね。ただ、外交ってのは基本的にハッタリとブラフのポーカーゲームですから、そういう意味では外交センスがあったといえるでしょう。 5. その辺の事情は分かりませんが、#3さんも書いているように、好かれるか嫌われるか両極端な人だったから、その当たりの人間関係も絡んでるのではないでしょうかね。本人も好き嫌いが激しい性格だったみたいだし。 6. 落語に出てくるおっちょこちょいでちょっと抜けてる江戸っ子の典型なんじゃないかって思います。 「男はつらいよ」のおいちゃんを森川信さんが演じていた頃の寅さんとおいちゃんですね。コミカルで、フットワークが軽いけど口も軽くてケンカっ早くて、愛すべき人物だけど、尊敬はされないって感じですね。

noname#205122
質問者

お礼

(1)~(6)につきまして、一つ一つ、的確なコメントをいただきありがとうございました。 (1) 『「お前のせいで俺はこんなに落ちぶれた!」といって襲いに来た奴が誰もいなかったってことです。』……何となく分かります。今でも「徳川」の姓をなのる人に出くわしますが、私のような「水呑百姓」の出は、何故か、「その人物」ではなくて、「名前だけで、恐れ多い」という気持ちになるのですよね。そして、理由もないのに「頭を下げたり」してしまうのです。古い人間だから、『「生まれ」だけはいかんともしがたい』と考えてしまうのです。(T_T) (2) 「江戸っ子」というのは、他国人には分からない。だから「江戸っ子」なんですね。京都は、江戸以上に分かりませんが、150年前は、日本も、広かったということでしょうか? (3) 妾が何人かいたようですから、「お金」は必要ですよね。海舟も人間ですね。それにしても恨めしい。じゃなかった。「羨ましい」です。(*^_^*) (4) 「いかな勝海舟や新門辰五郎といえどじゃあ実行できるかといったらそれはまた別の話」……このような柔軟な考え方が、頭が硬くなっているので、私に出来ないのです。これが出来るようになれば、歴史の見方も、もっと広がると思うのですが。(T_T) (5) 「好き嫌いが激しい性格」であれば、味方も敵も多くなりますし、最終的には、本人の「覚悟」の問題ですよね。海舟には「覚悟」があった。慶喜には「覚悟」がなかった、ということですかねぇ。 (6) 「愛すべき人物だけど、尊敬はされないって感じですね。」……私も、「究極の海舟像に迫ってきた」という気持ちになりました。

noname#205122
質問者

補足

皆様方から、大変貴重なご回答をいただき、本当にありがとうございました。どういうわけか、私の質問には、大変充実した内容のご回答が寄せられます。このご回答に対しては、OKWaveの趣旨からしても「ベストアンサー」を選んで終了すべきでしょうが、「一人だけ」ということであれば、今回も選ぶことが出来ません。<(_ _)> 回答者全員が「ベストアンサー」と思っていただけるような「締め切りの方法」はないでしょうか?(T_T)……今度は、これを質問してみよう。(*^_^*)

noname#224207
noname#224207
回答No.4

No.1です わざわざお礼を記入して頂いて有難うございます。 >「江戸っ子がいるのか」ということと、 谷中だの根津だの千駄木などに微かに生息しています。 本所深川浅草神田の一帯はB29がきれいさっぱり焼き払ってくれました。 逃げた先が葛飾です。 寅さんのおいちゃんやおばちゃんみたいなのが今でもいます。 生っ粋の江戸弁を使います。(完全な方言です) >その現代の江戸っ子が、「勝海舟のことを知っている」という「驚き」です。 知っちゃいません。 江戸っ子てぇのは勢いで話をします。 上野の彰義隊の墓碑に尻を向けて立っている西郷さんの銅像なぞボロカスです。 あくまでも公方様のお江戸です。 薩摩の田舎侍とけったくして、公方さまを粗末にしたヤツぐらいにしか考えていません。 所詮五月の鯉の吹き流しです、腹はありません。 まぁ~今時流行らい論法ですが、箱根の向こうに分るもんか!とかなんとか粋がります。 江戸以外の人間はみんな「箱根の向こう」です。 西も東もかまうこっちゃありません全部一緒です。 漱石の「ぼっちゃん」の婆やと同じです。

noname#205122
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございました。恐縮しています。 「根津だの千駄木」など、懐かしいですね。私の記憶に間違いがなければ、地下鉄「千代田線」の沿線ではないですか?いや、「東西線」でしたっけ???忘れてしまいました。30数年前に通勤で利用していましたが、残念ながら、途中下車しませんでした。 勝海舟って、上野に西郷隆盛の銅像を建てることにも尽力していませんでしたか?

noname#205122
質問者

補足

皆様方から、大変貴重なご回答をいただき、本当にありがとうございました。どういうわけか、私の質問には、大変充実した内容のご回答が寄せられます。このご回答に対しては、OKWaveの趣旨からしても「ベストアンサー」を選んで終了すべきでしょうが、「一人だけ」ということであれば、今回も選ぶことが出来ません。<(_ _)> 回答者全員が「ベストアンサー」と思っていただけるような「締め切りの方法」はないでしょうか?(T_T)……今度は、これを質問してみよう。(*^_^*)

noname#204885
noname#204885
回答No.3

当時としては珍しい、広い視野と先を読む力を持っていた人であったことは間違いない。坂本龍馬を陶酔させたし、西郷隆盛とも気が合った。高い視点から揉め事を治めるのが得意だった。スケールの大きい人だったと思います。 その一方で、プライドが高く、意地っ張りで、出たとこ勝負は得意でも周到な根回しは苦手だった。良くも悪しくも子供っぽいところがあった。渡米の時は司令官であったにもかかわらず船酔いのために殆ど船室で寝込んでいたが、この醜態を福沢諭吉に暴露されてしまい、以後福沢諭吉は勝海舟の天敵になります。 決して理想主義者ではなく、醒めた目の現実主義者だった。良く言えば因習にとらわれない。悪く言えば信念が無い。最後まで徳川に忠誠を尽くし、その挙げ句無惨に切り殺された小栗上野介とは対照的な人生観でした。 頼まれたら嫌とは言えない、任侠的で親分肌なところがあった。徳川慶喜のために力を尽くしたのも、忠誠心からでは全くなく、将軍に頼られたことを意気に感じた(そしてプライドを満足させられた)から。 とまあ、こういう人だったのではなかったのでしょうか。今でも評価は二分されますが、何かことを一つ成し遂げたと言う訳ではないが、乱世で一瞬の光芒を放つ、こういう名脇役みたいな人は、私は好きです。

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 「広い視野と先を読む力を持っていた人であったことは間違いない。」というのは、理解できます。何かで読んだのですが、「日本を守るためには、海軍力しかない」ということで、その必要兵力まで、計算していたそうですね。 「坂本龍馬を陶酔させたし、西郷隆盛とも気が合った。」……そうなのですか?知りませんでした。江戸城無血開城での、西郷隆盛との関係は、読んだことはありますが、二人の人間関係が、事実なのか、作り話なのか、まだ理解できていません。 「江戸の町もろとも敵軍を殲滅させる焦土作戦の準備」というのは、「出たとこ勝負の仕掛け」ということですかねぇ。 「福沢諭吉は勝海舟の天敵になります。」……明治の人は個性が強いですね。(*^_^*) 「明治という国家」を作ってきた偉人はたいしたものだと思いますが、私は、小栗上野介の生き方が好きですね。 「頼まれたら嫌とは言えない、任侠的で親分肌なところがあった。」……これなのですよね。不思議なのは。「べらんめぇ調」のしゃべりと。これが本性から出ているのか、ポーズとして出しているのか?ポーズを取る人間は現代にも、沢山いますから。 どうしても、人間像が浮かんでこないのです。もしかすると、それが海舟の生き方だったりして。(*^_^*)

noname#205122
質問者

補足

皆様方から、大変貴重なご回答をいただき、本当にありがとうございました。どういうわけか、私の質問には、大変充実した内容のご回答が寄せられます。このご回答に対しては、OKWaveの趣旨からしても「ベストアンサー」を選んで終了すべきでしょうが、「一人だけ」ということであれば、今回も選ぶことが出来ません。<(_ _)> 回答者全員が「ベストアンサー」と思っていただけるような「締め切りの方法」はないでしょうか?(T_T)……今度は、これを質問してみよう。(*^_^*)

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.2

勝海舟(麟太郎)は御家人身分出身です。 ですので幕閣とは相性は良くなく、慶喜とも馬が合わなかったとも言われています。 しかし努力家で、剣術・砲術・蘭語・航海術・英語等を学び、幕末の混乱の中、才覚を表します。 剣は直心影流の免許皆伝。 下町育ちと言いますか、市井で育ったため言葉もべらんめぇ調だったとか。 新門辰五郎にも子供の頃からかわいがられていたと言う話も。 女好きで何人も妾を持つが、妻妾同居をしたりしていた。 ちなみに妻も元芸者とか。 佐久間象山に妹が嫁いでおり、佐久間象山の義理の兄。 有名なエピソードで欧米からの帰国後の幕閣への報告で「我が国と違い、アメリカで高い地位にある者はみなその地位相応に賢うございます」等と発言したとありますので、方言癖はあったようです。 私なりの人物評価としては、政治思想に詳しく、発想・着眼点が優れていたと思われます。 しかしその意見が十分に通る事はあまり無く、周りに不満を常に感じていた模様です。 実力主義の現実主義だと思われ、飾らない言葉が多く残されています。 受爵も渋々受けたと、語られており、また式は代理を立てたそうですので、政策を取り上げられる方が嬉しいと考えるような人物ではなかったかと思います。

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 私が知りたい「人物像」が見えてきたような気がします。 再度のご回答の必要はありませんが、4点だけが気になりました。 (1) 確か、新門辰五郎の娘は慶喜公の妾ではなかったですか?「慶喜とも馬が合わなかったとも言われています。」という、それが本当だとすれば、その理由は何でしょうかねぇ。二人は「身内」も同然という仲ですよね。身内だからこそ、「馬が合わなかった」のですかね。 (2) (1)のことを考えると、第二次長州征伐の停戦交渉の後、慶喜公のやり方に海舟はすねていますが、これも一種のポーズだとも考えられますね。 (3) 「女好きで何人も妾を持つ」……この点は、おそらく慶喜公と話が弾んだでしょうね。(*^_^*) (4) 「受爵も渋々受けたと、語られており、また式は代理を立てたそうです」というのが事実であれば、すごい大人物というか、大馬鹿というか。「明治天皇」をないがしろにするような行為なのでしょ。

noname#205122
質問者

補足

皆様方から、大変貴重なご回答をいただき、本当にありがとうございました。どういうわけか、私の質問には、大変充実した内容のご回答が寄せられます。このご回答に対しては、OKWaveの趣旨からしても「ベストアンサー」を選んで終了すべきでしょうが、「一人だけ」ということであれば、今回も選ぶことが出来ません。<(_ _)> 回答者全員が「ベストアンサー」と思っていただけるような「締め切りの方法」はないでしょうか?(T_T)……今度は、これを質問してみよう。(*^_^*)

noname#224207
noname#224207
回答No.1

(1) 勝海舟の人物像として、上記の(1)~(6)について、どう思いますか? 時流に乗って上手く立ち回っただけ。 幕府に人がいなかったために相対的に時代の全面に押し出されただけだと思います (2) 勝海舟の人物像について、あなたが知っていること、考えていることを教えて下さい。 自分では江戸っ子だ!といっていますが、江戸っ子からは今でも評判が悪い人物です。 (3) 勝海舟の人物像がよく理解できる小説をご存じであれば、紹介して下さい。 小説ではありませんが下記が手頃かと思います 氷川清話 講談社学術文庫 著者: 勝海舟 編者: 江藤淳 編者: 松浦玲 海舟語録 勝海舟 江藤淳 松浦玲 講談社 勝のように個性が強い人物を扱った時代小説は作者の好き嫌いが極端に出ますので注意して下さい。 なお、人物評価の概要は以下のサイトでも分かるかと思います。 勝海舟 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/勝海舟

noname#205122
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 「自分では江戸っ子だ!といっていますが、江戸っ子からは今でも評判が悪い人物です。」……「えぇ~、本当」という驚きです。今でも、「江戸っ子がいるのか」ということと、その現代の江戸っ子が、「勝海舟のことを知っている」という「驚き」です。 私は、今頃、こんな事を質問しているのですから、恥ずかしくなります。 「氷川清話」のことは聞いたことがあります。過去に「その一節」を読んだ記憶があります。その時は、歴史に、関心がなかったので、ただ、「立派なことを言う人物がいたのだなぁ」くらいにしか思っていませんでした。確かに、現代人にも通じるものがあるような印象を持った記憶があります。しかし、明治32年まで、生きていたのですよね。徳川慶喜の「昔夢会筆記」と同じで、そのまま信用してよいものか?という疑問は生じますよね。

noname#205122
質問者

補足

皆様方から、大変貴重なご回答をいただき、本当にありがとうございました。どういうわけか、私の質問には、大変充実した内容のご回答が寄せられます。このご回答に対しては、OKWaveの趣旨からしても「ベストアンサー」を選んで終了すべきでしょうが、「一人だけ」ということであれば、今回も選ぶことが出来ません。<(_ _)> 回答者全員が「ベストアンサー」と思っていただけるような「締め切りの方法」はないでしょうか?(T_T)……今度は、これを質問してみよう。(*^_^*)

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    このURLにある「勝海舟江戸開城図」は、江戸城を明け渡したその日の勝海舟を描いたもので、いろんな書物に載っていますが、勝の後方に描かれている3人は何者でしょうか。 東京都歴史文化財団 http://www.rekibun.or.jp/license/picture_02_06.html# この画像では不鮮明ですが、角川文庫『日本史探訪 22 幕末維新の英傑たち』の口絵写真を見ますと、彼らは外国人のようで、右側の男が刀か剣を持ち、勝を背後から睨んでいるようです。 それを左側の男がなだめているような感じです。 二人の後にも一人の顔が見えますが、表情は分かりません。 勝の足元の丸い物体は、葵の紋の軒丸瓦です。 この絵は、徳川家に恩義を抱く旧幕臣・川村清雄が、明治17年頃、描いたもので、江戸城を明け渡したその帰途と説明されています。 勝の後方にわざわざ3人を描いたのは、何か意図があったと思うのですが、何を表現しているのでしょうか。 想像でも良いですから教えてください。 それをヒントに考えます。

  • 吉田松陰と勝海舟

    吉田松陰の『幽囚録』(内容は下記URLをご参照下さい) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E6%9D%BE%E9%99%B0 http://www7a.biglobe.ne.jp/~katatumuri/yosida/syoin60.htm を読むと、筆者の名前を伏せれば石原莞爾か東條英機の主張としても通じそうな内容で、事実、松陰の薫陶を受けた伊藤博文、山県有朋らの長州閥の手により始められた日清・日露戦争を経てやがて日中・太平洋戦争へと突入していく帝国主義の道を歩んでいったことは、改めてご説明するまでもないと思われます。 一方、幕臣でありながら薩長との早期停戦、江戸城無血開城を主張した勝海舟は、維新後、明治政府で参議、海軍卿の要職を務めながらも、軍事力強化に興味がなかったのか、仕事に精を出さず、また、自ら育てたとも言える海軍が日清戦争に参加するのに終始反対しました。三国干渉で窮地に立たされた時も、「政府のやることなんてぇのは実に小さい話だ」と批判しています。(出典は下記URL) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F もっとも聞いた話ですが、西郷と親しかったせいか、征韓論には賛成したそうです。 勝海舟には、中国に進出すれば必ず欧米列強と対峙(利権をめぐる衝突)せざるを得なくなり、中国を植民地化することはおろか逆に列強から日本の独立自体を侵されかねないという考えがあったのでしょうか? 歴史は皮肉にも吉田松陰の敷いた路線をひた走った結果、勝海舟の予想通りになってしまったわけですが、もし日本が帝国主義路線でなく勝海舟の主張通り中国進出を行わず、せいぜい朝鮮半島留まりであったならば、欧米列強、殊に米国と敵対することもなく、あのような未曾有の戦禍を免れ、明治維新から現在に至るまで東洋の一小国としてささやかな繁栄を謳歌する独立国たり得たのではないかと考えるのは、穿った見方でしょうか?

  • 勝海舟、徳川慶喜、山県有朋の共通点

     幕末・維新史に名を連ねた多くの才人が、戦死し、暗殺され、あるいは刑死していった中で、表題の3人は、勝海舟(享年77歳)、徳川慶喜(享年77歳)、山県有朋(享年83歳)と、あの時代としては、まさに天寿をまっとうしたといってよいと思います。他にもいると思いますが知識がありません。  質問は2点です。 (1)激動の時代を生き抜く、「生き方」とか、「知恵」という観点から、3人に共通する点があるでしょうか???あるとすればそれは何でしょうか???榎本武揚、西郷従道なんかも、共通する点があるかも知れませんが。 (2)幕末・維新期に限らず、例えば武士が誕生した平安~鎌倉時代や、戦乱に明け暮れた室町時代~戦国時代など、戦乱、激動の時代をくぐり抜けながら、ほぼ天寿を全うしたという人物とその生き方を紹介して下さい。徳川家康はその代表格かも知れませんが。

  • 鳥羽伏見の戦いのとき勝海舟は何をしていたのか

    この間のNHKの番組を見て、いろいろ疑問がわくのですが、新政府というのは政権を確保していたのか、政府があるのにどうして旧幕府が軍隊を動かせたのか、フランスが指導していたのは武士だとしてもどこから人を集めたのかというような初歩的な疑問ばかりわいてきます。勝海舟のことも同じですが、実際はどうだったのでしょうか。

  • 日本史の授業で明治維新に活躍した人物を調べています。

    日本史の授業で明治維新に活躍した人物を調べています。 私は「勝海舟」に興味をもっているので今、調べている途中です。 でも、調べてもなかなかいいサイトが見つかりません。 いいサイトがあればぜひ教えて下さい。 また、明治維新で起こった事件が書いてあるサイトがあれば教えて下さい。 お願いします。

  • 徳川慶喜は、箱館戦争について何か語っていますか。

    徳川慶喜自身は恭順していましたが、榎本武揚や大鳥圭介他旧幕臣の一部は蝦夷地で新政府軍と戦いました。 慶喜は、旧幕府軍の戦いを「よくぞやってくれた」と思ったのか、「余計なことをしてくれた」と思っていたのでしょうか。 質問です。 1.慶喜は、箱館戦争について何か語っていますか。 2.榎本武揚、松平太郎 荒井郁之助 永井玄蕃 大鳥圭介 澤太郎左衛門ら6名は、明治5年、東京辰の口の軍務官糾問所の牢獄から釈放されましたが、慶喜はこれら6名に関して何か語っていますか。 また、これら6名の誰かと会ったり、連絡を取り合ったりしたことはありましたか。 よろしくお願いいたします。