勝海舟と幕府の武器の選択に関して

このQ&Aのポイント
  • 鳥羽伏見の戦いや戊辰戦争では武器の性能が勝敗を分け、長州や薩摩が最新の鉄砲を準備。一方で勝海舟はアメリカでライフルを見ても興味や購入意思はなかった。
  • 勝海舟は維新回転を望んでおり、徳川幕府に見切りをつけていた可能性がある。
  • 封建時代を終え近代日本の始まりは日本人にとって良かったと考えられる。
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勝海舟

鳥羽伏見の戦いや戊辰戦争では武器(主として鉄砲)の性能の差が勝敗を分けたとよく言われています。もちろん他の要因(慶喜が江戸へ逃げ帰って兵士の戦闘意欲を削いだ等)もあってでしょうが。 長州や薩摩が坂本龍馬の協力で最新の鉄砲を準備したという事は有名な話ですが、  一方幕府側で勝海舟が咸臨丸でアメリカへ渡りサンフランシスコで大歓迎を受けています。その際アメリカでライフル(西部劇でよく見るウィンチェスター銃類)を見る機会もあったでしょうに、どうして幕府側は興味も無く購入する意思も無かったのでしょうか? 関連の本を見てもこのような事を書かれているものを私は見つけることが出来なくてずっと疑問に思っております。 江戸っ子幕臣海舟がもはや徳川幕府に見切りをつけており、維新回転を心密かに望んでいたのでしょうか? その点を教えて下さい。 もっとも私個人は封建時代を終え近代日本をスタートさせたことは我々、日本人にとって良かったし、 誇り得ることと思っております。

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  • sudacyu
  • ベストアンサー率35% (687/1961)
回答No.2

 徳川幕府に見切りをつけていたのは、当の将軍である「徳川慶喜」ではなかったかと思います。  幕府は、ペリー艦隊の来航以後、海軍の拡張に力をそそぎ、大政奉還当時には既に、イギリス・アメリカには及ばないものの、列強も一目置く規模を誇り、強力な戦力となっていました。    小栗忠順参照 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A0%97%E5%BF%A0%E9%A0%86  後に、東郷平八郎が、日露戦争の「日本海海戦」で日本が勝てたのは、小栗忠順のお陰であると述べました。 <<小栗忠順は、大政奉還後も徹底抗戦を主張し、箱根での陸海共同の挟撃策を提案したとされる。これは敵軍(新政府軍)が箱根関内に入った所を迎え撃ち、同時に当時日本最強といわれた榎本武揚率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、箱根の敵軍を孤立化させて殲滅するというものであった。しかし慶喜は、この策を採用しなかった。後にこの策を聞いた大村益次郎が「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」と懼れるほどの奇策だった。[26](同様の戦術は勝が「こうすれば戦術的勝利を得られるが、戦争の長期化は免れない。」と慶喜を説得するために説いたとされる。)>>  幕府が、本気で戦ったならば、日本を東西に割った長期戦となり、薩摩・長州=イギリスと幕府=フランスとの長期の戦争となり、薩摩・長州が勝った場合はイギリスに、幕府が勝った場合はフランスに、莫大な借金をすることとなり、結果としてどちらかの国の植民地になっていたでしょう。  イギリスは、この手を使って、100年をかけてインドを少しづつ植民地化してしまった前例があります。

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  • tanuki4u
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回答No.3

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%82%A8%E3%83%BC%E9%8A%83 どちらもライフル式の銃が主力となっています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%8D%E3%83%AB%E5%85%84%E5%BC%9F 幕府側の武器商人もいますが、知名度で低いなぁ。 新潟での戊辰戦争は長岡城の攻防戦が有名ですが、死命を制したのは、新潟港を新政府側に取られたたこと。 これによって、長岡への武器補給は無論、会津への武器補給ができなくなった。

stockert119
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • kokubosino
  • ベストアンサー率19% (697/3530)
回答No.1

買いましたよ、5万丁 (^_^)v 勝海舟はアメリカに武器を買い付けに行ったんですから。

stockert119
質問者

お礼

ありがとうございました。

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