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坂本龍馬について

いま、学校で坂本龍馬のことについて勉強しています そこで、疑問を持ったことがたくさんあるので教えてください 1、1867年何藩の前藩主山内容堂(豊信)は幕府になにを建白したのか? 2、薩長同盟で薩摩藩と長州藩と亀山社中(後の海援隊)にとってどんな利点があるのか? 3坂本龍馬はなぜ、大政奉還を考え、進めたのか? です。よければ、すべてお答えしてほしいです よろしくお願いします

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noname#2345
noname#2345
回答No.2

1,将軍慶喜に大政奉還を土佐藩の藩論として建白しました。 2,大きくまとめると、 長州は幕府の第二次征長によって藩の(とくに攘夷派)生存が危うかったが、薩摩が密約の上にそれを回避する機会を与えてくれる。 実際、薩摩は幕府に対して「このままでは幕府の私闘であり、薩摩は賛成できない」を藩論とし、大久保利通は大阪城代に「長州を討て」と言われたが「幕府を討てですと?幕府を討つことなど出来ません」と答え、後は何を言われても「幕府は討てません」と聞き間違いで通したりもした。 薩長両藩にとってはいざ倒幕戦の時の兵力を増やすため。 薩摩にとっては倒幕を行う際(倒幕後も)に自藩が主導権を得る為にも、幕府にぎりぎりまで真意を隠す為にも先ず長州を叩き、次に同盟を組んだ。 亀山社中にとってのメリットは・・特に亀山社中自体が云々と言うより、坂本龍馬の(龍馬独自の考えではなかったけど)考えとして「薩摩と長州、この犬猿の仲の二大雄藩をくっつけないと倒幕はできない」があったからでは。 3,内戦を起こしたくなかったから。 当時の欧州諸国は内戦をしている国の片方に武力供給するかわりに租借地などを得て、そこから植民地化していった。 実際に倒幕派(薩摩)には英国が、幕府には仏がついていて、何としても日本の植民地化を避けたかった龍馬は、「幕府が政権を持っているから武力衝突が起きる。政権を朝廷に帰してしまえば倒幕派は武力倒幕の名目を失い、内戦は起きない」 と考えた。 ですかね、かなり手短ですけどポイントは押さえてあると思います。

mushio
質問者

お礼

詳しい情報ありがとうございました

その他の回答 (3)

  • hanatare
  • ベストアンサー率11% (5/44)
回答No.4

ご質問にはややはずれますが、是非一度、司馬遼太郎 氏の「竜馬がゆく」を読まれることをお勧めします。 幕末の政治状況や坂本竜馬をめぐる一切が本当によく 分かります。座右の書となること請け合いです。 ご質問の回答も必ず、あると思います。

mushio
質問者

お礼

あろがとうございました さっそくよんでみます

  • keiyuza
  • ベストアンサー率39% (32/82)
回答No.3

細かく書くとキリがありませんので簡単に私の意見を述べさせていただきますと、 1、の何藩というのは土佐藩で、建白したのは大政奉還ですね。徳川幕府から土佐23万石という多大な恩恵を受けている(正確には関が原の合戦で働いた褒美として土佐23万石を貰っているので恩恵というのとは違うような気がしますけどね、現代の感覚では・・・。)山内容堂は表面上は別として、内面的には完全な佐幕、しかし明晰な頭脳の持ち主なので幕府はこのままでは持たない、ということも感じていたと思われます。 江戸幕府はもう持たないが、徳川家は救いたい。そんな思いをかなえてくれる妙案が大政奉還だったわけです。 2、米はあるけど幕府と戦うだけの武器が無い長州と武器は沢山あるけれど土地がやせていて米が育たない薩摩の、お互いのニーズを坂本龍馬が仲介したわけです。 まったく信頼関係がない薩長ですが、長州滅べば尊皇滅ぶ、といわれ、薩摩の武力がなければ倒幕はならない、と龍馬は考えていたのかもしれません。 その両者を思想的に結びつけるのはあまりにも難しいので、おたがいが一番欲しいものをお互いのところに運ぶことにより、両者の対立的感情を和らげようとしたのでしょう。 そうした動きにより、薩長から絶大の信頼を獲得した龍馬は薩長後援により、両藩のの汽船をまるで自分の足のように使えるという、個人という意味では考えられないような力を手に入れたのです。 3、大政奉還を考えたのは勝海舟ではないかという話もありますが、要はフランスやイギリスを始めとする外圧がどんどん大きくなっているときに国内戦で余計な体力を消耗すればそれこそほとんど侵略されたと同然の清の二の舞だと考えたのではないでしょうか。

mushio
質問者

お礼

ありがとうございました 勉強できました

  • cse_ri2
  • ベストアンサー率25% (830/3287)
回答No.1

資料が手元にない場所で回答を記述していますので、回答 は「自信なし」とします。 2.薩長同盟の利益 ・薩摩の立場  薩摩一藩で幕府を打倒するのは、軍事的に不可能。  後の討幕のために、有力な藩と軍事同盟を結ぶ必要が  あった。 ・長州の立場  第二次長州征伐から自藩を守るために、軍備を増強する  必要があったが、幕府が長州と外国商人との取引を禁止  していたため、最新鋭の外国製兵器を購入することがで  きなかった。  薩摩と同盟を結ぶことにより、薩摩名義で武器を購入し  その武器を長州に回してもらうことが可能となった。  また、当時の長州藩は、朝廷からも排斥されていたが、  薩摩藩の取りなしにより、朝廷への復権が期待できるよ  うになった。(後に実現) ・亀山社中の利益  長州藩と薩摩藩に対する信用を深め、ビジネスに結び  つけた。  具体的には、長州藩または薩摩藩と外国商人とのビジネス  に参加し、中間マージンを得た(現代の商社ビジネスに近い)  さらに、薩摩藩と長州藩名義の帆船を亀山社中が借用し、  海運ビジネスも行っていた。 (このビジネスは後に岩崎弥太郎が引き継ぎ、三菱財閥の発展の基礎となる) ・おまけ(坂本龍馬の立場)  坂本龍馬個人として、彼が志す討幕運動のために、この  薩長同盟は不可欠であった。

mushio
質問者

お礼

ありがとうございました 龍馬の情報!さんこうになりましたよ!

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