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勝海舟の「コレデオシマイ」
勝海舟については、3月18日に、「勝海舟の人物像」というタイトルで質問いたしました。 (下記アドレス) http://okwave.jp/qa/q8518809.html この中で、0fool0 さんのご回答にあった、「コレデオシマイ」が、気になっています。この「コレデオシマイ」という最期の言葉、私も、何かの歴史参考書で読んで、うろ覚えに知ってはいたのですが、大して気にしていませんでした。 しかし、上記の質問以降、この「コレデオシマイ」の意味が気になっております。なにが、「コレデオシマイ」だったのでしょうか?相当意味が深いかも知れませんし、ただ、「自分が死ぬ」という意味かも知れません。 私の質問を閲覧された皆さんは、勝海舟のこの最期の言葉を、どのように解釈しますか?「意味」とか「海舟のその時の心境」とか、「その他」どんなことでもかまいません。 私は、その質問への0fool0 さんのご回答に対する「お礼」の中で、『「コレデオシマイ」……意味が分からないというか、大人物なのでしょうが、「寂しさ」を漂わせます。これも海舟像なのかなという気がします。』と、記述していますが、さしたる根拠があるわけでもありません。 又、皆様方からご回答をいただいても、それに対して、「正しいとか、誤っているとか」を判断する力もありませんので、ベストアンサーは選びません。それでもよろしければ、自由な発想で、「その瞬間の海舟の気持ちなど」を想像していただき、ご回答していただければと思い、質問させていただきました。
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幕末・維新の簡単な通史を読むと、勝海舟について、概略、以下のようなことが出てきます。 (1)ペリー艦隊の来航(いわゆる黒船来航)時に、海防に関する意見書を提出した。 (2)幕府の遣米使節派遣時に、護衛と言う名目で咸臨丸も渡航し、遣米使節の補充員として乗船した。 (3)徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任される。勝は単身で談判に臨み長州の説得に成功した。 (4)明治元年、官軍の東征が始まると、旧幕府方を代表する役割を担う。早期停戦と江戸城の無血開城を主張、歴史的な和平交渉をなしとげる。 (5)明治維新後は、参議、海軍卿、枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙せられた。 しかし、何故か、勝海舟の人物像というのが浮かんできません。勝海舟を主題にした小説を読んでいないからだと思いますが、幕末・維新史への登場が断片的な気がするのです。 ウィキの記述や参考書から、その人物像の一端を、私なりに整理してみました。(下記) (1) 幕府の要人でありながら、明治32年まで生きたということは、それなりに世渡りが上手かったのか?そのことが、関連するかどうかは分かりませんが、旧幕臣の代表的人物でありながら、なぜか榎本武揚をはじめとした旧幕臣からの信頼も薄いようにも見受けられます。徳川慶喜の信頼は厚かったようですが。 (2) 『明治維新後改名して安芳。勝本人は「アホウ」とも読めると言っている。』……発言の意図は分からないが、多少のユーモアのセンスがあるのか?あるいは、卑下しなければならないような理由・経歴があるのか? (3) 神戸の港湾としての発展を見越して、付近の住民に土地の買占めを勧め、勝自身も土地を買っていた……お金に無頓着ではなかったということか? (4) 徳川家の取扱いに関する交渉に当たり、江戸の町もろとも敵軍を殲滅させる焦土作戦の準備をして西郷に決断を迫った。……外交的、戦略的センスがある人物か? (5) 旧幕臣たちによる「徳川氏実録」の編纂計画を向山黄村を使い妨害している。……幕府の要人であったにもかかわらず、このような行動をするということは、彼の活動の中に、何か後ろめたいものがあるのか? (6) 「氷川の大法螺吹き」となじられることもあった。……(4)とも関連するが、適切な表現が見つかりませんが、「見栄っ張り」の性格を持っていたのか? ここで質問なのですが、 (1) 勝海舟の人物像として、上記の(1)~(6)について、どう思いますか? (2) 勝海舟の人物像について、あなたが知っていること、考えていることを教えて下さい。 (3) 勝海舟の人物像がよく理解できる小説をご存じであれば、紹介して下さい。 ご回答は、上記(1)~(3)の一つだけでもかまいません。
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ご回答ありがとうございました。 「ようよう肩の荷をおろしたような感慨はあったやも知れません。」というのは、何となく、分かるような気がします。(*^_^*)すみません。素人ですから、「何となく」としかいえません。 特に、背負った荷物が「日本と言う国の未来」であれば、大きいですよね。ただ、私は、海舟が背負ったのは、「日本の未来」もさることながら、「徳川慶喜」という荷物の方が大きく、重たかったのではないか?と。(*^_^*) 「大西郷にして、あの当時、勝海舟ほどの見識があったろうか・・・私ははなはだ疑問です。」……おっしゃるとおりだと思います。そもそも、生き方、考え方が、全く異なるような気がします。わたしは、あの二人は、おそらく比較の対象にならないと思います。 「海舟と言えば私は天障院と勝との心暖まる逸話を思います。」……天障院と和宮、私も、このお二人に、今、興味を持っています。 「ただ、一人の人間が背負うにしては、誠に重いものでしたでしょう。」……海舟ばかりではありませんよね。私も、幕末・維新を、駆け抜けた人々を、そのように感じながら、小説や、参考書などを読んでいます。 「コレデオシマイ」……名言中の名言かも知れませんね。