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善について 2
cse_riの回答
- cse_ri
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No.5の返答について、コメントします。 失礼ですが、私が当初感じていたのと違っていて、chihokoさんは どうも真摯に「善」を求めるのではなくて、どうも言葉遊びがしたい のではないかと思えてきました。少々、おつきあいしましょう。 >マハトマ・ガンジー、マザー・テレサ、ダライ・ラマの成したこととして >伝えられることは尊い行いで 善とはかんじません。 彼ら偉人達は、もちろん尊い行いをしています。 しかし彼らの行いの中にある「善性」を感じられるかどうかが、問題なんですよ。 行いの中に普遍的な「善性」を感じ取れれば、そこから善とは何かについて学ぶ ことができます。 しかし、感じられなければ「立派な人なんだな~」で終わりです。 残念ながら、chihokoさんにはそういう感性が欠けているようですね。 これは個々人の資質の問題だから仕方がありません。 >むしろそれよりも その行いの尊さに学ばない如くの人類の在りように >悪をかんじます。その悪は上記3氏にも内在するものと強く感じています。 これは宗教的に言えば「原罪」という考え方と似ていますね。 キリスト教から来ていますが、人類始祖以後、すべての人類に悪が内包され ているという教えです。 この考え方に従えば、全ての人類は救世主によらなければ救いがない (→完全な善なる人になれない)ということになります。 もっとも、chihokoさんはクリスチャンではないだろうとは思いますが.... >ひとはひととのかかわりのなかに 善をみようとします。しかし >視点が星になれる現在 善をステップアップしてみては いかが >でしょうか? > > わたしにとっても誰にとっても善とは かくも 手の届かぬもの >なのか・・・。 それが 今回の質問の発端なのです。 「人の中に、人の世の中に『絶対善』は無い」ということについては、 昔から聖人・賢者が触れている事柄です。 しかしながら、一般の人に「善」とは何かを伝えるにあたって、 高尚なことを説いてもなかなか伝わらないので、周囲の人間関係 など身近な話題から教えを説いていくのが、昔から伝わるやり方でした。 今でもこの方法は効果がありますが、元々人の中に『絶対善』が ない以上、限界があるのも事実です。 それでは、より高いレベルの善を求めるには、さらには『絶対善』 なるものが存在するかどうかになりますと、元々人の中にないの ですから、どうしても「超越者」の存在を求めざるを得なくなります。 そうすると、最終的には「宗教」に行き着かざるをえないんですね。 しかし、宗教が嫌いな人も多いですし、私にもどの宗教がよいなどと 言えるようなことはできませんので、その先は個々人で探し求めてください というのが結論となります。
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お礼
●わたしについて 感じていただいた感じは ほぼ近いと思います。 ひとがひとにたいして行うことは ほとんど興味ありません。 ひとがいなけりゃいいだけですから。 むしろ7年間土の中で暮らし 一週間だけ この世界で鳴いて 子孫を残し 死んでゆく セミに 善 を強く感じます。 セミの生き様は 人間のだれよりも わたしの生き方に 影響をあたえました。