- ベストアンサー
善と悪の捉え方
善と悪の捉え方について見たとき、人間には3種類いるよーである。 1つは善と悪は絶対的なものであり、人の立場や社会情勢に関わらず常に明確に区別できると考える人。 2つは善と悪は相対的なものであり、その時々の人の立場や社会情勢により善が悪にもなり悪が善にもなると考える人。 3つはもともとこの世に善も悪も存在しないと考える人。 果たしてどちらがより真っ当であると言えよーか、 どちらがより真理に近いと言えよーか。
- 人の 道(@hitonomichi23)
- お礼率67% (256/381)
- 哲学・倫理・宗教学
- 回答数13
- ありがとう数6
- みんなの回答 (13)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
お早うございます。 何時も貴重なるご質問と奇特なる教えに感謝しております。 善悪を感じてはいます。 しかし私は、捉え=感じに於いて、 今回の3択の内容全てを感じているのです、 これは4分類目を勝手に作成しての、人でなし、 ろくでなし、の部類なのか迷って居ます。 3)分類にある、小部類の一つなのでしょうか? 人の道さまの御高説を賜りたく存じます。
その他の回答 (12)
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
「本来は善悪というものは無いのだ」と言った釈尊の言葉が真理かと思いますが、凡人にとっての真っ当なのは、2番の「相対的」なものとの受け止め方、になるのではないでしょうか。 1番では、“絶対的”なるものが人によりけりとなり、また絶対視する故に“頑固者”でしかないという可能性がありますが、2番なら融通無碍、柔軟に対応できる人ということが言えるかと思います。 真っ当は「正しい」と言い換えることもできそうですが、人の道さんはタイプとしては2番ですか?
- Tefu_Tefu
- ベストアンサー率27% (87/322)
こんばんは。 う~ん難しいな~~~ 事象の観察→認識→思考→意志による決断→結果=成功ならば善、結果=失敗ならば悪ではないのでしょうか? (事象自体には善悪は無い)(成功とは多くの人からの賞賛とする) 死人に口なしとも言うから やってみなきゃ分かんないよね。生きることは決断することかもね。
- kurinal
- ベストアンサー率10% (128/1195)
こんばんは。 3の「善も悪も存在しない」は、怖ろしいので却下。・・・せいぜい「オレにとっては、こうだ!」にして下さいな? 1と2が難しいですが、所詮全ては人間の判断に過ぎないのだとすれば、2でしょうね。
真理に近いのは、もともとこの世には善も悪も存在しない事を明らめた上で、この相対的な概念を状況に応じて意図的に使い分ける人である。この様な人は、人類の中では比較的真っ当であると言えよー。 ちなみに、真理そのものな人(こんな人物を人と言えるかは知らんが)は、己の言動が善か悪かなどと考えずに行動するが、やる事なす事が全て善行になってしまう。これこそが真理を体現するという事であり、無心の勝利とゆーものであろー。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
1.善と悪は絶対的なものだと勘違いしている石頭。 3.もともと善も悪も存在しないと思考停止している人。
お礼
>3.もともと善も悪も存在しないと思考停止している人。 絶対化による無=不確定性無限の潜在としての認識可能性の移動により、相対的に善も悪も無になるんではなかったのかい、もし。
- nung
- ベストアンサー率40% (69/169)
私の勘違いでなければ、なんだか、質問の意図を取り違えている人が多いような? 1 は、何かのイデオロギーにこだわる人。 2 は、人間社会の常識の中だけで考える人。 3 は、上記のこだわりが無い人。 だと思うのですが。 1から3へ進むにつれて、思考対象の範囲というか、視野が大きくなっていきます。 視野が大きい方が、真っ当であり、真理に近いのではないかと思います。
- shift-2007
- ベストアンサー率14% (143/1013)
4・悪を独善と言い換えるなら全ては善 を支持しま~す。
- hanniyagi100
- ベストアンサー率21% (8/38)
東洋思想の猿、と言えるであろう、ニ-チェが、愛は憎悪、である。と繰り返していますが。 4っ目は、 善=悪 善がなければ悪はない。悪がなければ善はない。 善×悪=1 善悪も一つの心、一つの思惑の表裏であり、執着にすぎない。 という、釈迦や老子の考え方 5っ目は 判断力、思考力のない、幼児、子供に対する、しつけ、教育、の方法として、これは善いこと、 これは悪いこと、と教える。方便であり。大人が口にするような言葉ではない。 という考え方。 6っ目は 狂人の真似とて往路を走らば、すははち狂人であり。麒麟の真似とて千里を走らば、すなはち麒麟である。は徒然草ですが。まち実存主義が言うように。悪辣漢は、悪辣な内蔵、悪辣な脳髄を持つから、悪人なのではなく、彼の行為によって、悪辣漢、なのである。と言うように。 善悪は行為、行動、の結果に対する評価であり。 個人の、認識や概念を論じ評価しても意味がない。 ソクラテスが善行について論じる事が喜び。と言うように。正しい行為とは何か、 という考え方。 7っ目は 自己あるいは人間の生に対する貢献が善であり、疎外が悪である。 という考え方。 8っ目は いきとし生けるもの、生態系全体に対する貢献が善であり、破壊、疎外が悪である。という考え方。 9っ目は 戒、や、律、として、社会が決めた事を遵守するのが善であり、守らないのが悪である。 という考え方。 10..きりがありませんね。 回答が質問の趣旨に合っていない。事にもなりますが。 質問の趣旨には答えようがありません。 概念とは、個人が頭の中で描く対象像、存在の認識なのです。個人が同認識しているかは、 「群盲象を語る」であらざるを得ないのです。真理とは存在の中にあるもの、であり 存在と合致する概念が、真理、でもあるはずです。 概念には、存在、が対象ではなく、実体のないもの、を対象とした、概念もあります。 例えば、貴方が「好きだ」と言っても。対象となる存在を一体としなければ、を意味をなしません。 何が、好き、なのか。の、何が、を特定しなければ。意味がないはずです。 善悪も基本的には同じ事であり。対象のない概念は、架空、であり。 架空の概念を対象とした概念は迷妄ではないでしょうか。空論とも言うでしょうが。 真理は単純である。とは物理学者が、事象方程式を導いて。その単純さ、明快さに、対して感動としての 言葉のようですが。 この世界に存在しているのは、物、、と認識される対象と、物が変化する、という事象があるだけでる。 との認識が、まずは、哲学=物理学、のスタ-トである。と考えてはどうでしょう。 あ~ 。
お礼
御回答有難うございます。 >善悪も基本的には同じ事であり。対象のない概念は、架空、であり。 >架空の概念を対象とした概念は迷妄ではないでしょうか。空論とも言うでしょうが。 さよーですか。 善とは何か、悪とは何かと問うたところで意味を成さないゆーことですね。 善とは何か、悪とは何かと考えたところで哲学にはならないと。 すると全て個別の問題なる故、 善を生むものは何か、悪を生むものは何かとか、 善がもたらすものは何か、悪がもたらすものは何かとか、 善は必要か、悪は必要かとか、 ・ ・ ・ 善と悪についてのこれらの問いも全て意味を成さないのでしょうか。
- tsufujifuji
- ベストアンサー率15% (213/1332)
3かな。あくってなに?自分に必要なのに悪なの?自分に必要なものは、悪じゃないよ。そのひとがどーやったら、嫌じゃないか、考えなよ。それを考えないから、悪っておもえんじゃん。先回りして物事を考えな。
お礼
その回答内容でありがとうポイント1260稼いだのであるからお見事である。 先生になればえー。
- Subaru_Hasegawa
- ベストアンサー率11% (106/938)
善悪と正邪の区別がついていないですね。辞書を引きましょう。 あ、お礼は結構ですから。できれば、独り言はオフライン環境で行いましょう。 他のユーザーが迷惑ですから。
- 1
- 2
関連するQ&A
- 絶対善世界における悪の役割
私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 相対的な善悪で自分自身を責めるのはその辺でやめた方がいいんじゃないでしょうか。 どのみち私たちは絶対善からは逃れられないのですから。
- 締切済み
- その他(恋愛・人生相談)
- 悪は 善と同じように存在していますか?
1. ひとには 良し悪しという感覚とそしてやはりそれとしての主観的なともかくの判断があります。 2. 《良し》と見なしたことを 広く《善》と呼ぶとします。 3. この善なるものごとは 存在しています。何らかの危険に遭って助かったというとき そのわれなる存在の存続は 善だと一般に呼べるはずですから。 4. このとき・だとすると 《助からない》ことが 善ではなく負の善であり 一般に悪とよばれることだと捉えます。とにかく《良くない》ことでしょう。 5. このように捉えた悪は それとして善が存在するのと同じように 存在しますか? 6. 回答は ふたつに分かれると思います。 6-1. この趣旨説明での悪の規定にしたがって それが善と同じように存在する・または存在しないとして見解を述べる場合が ひとつ。 6-2. もうひとつは いやいや そのような悪の定義では 話が成らない。ゆえに これこれの定義を提示します。それによると 悪も存在すると見るか または 別の定義によっても 悪は存在しないと見るか。として見解を述べる場合です。 どうでしょう。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- この世の善と悪の法則
質問です。 この世の善と悪の法則について疑問に思ったことがあります。 悪(過ち・犯罪・いじめ)を犯した人は必ずと言っていいほど、何かしらの罰を受けますよね? 多くの場合、それらを犯した直後もしくは近日中に捕まったり、交通事故に遭ったり、病気になったり、家族の誰かが亡くなったり、といった何かしらの付けが回ってきます。 ゲームや漫画、映画、ドラマでもそうですよね。悪は最終的に滅びる~的な。 他方、善を行った人には、悪(人)と違って、それ相応の”善いこと”が返って来なかったり、貢献したのにも関わらず、その思いが届かなかったり。めぐって来るとしても10~20年先になる。また、善いことを行ったけど不幸(最愛の人の死、疾病等)が返ってくる場合も当然あります。 さしづめ、 悪➡それ相応またはそれ以上の罰を受ける、罪を償う 善➡必ず返って来るとは限らない。良いことをしたのに不幸が巡って来る どうして善人の立場は複雑で苦しい立場なのでしょうか? これだと、「良いことしたのに不幸しか起きないじゃん。時間の無駄じゃね?」っていう考えが芽生えて悪に陥ると思うんですよ。 教えてください。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- 絶対善が支配する世界における悪の役割
私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪の基礎になっています。 善行も悪行もその基礎に絶対善が含まれています。 ではすべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 「地獄への道は善意によって舗装されている」なんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキではないでしょうか。 ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 理由は簡単でコインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 ですから絶対善が支配するこの世界のどこを探しても絶対悪は存在しません。 お盆ですからこんなことを考えてみるのも一興ではないでしょうか。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- 善と悪についての問答
善と悪についての問答 問う人: 善とは何や。 「人の道」: 善とは嘘偽りなく物事の有るがままを有るがままとして捉えることや。 つまり善とは見えるもんを見えると言い、見えんもんを見えんと言うことや。 善とは聞こえるもんを聞こえると言い、聞こえんもんを聞こえんと言うことや。 善とは知っとるもんを知っとると言い、知らんもんを知らんと言うことや。 善とは無いものを無いと言い、有るものを有ると言うことや。 問う人: では悪とは何や。 「人の道」: 悪とは善の対極にあるもんや。 つまり悪とは偽ることや、そして物事を捻じ曲げることや。 問う人: 偽るとはどういうことや。 「人の道」: 偽るとは見えるもんを見えんと言い、見えんもんを見えると言うことや。 偽るとは聞こえるもんを聞こえんと言い、聞こえんもんを聞こえると言うことや。 偽るとは知っとるもんを知らんと言い、知らんもんを知っとると言うことや。 偽るとは無いものを有ると言い、有るものを無いと言うことや。 偽るとは語るべきを語らず、語らざるべきを語ることや。 問う人: なぜ偽ることは悪なんや。 「人の道」: 偽ると真理の探究は出来んからや。 問う人: 如何なる場合も偽ることは悪なんか。 「人の道」: そーや、如何なる場合も偽ることは悪や。 問う人: 最大の悪とは何や。 「人の道」: 最大の偽りや。 問う人: 最大の偽りとは何や。 「人の道」: 神や仏、天国、地獄を語ることや 問う人: なんで神や仏、天国、地獄を語ることは偽りなんや。 「人の道」: だから言うたろ。 見えんもんを見えると言うことは偽りや。 聞こえんもんを聞こえると言うことは偽りや。 知らんもんを知っとると言うことは偽りなんや。 「人の道」: どうや、これで善と悪が何かよー分かったろう。 問う人: はい、よー分かりました。善とは偽りの無いこと、悪とは偽ることや。 「人の道」: では最大の悪が何かも分かったか。 問う人: はい、よー分かりました。嘘八百並べ神や仏、天国、地獄を語るのが一番悪い。 「人の道」: 皆にも聞く。宗教漬になって嘘八百並べるのが一番悪いちゅーこと、よー分かったな。
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
- 絶対善世界における悪の役割
私たちは日々様々な選択を行いますが、共通して言えることはもっとも良いと思われる選択を常に行うという事です。 商品の購入、進路の選択、他人の相談に対する回答、日々のありとあらゆる行動の基準が最善を選択しようとしています。 最善とは今持っている選択肢の中で最も良いと思われる選択肢です。 時間の経過に伴いこの選択は必ずしも最善ではなかったと思われる場合も出てきますが、その時点では最善を選んだはずです。 逆に言えば最善以外を選択することはできません。 この「最善を選択しようとする人の性質」を絶対善と呼べないでしょうか。 ・絶対とは逆らえないという意味です。どんな場合も最善以外は選択できません。 ・善とは最も良いと思われる選択です。 道徳的善悪にはその判断となる対象ががあります、人助けは善、人の物を盗むのは悪など。 しかし、絶対善には特定の対象はありません。最善と思われるものを選択するという原理だけです。 絶対善の法則に従い他人を傷つけることが最善と思われればそれを選択します。 この単純な原理は道徳的善悪を含んでなお最善を選ぼうとします。 では。すべての選択が絶対善に基づいているとすると悪とはなんでしょうか。 地獄への道は善意によって舗装されているなんて言葉が示すとおり、本質的に独善としての側面を持っています。 この『善』の暴走を阻止するため、リミッターの役割として「悪という概念」があるのではないでしょうか。 本人は最善を選んではいますが、他者から見ればそれは行き過ぎた善、或いは他者の存在を考慮しない善です。 見方を変えれば「悪」とは独善という名の『善』なわけです。 絶対善が支配するこの世界で悪(相対悪)の役割は善に対するブレーキのようです ちなみに絶対悪はこの世界にはありません。 コインの表のどこを探してもコインの裏がないのと同じです。 たまにはこんなことを考えてみるのはどうでしょう。 考えることを止められないなら、いっそのこと世界の仕組みについて考察するのもいいんじゃないでしょうか。
- 締切済み
- 心の病気・メンタルヘルス
- 神とは「悪」なのか?
私はいつも善と悪について考えています。 それを生んだ神という存在についても考えています。(この神とは何々教の神ではありませんし、神の存在について問うものではありません。創造されて何かがこの世界にある。森羅万象を作る源と扱います) これまで「善」=「神」だと思っていました。 人間については性善説ではなく、性悪説をとっています。 善と悪の戦いです。ですが、あまりにもの世の中の不条理に出会うたび、神はいないのではないかと思うのです。つまり神に失望したのです。 もし神が善なる存在でしたら悪は排除されるはず(べき)です。 では、神に対する人は希望なのでしょうか。 人が悪に対する希望だとしましょう。しかし人が善を求め、成長するために心や魂をもつものとしたら悪はそのための概念です(物語は絶えず悪を排除し、カタルシスを求めるところに人は善を求めている証しもみられる)。しかし悪というものの実態は破壊そのものであり存在意義すら許されることではありません。 善は善のままであってもよいはず。二律背反の法則で(?)悪があるとしたら、善そのものの美(という表現が適切かどうかはわかりませんが)が悪のためによって傷つけられ、汚され、破壊されるのが「現実」です。それでしたら善が善である存在意義がありません。 なぜ悪はあるのか。そして強烈に悪をしらしめるのがこの世の実相でしたら、もうこれは愛や創造のためではなく、破壊がこの世の、人のなかに前提として存在を許された(では「誰」に?)ものなのでしょうか。 このようなことを考えると、神はもしかしたら悪なのではないかと思ってきました…
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- 悪は存在しない。善の欠け=悪 と呼ぶ現象のみだ。
たたき台は つぎのようです。 1. 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。ウソ・イツハリのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 動悸を速め 時に顔を赤らめます。 2. ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼ぶとすれば 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。 3. つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎない。という考えです。 4. 自然本性と言うべき心としての善 これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことをも 悪と呼ぶ。 5. 悪は 存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。
- 締切済み
- 哲学・倫理・宗教学
- 重ねて問う 社会は善か?
偽の上に造られた社会であっても 認識と真実に対する信頼と 誠実によって 真理への高みを目指すことができるという。 では 偽の上に造られた真理によって裏付けられた 社会的善は はたして善を目指しているのだろうか? 我思う故に 彼もまた思う。 ああ 社会的相対性理論 に於ける社会的循環関数~いや 何でもないです (´ω`;)
- ベストアンサー
- 哲学・倫理・宗教学
お礼
お早うございます。 早速の御回答有難うございます。 >今回の3択の内容全てを感じているのです、 >これは4分類目を勝手に作成しての、人でなし、 >ろくでなし、の部類なのか迷って居ます。 >3)分類にある、小部類の一つなのでしょうか? その小部類の一つに中道なるものがあります。 右から風が吹けば、右を向く。 左から風が吹けば、左を向く。 これがすなわち風見鶏。 何らの思想も理念も哲学もなく、ただだだその時々にて己のふところ具合と周囲の風向きだけを気にする浅ましき畜生の類。 中道を行くとはまさにこれです。 「人の道」の基準で申しますと、もしその小部類が中道なのであれば、間違いなく人でなし、ろくでなし、の部類に入りましょう。