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重ねて問う 社会は善か?

偽の上に造られた社会であっても 認識と真実に対する信頼と 誠実によって 真理への高みを目指すことができるという。 では 偽の上に造られた真理によって裏付けられた 社会的善は はたして善を目指しているのだろうか? 我思う故に 彼もまた思う。 ああ 社会的相対性理論 に於ける社会的循環関数~いや 何でもないです (´ω`;)

noname#150036
noname#150036

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  • ベストアンサー
  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.8

では 偽の上に造られた真理によって裏付けられた社会的善は はたして善を目指しているのだろうか? ○ 進歩と調和、調和は進歩により消され、偽の進歩は正義により消されるのです。 これが歴史的循環ですね。 さて、「偽の上に造られた真理によって裏付けられた社会的善」に正義はありませんので消される運命から逃れることはできません。 ソ連という社会は70年ほどしか持ちませんでした。中国という社会もさほど長くは持たないでしょう。自由主義国家の代表の米国という社会も200年ほど持っていますが正義の天秤に掛けられて耐えうるかどうかですね。 どのような幸福に感じる社会も正義を失えば一夜にして消えていくものですね。 誰しも自らの社会がソドムやゴモラと同じであるとは考えたくはないでしょう。 我らの社会はそこそこの善に満ち溢れていると考えているでしょうが、「偽の上に造られた真理によって裏付けられた社会的善は」消えさる運命から逃れられないのです。 人として生き、歴史を刻むということはそれほど厳しいものなのですね。 楽しく動物で生きてゆくというのなら地震も津波も疫病も原発事故も戦争も単なる災害、天災、人災と考え、生きる環境がある限り動物として生きてゆけば良いのです。 ただ、目覚めたるものは、人として生きるべきですね。 正義なき社会は存続しない、消されても致し方ないと言うべきですね。 地球にも正義があります。地球の正義を知ることはすなわち地球の神々の御心を知ることですね。それを知らずして一切の社会活動も善も歴史の波間に消え去るものなのです。これから多くの善が消えてゆくでしょう、そこに一片の正義がないゆえにです。ただ、神の正義はいつの時代でも誰にでも見えるように灯台のごとく立っているものです。世界が偽の真理で満ち溢れる時は全てのものが消される時でもあるので世界中の誰もが見えるような正義という灯台が立ちます。それを人は救世主とも呼びますが、「正義の言葉」が正しい見方です。 それを見逃しているという悲しい運命をこそ見直すべきだと思います。 参考までに

noname#150036
質問者

お礼

ボクは今 正義の閃光がはしるのを見ました。 あなたは まさに超人であった。あまりに超人であった。 頭上を覆う 鉛色の雲を その閃光によって 一瞬のうちに忘却の彼方へ追いやってしまわれた。 超人が たとえ何度生まれ変わろうとも超人である その所以を 今 知りました。 ありがとうございました。 

その他の回答 (8)

回答No.9

人の生きる目的は「善」ではなく、精神的充足感の最大化です (ただし人生を通算したものなので、快楽主義とは異なる)。 そこにおいて「善」は、分業化や組織化によって、自己の生が 社会生命化する上において、その社会的行動の必要を、社会 生命としての自覚によってではなく、法規やモラル、宗教など 先入的価値(社会的二次的価値)によって他律的に行うことで 派生したものです。 即ち、「善」そのものが「偽」であり、真理(自己存在の本質に 根差した自律的生存)の対極にあるものである以上、「偽の 社会は、偽の価値=善を目指す」のも当然である。

noname#150036
質問者

お礼

いつも明解なるご回答に感謝します。 今回は 座標軸自体のスライドが必要とされる難易度中位の命題 でありますが 社会に直結した命題であるので あえて問いに挙 げてみました。 一個の真から分割(対発生)した対局の個にあたるわけですが 原理的にはその個々は左スピンと右スピンに分かれる事になっ ています。つまり個々のスピンの特性を理解することによって 対のスピンを察することが可能か 更に認識の干渉によって 真に辿り着けるかの可能性を探りました。 今回は 皆さんのおかげで ある程度の答えを得ることができ ましたので これにて終了とさせていただきます。 しかし真理はまだ 不確定性の内に先入化された 時間軸と 質量に関する答えを 自然の中に隠しています。 しかも 自然そのものが光速で移動している事を示唆しながら 我々には感じ取れない様に仕組まれておりますので 真理は未だ その姿を我々に見せようとはしない ということで 締めくくらせて頂くことにします。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.7

社会に善悪はない、てのはハイエクの 考え方ですね。 そういうことを述べていらっしゃるので しょうか?

noname#150036
質問者

お礼

ハイエクなるものには届きませんが 善と悪が 真にたいして近いか遠いか で考える 座標的なものです。 ご参加いただき 有難う御座います。

  • agripapa
  • ベストアンサー率0% (0/46)
回答No.6

自己陶酔。。

noname#150036
質問者

お礼

その通りであります。 自己陶酔による哲学という 船酔いと酩酊に近い 新しい哲学であります。これによって宇宙の深淵を 感じることができるのです。 ご回答有難う御座います。。。

noname#176957
noname#176957
回答No.5

>補足 現代思想の多くは悪しき偏向を帯びているという。 曰わく、 社会性や歴史性を主題化しない理論は無価値とみなせ、 というものである。 すなわち、 社会性を重視するあまり、還元主義的学問を論証抜きで否定するのは、政治的イデオロギー優先の多くの現代思想にありがちな態度であるという。 しかし、社会性がテーマとして表面化していなければ社会性の正しい考察ができないということでは、決してない。分析の基本単位として社会性が設定されていなければならないということではないのだ。 あ、これは「分割の誤謬」の話ですね。 ええと 社会的善を含まない部分の集合が善を持ち得ないと断定するのは「合成の誤謬」なんじゃなかろうか、という話でした。 やっぱり違う? すみませんm(_ _)m 因みにアインシュタインではなく、 ラッセルで…。

noname#150036
質問者

お礼

お手数をおかけしまして恐縮です。 実はボクは 偉人といえばアインシュタインしか 知りません。ひとつおぼえ なんです。 さっそく拝読させて頂きましたが 漢字が読めないので 辞書を引きながら 読み終わるのは朝になりそうです。 何度も 有難う御座いました。

回答No.4

善は社会の部分集合

noname#150036
質問者

お礼

善が社会を超越することは かなわないのか。 ああ 我泣きぬれて亀とたわむる 行ってみたいなよその国 いかんっ ボクはこんなことを書く為に生まれてきたの ではありません。 いつも冴えわたる ご回答を賜り 恭悦しごくに存じます。 

  • Tefu_Tefu
  • ベストアンサー率27% (87/322)
回答No.3

こんばんは。 私は、社会は善であろうがなかろうが。 いかなる不確定な社会においても、 全ての者は、おおよそ因果律に基づいて行動することを 知っていれさえすれば、 おおよその見当は予測でき、ほとんどの場合において 対処できるので、 「先を予測できるものは、人を制す」 後は、信頼と誠実により、よりよい善なる社会を創ることも 可能でしょう。と思います。 ただし、いかなる場合も、半分当たれば良しとすることです。 そして、船を去る者は、追うべからず。 彼らは、新たな可能性のために旅立つのだから。 幸運あれと!

noname#150036
質問者

お礼

ご回答を ありがとうございます。 >半分当たれば良し。去る者は追うべからず。  ○これも善行であると思われます。 あまりに善良な お考えに 驚きました。 ああ 天は我を見捨てなかった。 ボクの周りには てふてふさんのような善良な人間を 余り多くは見かけません。 ボクは猛獣と大蛇と七人の盗賊と地獄大使に囲まれて 暮らしておりますので 世の中が狂ってしまったのかと 思い込んでいたところです。 健全な そしてあまりに人間的な こころざしに 感無量であります。

  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.2

大きな船は安定しているか。 私は安定していると考えていますし、土を持ち込めばオリーブの木でも植えて育てることが できることを知っています。その条件をそろえる能力を持ちうるのは、 船を作り運用する人間でもあるわけです。人間が作り出した仮の土台であっても、 数年単位で問題なく暮らすことも可能でしょう。 もちろんそれが沈むことが確実となったら、それが数年乗った船であれば惜別の感傷に浸る ことくらいはあるかもしれませんが、躊躇無く脱出します。 新しい船は作ることが出来るのですから。 それは前の問題点を踏まえて、より強固なものを作れるでしょうね。 一方で、大きいといってもあくまで船であるので、中にはわずかなゆれに 耐えられない人もいるでしょう。 揺れに耐えられず、我々は水の上でも歩けるんだとか、水の底でも人間は生活できるんだと うわごとを発する人たちが現れたら、私は医者と酔い止め、あるいは休息を薦めますが、 それでも耐え切れない人たちが水の中へ飛び込む様を、最終的には とめることが出来ないと感じています。 その人達のいうとおり、もしかしたら、私が誤りであって、 水の上を闊歩することこそが、人間が真にあるべき姿かも知れませんしね! ・・・・ただし、私はその種の人間が水の上を歩いた様にお目にかかったことが無いどころか、 溺死する様を数回見ているので、その選択をするのであれば、戻れるようにひも付きの浮き輪 くらいはつけたほうがいいんじゃないでしょうかと提案をするわけです。

noname#150036
質問者

お礼

躊躇なく捨てる覚悟 そして新たな船を造る決意 その生命力に溢れた営みは 善行と言えるのではないだろうか。 まさしく現代に よみがえる ノアの方舟と言うべきか。 水面や水中で暮らせる人種・・・熱中症による幻覚でしょうか。 そんな人たちを ボクも見た事がありません。 たぐいまれなるご回答を ありがとうございました。

noname#176957
noname#176957
回答No.1

すみません。 うまく具体的事例に落として理解できていないのですが、 「合成の誤謬」 には気をつけた方がよいのではないかと思いました。

noname#150036
質問者

お礼

「合成の誤謬」 その言葉は初めて知りました。 相補的不確定性にも似た きわめて合理的かつ 社会的であり 物理学的でもあり アインシュタイン的でもある ご回答を ありがとうございました。

noname#150036
質問者

補足

ボクたちは 日々の忙しさにかまけて 真理に近づこうとする努力を忘れてはいないだろうか 村人たちは生きるための自由という手段を忘れては いないだろうか。都会に暮らす人々は真理の高みを 目指すことを忘れてはいないだろうか。 だいたいこんな感じです。分かりにくくて申し訳ないです。

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     神および信仰ならびに〔信仰の偽造物なる〕宗教についての一般理論  第一章 《信じる》と《考える》とを分けること   ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~      真理――信じる    事実――考える    真実――《信じる》+《考える(感じる)》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 真理は 非経験の場――そういう想定です――である。事実としての経験事象を超えている。  2. 事実については 確かにそのいわゆる客観なる事実は じつは 人間の主観にとっては最終的な確実性においては 分からない。(つねに 未知の部分をのこす)。けれども 経験事象を認識すること・それについて考えること このことと事実とは 一対一において対応している。  3. 真理は 人間の能力によっては 認識し得ない。考えても それが何であるかについて分かるか分からないかが分からない。  4. ただし 事実が 主観によって認識され 主観真実の一環を占めるとき あたかも同じように 真理もそれが ともかく心に受け容れられて 主観真実を成すことになる。真理が 非経験の場であるとき これを受け容れたなら わが心に《非思考の庭》が成るという寸法である。信仰と呼ばれる動態である。  5. このとき 真理についても じつは・じつに 人間は《考える》ことを成す。たとえば 《真理とは 愛であり 慈悲である》とか 《この上なき善である》とか あるいは《真理はきみたちを自由にする》などなどです。  6. このとき 経験事実についての主観真実と 真理についての主観真実とが 紛らわしくなり 互いに混同されてしまうことが起きる。  7. ついには 真理についての《考える》の結果としての思惟や思想が オシエとして持たれ このオシエが あたかも真理そのものであると錯覚されるに到る。  8. 真理そのものを《信じる》のではなく そうではなくなり 真理についての誰かの主観真実としてのオシエが ついには《信じられる》という事態に発展してしまう。  9. まづは このマゼコゼについて 注意をはらうことが 大事ではないだろうか。信じると考えるとは 明らかに別のふたつのことがらである。  これを問います。

  • ヨーロッパ人の真理論は成っていない

     ヨーロッパ人の真理論は成っていない。という見解を示して問います。  ▲ (ヰキぺ:真理) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86  § 1 西洋哲学における真理論  真理とは何か、についての研究を真理論という。以下に代表的な説を挙げる。  (1) 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。     アリストテレス、トマス・アクィナス、イマヌエル・カント、カール・マルクス、バートランド・ラッセル、前期ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、アルフレッド・タルスキ、カール・ポパー  (2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的な真理観。     中期プラトン、ライプニッツ、スピノザ、ヘーゲル  (3) 真理の明証説:意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。     ルネ・デカルト、エトムント・フッサール  (4) 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であるとする。     フリードリヒ・ニーチェ、ウィリアム・ジェイムズ  (5) 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。     チャールズ・サンダース・パース、ユルゲン・ハーバーマス  (6) 真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は定義不可能であるという立場。     フレーゲ  (7) 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。     フランク・ラムゼイ  (8) 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。     アンリ・ポアンカレ、デュエム、オットー・ノイラート  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (あ) ▲ (2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的な真理観。  ☆ にちなんで言うとすれば 大前提を《公理》ではなく 《想定》とするとよいのだ。経験合理性を超えた絶対的な整合性の世界――それは 人間には分かるか分からないかが分からない――を 真理として想定しますよと。  (い) 《イデア》では ダメである。いや 真理と想定したものを《イデア》と名づけただけなら よいのである。つまり イデアなる絶対真理の世界からこの仮象の経験世界のものごとを《演繹》して来ては ダメである。絶対と相対とが――人間の思考において/によって――つながったことに成ってしまう。  (う) 経験合理性による《整合性》だけでは ダメなのである。なぜなら想定によれば 真理は そのような・人間に理解しうる整合性から自由であるのだから。善悪の彼岸であり 或る意味で人間の判定する真偽をも超えている。  (え) ▲ (2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。  ☆ だから これはマチガイである。《いくつかの命題》を 経験世界において並列させても それらから真理は自由であるのだから。  (お) 言いかえると 経験事象にかんしてさまざまな認識をおこない命題として提出する。その命題の真偽がどうかという問題は 相対的な真実を問うている。絶対としての真理ではない。  (か) まづ 《事実》について人は認識する。これを自己表現する。その命題について まづその当人については 《明証性》があるなら 主観真実であると見なされる。――これが  ▲ (3) 真理の明証説: 意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。  ☆ であり これは 厳密な定義としては 真理ではなく 相対的な真実のことである。  (き) すなわち ここから《明証性に立つ主観真実》が その認識内容として《事実》と合っているなら それは一般に《事実認識》として認め合われる。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (1) 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。  (く) そのことをもう少し具体的に細かく見てみよう。この一人のひとの主観真実が 当の事実と照らし合わせてほかの人たちによって検証される。やはり同じく自己の主観において真実として見解を同じくするなら そこでは 主観の共同化が成る。  (け) この主観共同化が 地域を超えて歴史を超えて共有されるなら――たとえば民主制なる理念など―― これは 共同主観(コモンセンス)と呼ばれる。これは 或る程度普遍的な真実であると見なされる。すなわち 次の説に相当する。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (5) 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。  (こ) 地域や民族の文化などによってその普遍性が狭まれたなら 共同主観は 部分的な真実となる。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (4) 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であるとする。    (さ) 民族(≒言語)文化をさらにその独自性において重く見る立ち場では この《部分真実》をさらに限定するようである。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (8) 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。  (し) この部分真実を けっきょく一人の個人(つまりその人の主観)にまでもう一度収縮させたものが 次の見解である。われが思えば・言葉で語るならば それが《真実》である。のだから それの共同化などは 問う必要はないと。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (7) 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。  (す) それではあまりにも独りよがりではないかと批判されたときには ふたたびのようにこの相対世界を超えて 絶対の真理の桃源郷にのがれる。:  ▲ (6) 真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は定義不可能であるという立場。  ☆ これは《真理》を言おうとはしているのである。 つまり (あ)に戻って 真理を《非知――知り得るか知り得ないかが人間には知り得ないナゾ――》として想定すればよい地点に戻っている。  (せ)  ご批判をどうぞ。賛成票をもどうぞ。

  • 現代社会

    中世日本人の考え方を表している分野文章の事例として適切なものを、次の1~4のうちから一つ選べ。 1、人は、自由化つ権利において平等なものとして出生し、かつ存在する。社会的差別は、共同の利益の上にのみ設けることができる。 2、「私は考える、ゆえに私はある」というこの真理‥‥私はこの真理を、私がもとめていた哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れることができると判断した。 3、あなたがたの天の父が安全であられるように、あなたがたも完全なものとなりなさい。 4、ゆく河の流れは耐えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 答えは何番ですか?

  • 《わたしがわたしである》わたしがわたしする

     1. わたしは 存在していないなら 誰かに・何ものかに欺かれることもない。    2. もし欺かれたなら それは わたしが存在しているからだ。    3. わたしとは いま・ここでわたしとみづからを呼んでいるその存在である。  4. この存在は もしそうとすれば 善である。意志の自由にもとづき そのこと(自由意志にて生きる存在)をよしとするわたしたちがいる。    5. 悪は 存在しない。悪とよぶ現象があるのみ。    6. 表現の問題とすれば 世界は善である。この善なる存在が ウソをつく。イツハリをおこなう。光も曲がる。    7. つまりは 善なる存在は その存在としての善をも損傷する自由のもとにある。    8. ウソが それを 思惟しただけではなく実行したなら そのぶん もともとの(自然本性としての)善を傷つける。自由意志がみづからに逆らう自由をも持つ。    9. このような善の損傷行為が 負の善であり いつもいつもマイナスの善と呼んでいては能が無いから ひと言で悪とよぶ。    10. 善が傷つけられた存在の部分ないしその欠けた状態をも 悪とよぶ。悪は 善のうちにしかない。  11. 存在は 意志自由において 善だが そもそもみづからは時間的な存在である。うつろい行く相対的なものであるゆえ 善も損傷を受ける。ただし その損傷があるのみであって 善のほかに別の存在または存在に敵対するものがあるわけではない。善がひがみ ゆがむのみ。  12. 人びとの中には やけを起こす《わたし》がいるだけのことだ。  13. 善なる自由意志のうちに みづからをも傷つけるゆがみ――へその曲がり――が生じる。わたしは わたしであるときこの悪をふくめてわが善なる存在を自治する。自己経営する。    14. 《わたし》たちは 社会をつくって それぞれ自己経営しつつ 社会つまり人間の行為関係を共同自治して生きる。    15. この わたしがわたしする自治の行為 あるいはそのような自己経営の集まりとしての共同自治の行為は――政治ともよばれるが―― しばしば愛ともよばれる。悪の共同自治ゆえ。  16. 愛とは 自治である。むしろ自己の愛に発する。自己を愛さずして 愛はあるか。    17. 《わたしがわたしである》わたしがわたしする。のだ。  18. これだけのことであるのに 世の中には――自由意志ゆえに――スットコドッコイが出て来ておかしな阿呆テツガクをこしらえることがある。  成否・当否を問います。  あるいは (18)以降を ご自分の見解で展開して行ってください。

  • 無知の知についての新しい解釈

    無知の知について自分なりの考えを書いてみます。 ソクラテスは「当時の賢人たち、つまりソフィストは本当の善(正しい)とは何かを知らない」と言うことを知っていたのでしょう。また善(正しい)はよい意味の言葉にはすべて内包していて、善こそ全ての良い言葉(愛、幸福、尊厳、勇気などなど)の本質だと言うことも彼は知っていたのではないでしょうか。 例えば愛とは何か、平和とは何かを議論するにしても善いと感じる言葉にはすべて正しいが入っていなければなりません。正しい愛を語らねばならないし、正しい平和を語らねばなりません。嘘の愛、いい加減な平和を語ってはならないのです。ですから本来「正しいとは何か」を知らないで愛を語ったり平和を語ったりしても本当のことを語ること等できないのです。それは無意味とまでは言いませんが、大切な時間の無駄遣いだと思うのです。いろんな社会的問題に対して善の意味を知らないで物事を語るというのは空しいことなのです。ですから、私たちはまず何よりも「正しいとは何か?」つまり本当の善、絶対善を追及しなければならないのです。 ソクラテスは当時、賢人と言われる人たちと議論しても本質、絶対的正しさを知らない彼らを必ず言い負かせるという自信があったのでしょう。だって当時も善は相対的と考えられおり、誰も絶対善なんて追求しなかったし、善は人それぞれだと思っていたのですから。 ソクラテスは絶対的な善はあるはずだと考えていました。ゆえにソクラテスは「絶対的な善はあるはずだ、しかしみんなはそのことは知らない」と言うことを知っていたのです。「無知」とは、言うならば「絶対善を知らない」と言うことでもあるのです。善(本当に正しい事)を知らなければ本当のことは何も知らないのと同じなのです。問い詰めればやがてボロが出て論破できるのです。 しかしそのソクラテスでさえ「善とは何か」その本質は分からなかったのです。ですが善の本質を知らなくても、ソクラテスのように善という絶対的なものがあると考えるだけでも、善は相対的であると考えている人たちに比べて断然に賢いと言えるのです。 「無知の知」とは「善とは絶対的なものがあり、そのことを自分は知らないことを知りなさい」と言うことでもあるのです。ですがソクラテス自身本当の善を知らなかったのですから、彼が教えられることは「自分が善を知らないことを知れ」と言うことだけでした。ですからソクラテスの弟子たちも絶対善を知ることはなかったのです。 「無知の知」を現代に当てはめてみれば、「正しいは相対的である」と考えている人たちはソクラテスにやり込められたエセ賢人たちと言うことになります。つまり利口ぶっている無知な人たちです。 勿論、絶対善を知ったとしても、例えば「愛とは何か」などの本当の答え、本質がすぐに分かると言うことではありません。いわゆるこれはイデアですからそれを知ることは困難を極めるでしょう。しかし絶対善と言う視点をもってみんなで話し合えば、やがて「本当の愛とは何か」が見えてくることでしょう。 絶対善を知らなくても「絶対善はある」と信じるだけでも「絶対善などない、正しいは人それぞれだ」とうそぶく人たちよりも格段の知恵者といえるのです、それはソクラテスがすでに証明している事なのです。 私は無知の知についてこのように考えてみましたが、どうでしょうか? 何か意見があれば教えてください。

  • 相対性理論が理解できません(涙)

    ある子供向けのサイエンスブックみたいなものを読んだ時に相対性理論について知ったのですが、そこには時空がゆがむと書いてありました。 でも、僕は時と空間は常に平行に進むと思うのです。時間という概念は人が作ったものですから、本来この惑星にはなかったものは重さなどには影響されるはずがない、とは言えないのでしょうか?時というのは人間が社会を作り上げ、生活を営むうえでとても便利なもの。けれど空間とは影響し合えない別なものにどうしても思えてならないのです。 ですが、相対性理論は理解してみたいのでこんな無知な僕にも分かるように説明していただける方を探しています。どうかよろしくお願いします。