• ベストアンサー

真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

 1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えているはずです。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。  6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?  7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。実際問題として余儀なくされることがあるかと考えられます。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。  23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。  23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。  30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。  38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

bragelonneさん こんばんは。お久しぶりです。 投稿を見るに、一元論化して物事を考えられないかという苦心を感じます。 しかし、物事は二元論の方が、説明するのに分かりやすいという側面があるのではと私は考えます。 つまり、「真があるから偽があり、偽があるから真がある。善しかななければ悪はなく、悪があるから善がある。美があるから醜があり、醜があるから美がある。」 人間の思考における認識の仕方は、プロタゴラスが言ったように「人間は万物の尺度」であり、ひとそれぞれ認識が違い価値観は相対的なものかもしれません。この考えでは二元論的思考と思います。 しかし、ソクラテスが追求したように絶対的なものがあるとすれば、例えば神の存在を肯定すると、一元論に集約するのではと私は考えます。 bragelonneさんは神学的にはアウグスティヌスに多大な影響を受け、新しい哲学体系を考えていると思います。 アウグスティヌスはキリスト教とプラトンの考えを融合しましたが、親プラトン主義のプロティノスの考えが投稿の13番の「悪は善の欠如」という言葉に表れていると思います。 プラトンは、有名な洞窟の比喩でイデアを説明しましたが、プロティノスを比喩で理解しようとすると、善の一者(イデア)という焚き火が燃えていて、それが神である。その焚き火の周りの火の粉は天使である。その焚き火の火から、遠ざかるに従い、人間、動植物、生き物ではない鉱物が存在し、光がだんだん弱くなり、光が届かない闇があり、そこに悪がある。 従って、投稿の13番の「悪は善の欠如」ということ、アウグスティヌスは良くぞ考えたと私は思います。 しかし、人間の自由意志を肯定すると、アウグスティヌスの論理はどうなるとbragelonneさんは考えますか?キリスト教では自由意志というものを尊重し、中世のスコラ哲学においても、人間は魂の他に、理性と意志を持つとして、意志というもの重要視します。 人間の自由意志を肯定すると、やはり善悪二元論となるように私は思いますが、bragelonneさんのご意見をお礼にてお待ちいたします。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは あめんほてぷ2000さん。ご回答をありがとうございます。  微妙ですね。わたしの見方を打ち出して行きます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  しかし、人間の自由意志を肯定すると、アウグスティヌスの論理はどうなるとbragelonneさんは考えますか?   キリスト教では自由意志というものを尊重し、中世のスコラ哲学においても、人間は魂の他に、理性と意志を持つとして、意志というもの重要視します。  人間の自由意志を肯定すると、やはり善悪二元論となるように私は思いますが、・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 二元論というのは 相対立する概念としての二つの事項といった意味であるはずです。  善悪・正邪・聖俗・浄穢・美醜・益害などなどの二項対立または そういった概念の双対です。  ですから これら二項対立は 相対的なものごとですから 絶対がそこでそのままあたかも自動的に想定され 真理・至高の善・そして美といったナゾとして描かれて行くのだと考えられます。  絶対については 一元でしかないはずです。ふたつも三つもあっては たまりません。つまり 絶対については 人間がその数を数えることも かないませんから 《全体としてのひとつ》でしかないと思います。  自由意志にからめてどう説明するかですが かんたんですよ。  人間の意志の自由には 基本的なあり方として おのが心にそのまま従った意志をえらぶということがあり そこからズレたりヘソを曲げたりする心の内容を意志とする場合が 道草や脱線としてあり得ます。  すなわち 自由意志は わが心にさからう内容をえらぶという自由をも持ちこれを発揮し得ます。これは アダムとエワの物語として語られています。  ★ つまり、「真があるから偽があり、偽があるから真がある。善しかななければ悪はなく、悪があるから善がある。美があるから醜があり、醜があるから美がある。」  ☆ という命題は ところどころ 微妙ですね。どうでしょう。  

その他の回答 (16)

回答No.17

言葉が難解なのが、哲学を困難にしている。 > 君は私に指摘されるまで、自らが聖霊を宿している自覚は無かったか? 君は私に指摘されるまでもなく、自らが聖霊を宿している自覚はあるか? 負の哲学、無の哲学、この否定する精神を、あんたは批判精神としている。 あんたにとっては、借り物の哲学手法に過ぎないはずだ。 君が自らの殻を破る事を期待しよう。 君が陶酔している、批判の根源は悪だ。 何故かは、思い当たろう。 死を阻むことに結論がある。 君が今やっている批判は、神に対してすら暴力である。 人に対して八つ当たりしていてもな。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとう。  聖霊がやどっていることの自覚があるかって?  そんなことは 神に聞いてくれ。おれのハカラヒではないからだ。  神に対する暴力なら いくらでも・何でもやってよろしい。  神なら ぜんぶ受けてくれる。暴力をふるう前から あんたを引き受けてくれている。  神が先だって言ってんだろ!

回答No.16

ところで確認しておく。 君は私に指摘されるまで、自らが聖霊を宿している自覚は無かったか? その神の宿りは信仰の果実だ。 これを証明し、実感させることができれば、大それた神の存在の証明だ。 実在する妖精の捕まえ方だよ。 子供たちにこそ、宿ってほしいものだ。 あんたは年齢並みによぼよぼであっては、私には張り合いが無い。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとう。  《聖霊がやどる》ということは あくまでも想定。  どちらかと言うと われわれ人間がそう願っているという部分もなきにしもあらず。  赤子が母親に――無条件に手放しの理屈抜きで――甘えるように 聖霊なる神に甘えることは きよらかなおそれと呼ばれる。赤子の聖なる甘えと同じことだが ものごころが着いて赤子のようには理屈抜きには成りがたい。よって 《おそれ》と言う。けれども それは きよらかなである。  そういう心の状態になったと宣言するのが いわゆるバプテスマ(洗礼)です。霊によって洗われたというわけです。  けれども このような神による聖霊の宿りは 人間は百パーセント 受け身である。神のほうが勝手に宿りに来るのだ。だから 問題があるとするなら 人間のほうにではなく 神のほうにある。  神の存在を証明するとか・しないとか 出来たとかダメだとか そういう話は どうでもよろしい。すべては 神のハカラヒのもとにあるのだから。  神が先だと言ってんだろ!

回答No.15

俺様はな。 生かそうとする事に失敗して、生かしきれなくてもな。 反省や後悔はしない。 生かすことに果敢に挑戦する。 死を阻む悪が悪の正義だ。 私の生き様にジラーチちゃんが感激して授けてくれたのが、アマテラスの善しだ。 仮面ライダ~。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとう。  1. 反省も後悔も どうでもよろしい。あやまちがあれば あらためること。のみ。  2. 《生かすこと》の仕方にあやまちがあるかも知れない。気づいたら あらためる。のみ。  3. 《アマテラスの善し》は みんなにそれがよいとしては認められていない。その普遍性について 明らかにしなければならない。できないなら あやまちがありうることになる。

回答No.14

くだらない近況だよ。 オカマバーで酔っ払う夜の哲学になれた私に、早起きしてしたためる昼の哲学は言うほど簡単ではない事が判ったよ。 酒が入った方が論説に切れがある。 私は永遠に生きる。 君達は今なを屍をさらし死にっぱなしだ。 これが夜の哲学だ。 私は永遠に生きる。 君達を携え、共に永遠である。 これがひるのてつがくだ。 説得はかなり困難だな。 ここで考えたんだが、他者を生かすことに失敗して、殺してしまったらそれは過ちだと。 自分だけ生きていればそれで良いと、開き直れば負の悪であると。 誰かに働きかける点で過ちがあり、ガミガミ的な批判の対象になろうとも、自分自身を表現しきったと、自己において満足できるなら反省なんて私はしない。 これは黒き明星の我が人生に悔いなしだ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとう。  問題は 反省よりも その結果です。  あやまちをみとめ反省することが問題ではなく――と言っても 反省してもよいのですが それでも それよりは―― あやまちをあらためることが いちばん大事です。  同じあやまちを延々と繰り返している場合があります。そういう問題です。    生きるや昼の哲学と言っていますが このように《あやまちをあらためること》が 昼と夜とを生きる哲学です。  あらためることが 仮面ライダーである。

回答No.13

あんたのおかげでひつ自分の事が判ったよ。 >過ちを犯さない人はいませんよ。 過ちを反省しない人ならいるぞ。 俺の事だー。

bragelonne
質問者

お礼

 ほうほう。よかったぢゃん。  ご回答をありがとう。

回答No.12

あんたは美しく自己表現する芸術家が判っていない。 > 自己表現があった。  マチガイがあった。  これを直して 自己表現のNo.2をおこなった。 なんじゃこりゃ~。 かつて私は自己表現No1を行った。 そして現在進行形で、自己表現No2を行う。 それはやがてNo3に発展するだろう。 反省や疑念は無い。 正当な自己表現だ。 なにやら哲学では後ろめたい事を懐古しているね。

bragelonne
質問者

お礼

 あやまちをおかさない人間はいません。よ。  ご回答をありがとう。

回答No.11

お礼を見て、印象だけ言っておこう。 あんたは、釈迦のごとき悲観論であり、イエスの処刑が正当であることに涙する悲観論であろう。 君が私は私である事は、誰かからもたらされた事実ではないかい。 俺は俺だー。 こう強く人類の裏切り者を名乗る私は、自分だけで生きている。 根拠が自らにあるのだ。 あんたはおそらく、人間同士の愛が希薄だろう。 貴方を愛した神への恩返しが足りないと思うよ。 愛されることに喜ぶ。 恩返しとは、自らの意思で甘えて、愛を深めることだ。 愛に答えることである。 その点で童心を失ってないけない。 年相応によぼよぼでは、君に宿る聖霊に苦労させっぱなしだ。 10年前のあんたの捕まえた妖精は、困難を楽しんでいた。 快活で頼もしかった。 貴方がその妖精に安らぎの密を与えれば報われるだろう。 神と人とでお互いに結ばれるのだ。 貴方は自分なりに神を知っている。 感謝を表現することは、神を題材として哲学で引用することを遠慮しすぎるな。 躊躇しすぎているよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとう。  ★ 根拠が自らにあるのだ。  ☆ ここは 違う。    もし神のことに触れないとすれば 人間は みづからの   感性と理性とそして意志にもとづき生きるよりほかない。  となるはずです。《もし神のことに触れないとすれば》という条件を抜かしていると考えるわけです。  だけど 《神》を持ち出してもいる。  ★ 神と人とでお互いに結ばれるのだ。  ☆ だとしたら 神が先である。《根拠》についても 神が先である。となります。  その神に  ★ 感謝を表現する  ☆ ことは 一般的に言って 要りません。  なぜなら わたし〔たち〕の心もおこないもぜんぶ神はすでに知っているから。  それが  ★ 神と人とでお互いに結ばれるのだ。  ☆ という実態です。

回答No.10

芸術家には、作品に対して、真善美のみを表現したと確信する自己陶酔があるよ。 疑り深い哲学とは違って納得しているんだ。 20世紀において主にヨーロッパで、この美の伝統すら屈辱する暴力の陶酔があった。 研究熱心な君の事だ、何がしか聞きかじっているだろう。 ニーチェ批判のように、20世紀への反省が哲学にも必要だろう。

bragelonne
質問者

お礼

 自己表現があった。  マチガイがあった。  これを直して 自己表現のNo.2をおこなった。  マチガイがあり これを直して No.3を表わした。  ・・・・  と続きます。    つまり《自己陶酔》にすぎなかったとそのマチガイに気づけば あらためて行けばよろしい。  そういう《反省》のことだと思う。  ご回答をありがとう。

回答No.9

もう一つ。 芸術という自己表現は、自己陶酔でもあって、まさしく自分だけ納得していればいいのだ。

bragelonne
質問者

お礼

 仮りに《自己陶酔》に落ち入ったとしても その状態を 真善美の理論において誰もが納得できるかたちで(経験合理性によって)説明できれば それが目指すところです。  独りよがりは ダメ。  ご回答をありがとう。

回答No.8

私は、はなったれだったころはともかく現在では。 私は私であり自らを偽らないと考えているよ。 想定じゃなくても、主観において自分だけ納得していればいいんじゃないかな。 実在する妖精が自信を与えてくれる特有の納得の仕方が私にはあるがね。

bragelonne
質問者

お礼

 お互いに間違えることもあります。  ご回答をありがとう。

関連するQ&A

  • 真善美のみなもとは 同じひとつであるか?

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第九章 いわゆる真善美について  1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問います。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には 善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。  6. では 美はどこに位置づけられるのか?  7. 善と悪とのいづれも相対的な主観真実をたずさえて生きるとき どこに重きを置くか? ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(家族から出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素を採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものがあってそれが起こるのではなく 善(存在ないし生きること)があってそれの損傷行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする、このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでない悪かが決まると捉えます。つまり 主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を知性として(つまり 認識した上で言葉に表わし)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められる。主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観とて 絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり 《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツワリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ規範をも超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めの真理ないし善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。  30. それは 侵したウソ・イツワリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツワリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が共有され得ます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をすすむ。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその差は 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも 普遍性がある。  38. このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。

  • 悪は存在しない。その名の現象があるのみ。

     ( a ) 神を見た人はいるか? 神と話をした人はいるか?  ( b ) いないと答え得るならば むしろ人間どうしのあいだで 善悪の定義をせざるを得ない。あるいはつまり善と悪との互いの区別について考え合い 或る程度は決め合うことができるのではないか?  ( c ) すなわち 善悪観をわれわれは共有しうるのではないか?  ( d ) 善とは このように話し合ったりして共生するところの存在を言い この存在つまり人間存在を〔色をつければ よく〕保ち守ることを言うのではないか?  ( e ) その善が善であることのシルシは 身について健康であることであり 心について人と話し合いができるということではないか?  ( f ) 以上のかぎりで 悪とは この善を傷つけることであり 善が傷ついたその部分のことをも言う。特には コミュニケーションを閉ざし壊す行為を言うのではないか?  ( g ) コミュニケーションの鎖国でなくても・つまり意思疎通はおこない続けていても 話を堂々巡りのかたちで 同じことの繰り返しに終始させるという場合 この場合はすでに実質的に鎖国政策だと見なし得るのではないか?  ( h ) 対話の中で張られた鎖国政策に対処するときに この質疑応答の場でブロックすることは そのブロックする者も 対話を閉鎖していると言わなければならないか?  ( i ) この場合も 人は難儀するが もっと難儀する場合というのは おそらく《我れは神を見た。神と話をした》と言って その大前提たる主義主張に固執して話をすすめる場合ではないか?  ( j ) ちなみに人は 神を見ることがあるのだろうか?       *  (参考) 善を損傷することは 負の善であり これを悪と呼ぶ。(つまり 悪独自の実態はなく 悪という呼び名があるのみである)。   §1 善でも悪でもないものごと  (1) たとえば ものを食べるのに箸でかフォークでかあるいは手でかという選択は 善悪にはかかわりがないと考えます。衛生に気を配れば手で食べても――寿司はそうしますし――かまわないでしょう。  (2) あるいは右利きか左利きかも 実質的に言って 善悪とは関係ないでしょう。  (3) クルマが右側通行か左側かも どちらが善でどちらが悪かという判断とは関係ないと思われます。  (4) 善か悪かに関係なく その判定をしないものを 《無記》と言うかとも思います。    §2 ここで 社会性を必ずしも帯びない段階での善悪を定義します。  (5) 善とは そう(善だと)見るところの主観である。ただし《わたし》の善は おおむね《わたしたち》の善である。そういう共通感覚または共同主観が成り立つと考えられる。すなわち:  (6) すなわち 善は おのれの心に逆らわないことがらであり 逆らうことは 負の善・すなわちひと言で名づけて悪である。  (7) たとえばウソをつくこと これが 善を損ねることであり その損傷行為を悪と名づける。  ウソをつくとき人は 胸騒ぎが起こり顔を赤らめたり言葉がしどろもどろになったりする。(これに慣れて鉄面皮になった状態は別だとしても。つまり 別だというのは そのようなヤマシサ反応が無効になることではない。ただ隠すすべをこしらえただけである)。そういう共通の感覚が観察される。  (8) このマイナスの善としての悪 この悪の起こりは このウソあるいはイツワリあたりにあるのではないだろうか。  きわめて主観的なことでありつつ この主観――身と心――の動きは 自然本性として人間に共通であると推し測られる。  §3 善悪観に社会性を導入すると どうなるか  (9) 主観とその心が 善の基礎となっている。そうすると 心ないし主観の基礎としての身および全体として存在じたい これも――それがなければ 善の基礎が成り立たないのだから―― 善である。  (10) つまり 人間存在は――これまでの話の限りで――善であり ここに社会性を導入するなら とうぜんのごとく存在どうしのとうとび合い あるいは 共に生きること これが善であるとなる。  (11) 《共生》が善だとしたとき その存在を守りつつともに生きるというのであれば やはりとうぜんのごとく《話し合い》が もっとも肝心である。相手の意志ないし心をおのれのそれと同じようにとうとびおもんじるという基礎的な意味内容である。     

  • 神 信仰および宗教についての一般理論

     神および信仰ならびに〔信仰の偽造物なる〕宗教についての一般理論  第一章 《信じる》と《考える》とを分けること   ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~      真理――信じる    事実――考える    真実――《信じる》+《考える(感じる)》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  1. 真理は 非経験の場――そういう想定です――である。事実としての経験事象を超えている。  2. 事実については 確かにそのいわゆる客観なる事実は じつは 人間の主観にとっては最終的な確実性においては 分からない。(つねに 未知の部分をのこす)。けれども 経験事象を認識すること・それについて考えること このことと事実とは 一対一において対応している。  3. 真理は 人間の能力によっては 認識し得ない。考えても それが何であるかについて分かるか分からないかが分からない。  4. ただし 事実が 主観によって認識され 主観真実の一環を占めるとき あたかも同じように 真理もそれが ともかく心に受け容れられて 主観真実を成すことになる。真理が 非経験の場であるとき これを受け容れたなら わが心に《非思考の庭》が成るという寸法である。信仰と呼ばれる動態である。  5. このとき 真理についても じつは・じつに 人間は《考える》ことを成す。たとえば 《真理とは 愛であり 慈悲である》とか 《この上なき善である》とか あるいは《真理はきみたちを自由にする》などなどです。  6. このとき 経験事実についての主観真実と 真理についての主観真実とが 紛らわしくなり 互いに混同されてしまうことが起きる。  7. ついには 真理についての《考える》の結果としての思惟や思想が オシエとして持たれ このオシエが あたかも真理そのものであると錯覚されるに到る。  8. 真理そのものを《信じる》のではなく そうではなくなり 真理についての誰かの主観真実としてのオシエが ついには《信じられる》という事態に発展してしまう。  9. まづは このマゼコゼについて 注意をはらうことが 大事ではないだろうか。信じると考えるとは 明らかに別のふたつのことがらである。  これを問います。

  • 善と悪の捉え方

      善と悪の捉え方について見たとき、人間には3種類いるよーである。 1つは善と悪は絶対的なものであり、人の立場や社会情勢に関わらず常に明確に区別できると考える人。 2つは善と悪は相対的なものであり、その時々の人の立場や社会情勢により善が悪にもなり悪が善にもなると考える人。 3つはもともとこの世に善も悪も存在しないと考える人。 果たしてどちらがより真っ当であると言えよーか、 どちらがより真理に近いと言えよーか。  

  • この世に 悪は 存在しない。

     ( a ) 悪は存在しない。  ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。  ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。  この問いを あらためて問います。    たたき台を あらためてさらにおぎないます。    ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。  ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。  ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。  ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。   

  • 悪は 存在しない

     《存在は 善悪を超えている》(質問として:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html)という命題のほうが すすんでいると捉えていましたが どうも それでは 鍵となるような要件を解明しえないのではないかと考えるようになりました。  もとに戻って この質問をします。  ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。  ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。  ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。  以上について 成否・当否を おおしえください。  なお   ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。  ○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。  ○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。   ○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。  これをとおして 存在論ないし人間論にせまれればと思います。自由な見解をお寄せください。  問い求めにおいて 質問者のわたしのほうが すすんでいた場合には 考える前提としてのことがらなどを述べて お応えとすることがあると思います。それが 度を過ぎると 規約違反になるそうです。あらかじめ このようにも――変なおことわりですが―― 触れておきます。

  • 《真理がすべてにおいてすべてである》人間はいるか

      《真理がすべてにおいてすべてである》人間はいるか?      1. いない。または いる必要がない。これを論証して ゴータマ・ブッダのさとりが まやかしであったという結論を得たい。   2. 《ブッダなるさとり》論に終止符を打ちたい。不毛であると。     3. ここで《真理》とは 変わることのない真実を言う。   4. 《真実》とは 主観真実ということなので 《変わらざる》という条件づけは マチガイなのであるが それをも想定する。   5. 真実とは 事実認識とそれについての主観の価値判断を言う。   6. 《事実認識》は どの主観が見ても同じ内容であるという認識行為の理念型を想定する。   7. 主観には価値判断のほかに いわゆる心あるいはまた存在全体としての境地が含まれる。   8. 主観真実の動態 これが 《人間》である。その真実には マチガイやウソ・イツワリも負の真実として含まれる。   11. 人間の生きる動態における《変わらざる真実》が 時空間のすべてにおいてすべてである――そのようなひとりの人間はいるか?   12. いるかどうかよりも そのように想定される人格(?)の人間は いる必要がない。のではないか?   13. さて 《ブッダなるさとり》とは 何か?

  • 人間6割悪4割善

    人間の6割は誰も見ていないと悪さをするといいます。 4割は誰も見ていなくても悪さはしないといいます。 科学的データです。(善悪二元論?) この事から一見悪そうな人も善だったり、善良な市民だと思えた人が悪だったりします。 たいてい悪の側の人間は、人をいじめたり排除したり、陰口、悪口が好きです。そのわりに社会的にはまっとうな人間に思わせてきますから見抜くのは難しいです。 宗教やっている人が善かといえばそうではなく、やっている人も集めれば6割悪、4割善でしょう。 しかしなんで悪が宗教やってるのかよくわからないです。教えてください。 また悪同士で友人、恋人関係を築いているわけですが、私には友情や愛といった感覚があるのか分からないです。どうやって結びついているのか・・・。 私自身、このデータにたどりつくまで、6割悪だと気づかずに人と付き合い、傷つき、損してきました。 これからは4割の方々とだけ付き合いって行こうと思っています。 これは何も悪を排除する事にはなっていないです。だって悪は6割もいて悪同士で結束しているんですから。 私は今まで悪と関わらないって事は悪を排除している事につながり、悪が善に転化するのを妨げてるんじゃないかって思っていました。 ですが最近は悪が善に転化することってないのではって思い始めています。 つまり人間は生まれたときから気質的に善と悪にわかれているのだと・・・。 まあ、ここまではデータは出ていないのですけれどね。 私のいってる事がほぼ真実に近いとしても、社会って6割悪だから、この考えは猛反対を受けて抹消されるとは思っています。

  • ヨーロッパ人の真理論は成っていない

     ヨーロッパ人の真理論は成っていない。という見解を示して問います。  ▲ (ヰキぺ:真理) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%90%86  § 1 西洋哲学における真理論  真理とは何か、についての研究を真理論という。以下に代表的な説を挙げる。  (1) 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。     アリストテレス、トマス・アクィナス、イマヌエル・カント、カール・マルクス、バートランド・ラッセル、前期ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、アルフレッド・タルスキ、カール・ポパー  (2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的な真理観。     中期プラトン、ライプニッツ、スピノザ、ヘーゲル  (3) 真理の明証説:意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。     ルネ・デカルト、エトムント・フッサール  (4) 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であるとする。     フリードリヒ・ニーチェ、ウィリアム・ジェイムズ  (5) 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。     チャールズ・サンダース・パース、ユルゲン・ハーバーマス  (6) 真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は定義不可能であるという立場。     フレーゲ  (7) 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。     フランク・ラムゼイ  (8) 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。     アンリ・ポアンカレ、デュエム、オットー・ノイラート  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (あ) ▲ (2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。公理的で演繹的な真理観。  ☆ にちなんで言うとすれば 大前提を《公理》ではなく 《想定》とするとよいのだ。経験合理性を超えた絶対的な整合性の世界――それは 人間には分かるか分からないかが分からない――を 真理として想定しますよと。  (い) 《イデア》では ダメである。いや 真理と想定したものを《イデア》と名づけただけなら よいのである。つまり イデアなる絶対真理の世界からこの仮象の経験世界のものごとを《演繹》して来ては ダメである。絶対と相対とが――人間の思考において/によって――つながったことに成ってしまう。  (う) 経験合理性による《整合性》だけでは ダメなのである。なぜなら想定によれば 真理は そのような・人間に理解しうる整合性から自由であるのだから。善悪の彼岸であり 或る意味で人間の判定する真偽をも超えている。  (え) ▲ (2) 真理の整合説:他の命題と整合的な認識が真理であるとする。  ☆ だから これはマチガイである。《いくつかの命題》を 経験世界において並列させても それらから真理は自由であるのだから。  (お) 言いかえると 経験事象にかんしてさまざまな認識をおこない命題として提出する。その命題の真偽がどうかという問題は 相対的な真実を問うている。絶対としての真理ではない。  (か) まづ 《事実》について人は認識する。これを自己表現する。その命題について まづその当人については 《明証性》があるなら 主観真実であると見なされる。――これが  ▲ (3) 真理の明証説: 意識に対して明証的に現れるものを真理とみる。  ☆ であり これは 厳密な定義としては 真理ではなく 相対的な真実のことである。  (き) すなわち ここから《明証性に立つ主観真実》が その認識内容として《事実》と合っているなら それは一般に《事実認識》として認め合われる。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (1) 真理の対応説(correspondent theory of truth):「思惟」と「事物」(羅:res、レス)が一致ないし対応していることが真理であるとする。  (く) そのことをもう少し具体的に細かく見てみよう。この一人のひとの主観真実が 当の事実と照らし合わせてほかの人たちによって検証される。やはり同じく自己の主観において真実として見解を同じくするなら そこでは 主観の共同化が成る。  (け) この主観共同化が 地域を超えて歴史を超えて共有されるなら――たとえば民主制なる理念など―― これは 共同主観(コモンセンス)と呼ばれる。これは 或る程度普遍的な真実であると見なされる。すなわち 次の説に相当する。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (5) 真理の合意説:合意された認識を真理であるとする。  (こ) 地域や民族の文化などによってその普遍性が狭まれたなら 共同主観は 部分的な真実となる。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (4) 真理の実用説(有用説):生にとって有効・実用的な認識を真理であるとする。    (さ) 民族(≒言語)文化をさらにその独自性において重く見る立ち場では この《部分真実》をさらに限定するようである。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (8) 規約主義:真理はその言語体系における規約に依存するという立場。  (し) この部分真実を けっきょく一人の個人(つまりその人の主観)にまでもう一度収縮させたものが 次の見解である。われが思えば・言葉で語るならば それが《真実》である。のだから それの共同化などは 問う必要はないと。(ただし 真理ではなく 真実である):  ▲ (7) 真理の余剰説(redundancy theory of truth):命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は無用な余剰であるとする。  (す) それではあまりにも独りよがりではないかと批判されたときには ふたたびのようにこの相対世界を超えて 絶対の真理の桃源郷にのがれる。:  ▲ (6) 真理の定義不可能説:命題Pは命題「命題Pは真である」と同値であるから、真理の概念は定義不可能であるという立場。  ☆ これは《真理》を言おうとはしているのである。 つまり (あ)に戻って 真理を《非知――知り得るか知り得ないかが人間には知り得ないナゾ――》として想定すればよい地点に戻っている。  (せ)  ご批判をどうぞ。賛成票をもどうぞ。

  • 情欲は罪だと言おうとしたのは なぜか

     この種の質問を重ねましたが あらためての設問です。  それは どのように 情欲を 克服するかには 直接 かかわりません。実際に どのように 扱えばよいかという処世術の問題ではありません。それなら 無理することなく 受け留めていけばよいと考えます。  趣旨説明は 次のようです。《罪》という概念が 鍵語であるようです。  人間の存在は 善悪を超えています。そのような価値判断に先行して 存在があります。《善悪を超えている》ものとして 存在は 善です。規定するとすれば そうなるはづです。  さて この存在とその持続に反することは 善ではなく 善を傷つけることです。この非善を 悪と称するというのが わたしたちの言語習慣だと見ます。  この悪にかんして そのような内容のことを 思うことからも 行なってしまうことからも わたしたちは まだ 自由ではありません。悪なることを思い行なってしまいます。この相対的な存在は 相対的な善であるに過ぎません。  だとすれば この悪から自由になろうと思えば そのときには おそらく最終的には 人間の能力と努力とでは 無理だと考えられます。しかも 悪から自由になりたいと思うなら おそらく ひとは この相対世界を超えたところに 解決(つまり すくい)を問い求めるように思われます。言いかえると この悪にかんして 人びと互いに対するものではなく――と言っても ふつうに 互いに 責任を負うことも 実際だと言わねばなりませんが―― その絶対の世界に対しての責任だと捉えるというものです。すなわち 《罪》という概念を持つというものです。  さて 果たして 情欲は 悪であり 罪であるでしょうか。  その昔には そう考えられたという歴史があります。どうして そのように考えたのでしょう。  現代では 何も考えないというのが 正解なのでしょうか。  長くなりますが わたしの考えでは もうすでに いわゆる《原罪》は 贖われ 跡形だけが――つまり しみ・そばかす あるいは ほくろや痣といった母斑に喩えられるものとしてのみが――残っていると見ます。だったら 情欲は どうなのでしょう? もともと 悪でも罪でもなかったのか。あるいは そうではあったが 原罪とともに 多少の後遺症をともないつつ その傷跡が 残っているだけだということでしょうか。どうも そうではないようですから あるいは ひょっとして エロスとして 古典古代人が神々の内に数えたごとく 中性の生命力〔の一側面〕と見るべきなのでしょうか?  以上の問いに よろしくご見解をしめしてください。