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「真理はわれらを自由にする」では社会は真理か?

真理とは ありのまま誤りなく認識されたことのあり方 と Wikipedia にはあった。しかし我々の目には ありのまま に認識する能力は はたして有るのだろうか。この世界には 可視光以外にも 色々な光が明滅を繰り返しているのだ。 この視覚に於いて既に 我々が ありのままを認識できない事 を物語っているではないか。ああ 何という能力の至らなさ。 では我々の社会は 偽の上に造られた事になる。 そこで問いたいのです。偽の上に造られた社会に於いて 偽の上に造られた真理が 何を以て我々を自由にする事が できるのか? さっぱりです (。・ω・)

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  • ベストアンサー
  • kanakyu-
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回答No.1

お気持ちお察しします。 私自身は、人の心の中もわからないし、その人の過去や状況もわからない、 「私は本当の事を知らない」と思うと、 人の理不尽な対応にも私の見えないその人なりの理由があるのだろう、 と思ったりしています。 つらいとき、自由になりたいときは、 「わたしは真理を知らないゆえに苦しんでいる。けれど、真実を信頼している。 もしわたしに、すべての真実を見通すことができたら、苦しむ事もないだろう。 けれど、真実は今も存在するのだから、見通すことができるまで、苦しみの中で待つ必要はない。 今みる事のできない真実を信頼し、今すぐ苦しみから自由にもなれる。」 と思うようにしています。

noname#150036
質問者

お礼

そうですよね仰る通り 真理を知らないが故に苦しいです。 実際 人が腹を立てているのを見ても その人の心の中の 真実までは知る由も無く お互いに苦しむものですね。 自由は与えられるのではなく 認識しなければ 成れないという事と受けとめさせて頂きました。 自由を貰うのではなく 信頼によって自由になるという事ですね。 有難う御座いました。

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その他の回答 (6)

回答No.7

 こんにちは。  まづ  ▼ (ヨハネによる福音書8:32) きみたちは真理を知り、真理はきみたちを自由にする。  ☆ これは イエスの発言です。その前後や文脈を知らなければならないでしょうが なかなかむつかしいので――少なくとも経験合理性で分かるかたちで表現することはむつかしく―― ではどうするかですが 一番の問題は この聖書の文句では 真理はあくまで神のことです。つまり 非経験の領域にかかわります。  ところが ですから  ▲ (ヰキぺ) 真理とは ありのまま誤りなく認識されたことのあり方  ☆ というときには 一般にこの経験世界のものごとについての《まちがいのない認識》を言っています。  ということで ご質問の趣旨説明の中のいくつかの事項については 出しゃばってしまいますが 整理がついたのではないでしょうか?  でも その上でですが 次のように回答を寄せたいと考えます。  ★ ~~~  そこで問いたいのです。偽の上に造られた社会に於いて  偽の上に造られた真理が 何を以て我々を自由にする事が  できるのか?  ~~~~~  ☆ 《我々を自由にする》のは 《非経験のあるいは非思考の神であり真理である》のですから それは措いておいて 考えてみるなら ここで質問者さんも けっきょく或る種の仕方でこのイエスの言う《真理》のことを あたまに置いて・あるいは心にいだいておられるということではないでしょうか?  すなわち明らかなかたちで 《偽り》と《真理》とを区別しておられるからです。  しかもその真理は 決して 相対的な限りあるうつろいゆく経験思考や観察にもとづく認識としての事実(ないしその認識において真実)にとどまるものではないとはっきりと例示し終えた恰好になっている。こういうことではないでしょうか?  ▼ 真理はきみたちを自由にする。  ☆ たぶんこの生身のわれわれにあっては 完全な自由なのではないでしょうが。  ★ では社会は真理か?  ☆ たぶん社会や世界や宇宙あるいはひとりの人間は 真理をおぼろげに映す鏡のようなものではないか。鏡を見ただけでは何も見えないでしょうが ということは 鏡をとおして見る となりましょうか? どうでしょう。そううまく行くわけはないでしょうかねぇ。  ▼ きみたちは真理を知り、真理はきみたちを自由にする。

noname#150036
質問者

お礼

おかげさまでだいたいですが固まりました。 有難う御座いました。

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回答No.6

ewig wiederkehren

noname#150036
質問者

お礼

この めんどくさそうな問いに対して 回答頂き有難うござい桝 ああ ツァラトゥストラの声が聞こえる たしか 初代 人の道さんも こんなつぶやきを・・・・・ 彼は超人的であった。あまりに超人的であったがゆえに 理解されなかった。はたして真理は何処に。

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回答No.5

人は、認識していないものを、意思する事はできません。 たとえば、社会生命たる人類において、自己の生命は 社会全体に依存しているにも関わらず、そうした組織性の 発達において、それを自覚化する認識性を発達させる労を 怠って、自己チューなままお金や出世といった“馬車馬の 目の前のニンジン”により、非自覚的に社会行動をとらせる 方法が発達しました。 その“お金をもうける自由”とは、自己存在の本質に根差し たものではなく、自己のトータルな生における他の欲求と 矛盾し、また低い認識による希薄な充足感として結果する 事により、真の生きる目的である「人生を通算した精神的 充足量の最大化」に反するものとなります。 換言すれば、真の自由とは、認識の深化において可能に なるものです。 もちろん世界には、それに抗する物質や他人が存在しま すが、実はそうした他律的存在に思えるものも、実は認識 の不完全さに由来する“自己矛盾”として生じているのです。 最新の量子論的世界像において、有限な存在性は観測 される事によって生じています。 自我仮説に対する相補して時空仮説が生じているならば、 全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源に まで遡った)必要なのです。 宇宙は、あなた自身の意思であり、その認識は無限の自由 =最大限の充足を可能にするのです。 先入条件のない真のの自由とは、「精神的充足量の最大化」 についての自己の可能性を最大限に発揮できる事であり、 社会生命としての人類においてそれは、自己の延長として 他を愛する事。 自分のために生きれば、肉体の消滅は、絶対的な敗北ですが、 あなたの生命を成立させている社会全体=真の自己のために 生きれば、その愛において、意志は自己の肉体や寿命を 越えて広がり、充たされます。 今や個人の生存は、衣食住どれも世界中の人々の営為に よっており、本当の意味での「世界のため」と「自分のため」は、 同じ事です。 そこに求められるのは、他我(=自己の延長として他を認識 する=愛)です。 愛とは、現象的なものではなく、この宇宙の起源=存在の 本質に関わるものです‥‥自我仮説に対する相補的な時空 仮説における、他我性(無の無限の闇に対する自我の射影) =愛こそが宇宙。 その愛を見失って憎みあう事もできるが、その「思いやり」を 失う事は、自己チュー化=意識の希薄化=宇宙の存在性の 消滅を意味する。

noname#150036
質問者

お礼

では やはり社会が退行しているとお考えでしょうか。 実はボクも退行している感が否めないのです。 ここにひとつの実例を挙げておきます。 ある村に 一人の男が住んでおりました。男は人と話す事が あまり得意ではなかったので 村はずれの丘の上に家を構えて おりました。 あるとき この村に風力発電事業が起きました。たくさんの風車 が建てられ この事業はクリンエネルギーブームに後押しされて 発展し村は豊になりました。 皆は大変喜んだかに見えましたが なぜか村はずれに住む男だけ 浮かない顔をしていたのです。話を聞いてみると 風車が建って から 体調が優れないとのことでした。村人たちは相談して 風車に対して改善を求める訴訟を起こしました。 しかし裁判所が下した結論は 健康被害を訴える者が男一人だけ であること そして風車が男の健康に直接的な影響を与える 科学的な根拠は無いとして この訴えを退けました。 男はやむを得ず 別の場所に引っ越しました。そうしましたら あら不思議 みるみる健康な体になり 今も元気に働いている そうです。めでたしめでたし。 はたして めでたしめでたしで終わって良いものだろうか。 国会図書館には 波動と健康被害に関する資料が 本当に 無かったのだろうか。ボクはこの国の第四機関である 国会図書館が 国益を重要視するあまり 事実を隠したのでは ないかと心配しているのです。 本当に社会は真理を求めているのか 疑わしいです。 長々と申し訳ないです。有難う御座いました。

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  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.4

真理は「言葉」なのです。言葉が真理であって、それを具現化する手段が社会という位置づけということです。それ故、社会のなかでいくらもがいても真理を見出すことは難しいし、もがけばもがくほど道を見失うのです。手段と目的を履き違えるからですね。 真理は言葉であり、理想であり、信じることしか出来ないものです。手にとって証明できるものでもありませんし、人間の劣った肉体の目で見えるものではありません。 蟻がどのように考え、行動したとしても横浜のランドマークタワーが理解できないのと同じです。 地球45億年の歴史の中で、人類は億という歳月を生きています。これは言葉の真実、真理ですが、目で見、頭で考え、墓や遺跡を掘り返し証明できることは数万年程度の歴史程度でしょう。 そういうものですね。

noname#150036
質問者

お礼

いつも原理的な深いおはなしを賜り 感謝しております。 >真理は「言葉」なのです ○そうでした その様に記憶しています。 ~~はじまりの言葉は神であった~~ こんな感じだったような気がします。 >それを具現化する手段が社会という位置づけということです ○社会は真理へ向かう手段であるわけですね。 このたびも深いおはなしを 有難う御座いました。

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  • TANUHACHI
  • ベストアンサー率31% (791/2549)
回答No.3

 この言葉は確か国立国会図書館の総合案内近くに記されていた言葉と記憶しております。 質問者様は一つの喩えとして光の問題を示し、物事には様々な側面がありそれゆえに一つの面から見た像のあり方が真理には至らない、と申されていると理解させていただきましたが、これでよろしいでしょうか?。  問題の言葉は恰も「群盲象を撫ず」の喩えに等しいけれど、逆に「一面の真理」との言葉もあることで言い得て妙な感もないではありません。三人の盲人が象という生物の身体的特徴に触れたことで「象は団扇のような生き物だ」「象は太い柱のようだ」「蛇のような生き物だ」と主張したこも「象という生物の特性」であることに強ち間違いであるとも断定できないでしょう。象を「地上に生きている哺乳動物の中で最大の大きさを誇る生物」と定義するならば、この三人の盲人の言葉は何れも正しいことになります。  質問者様の疑義を整理するならば、文面上にある「ありのまま」は「事実」、題意としての「認識したい」とは「真理」若しくは「真実」「本質」と置き換えることも可能と思われます。「事実」が必ずしも事の本質を反映しているとは限らないこともこれまでの人間の足跡から観て明らかでしょう。中世ヨーロッパに置いて「真理だったはずの」天動説も天体の運動を観察した結果から「真理ではなく、一つの説」にすぎない存在となり、一部には残っているものの「天地創造説」も現代では同様です。少なくとも社会を支配してきた価値観が合理的な説明のもとで否定されたことと件の言葉は同じ意味が込められていると僕は思います。  「知る」ことで偽物の皮膜を一つ一つ剥いで実像を明らかにすることができる。従って全ての事柄に対し「決定論的スタンス」で臨むことが真実を理解する道筋にとっての最大の障壁であると思われます。よりベターな選択肢があればそちらを選ぶことも必定と呼ぶべきでしょう。ですから「真理」は取り敢えずの到達点程度の位置付けであると僕は理解しております。

noname#150036
質問者

お礼

ご回答 有難う御座います。 質問の趣旨は仰る通りです。 質問文の解説までして頂きまして 感謝いたします。 のちに閲覧される方々にも理解され易くなったと思います。 ご回答下さいました内容を 把握したくて 辞書を引きながら 拝読させて頂いておりますが ボクなりに理解してみますと 「ニーチェ 教育者としてのショーペンハウエル」より引用文 を あてはめても差し支えないかもしれませんので引用します。 【 英雄的な人間は みずからの生活上の安否 みずからの美徳 や悪徳 そしておよそ自己の尺度による事物の測定を軽蔑する。 彼は自己についてもはや何ものをも望まず すべての事物に おいて この絶望的な奥底までを見ようと欲する。】 こういう風な意味の お答えではないかと受けとめました。 社会は未だに 真理に向かっては途上にあるのだから 余裕を持てということですね。有難う御座いました。

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回答No.2

>「真理はわれらを自由にする」では社会は真理か?  社会が偽なら、真理を知ることで社会から解き放たれ、自由になる。  と言えますね。  社会が真ならさらに社会にとらわれることになります。  社会は偽だからこそ成り立つとも言えます。 >偽の上に造られた真理が  偽の上に造られたものは真理とは言わないのでは。

noname#150036
質問者

お礼

>偽の上に造られた真理が 実はこれには事情がありまして 過去に物理学者が 全然真空 じゃない空間を”偽の真空”と称していたのを思い出して まねしてみました。やっぱり変でしたか。 恐縮です。 >社会は偽だからこそ成り立つとも言えます それもまた アリそうですね。 有難う御座いました。

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