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「真理はわれらを自由にする」では社会は真理か?

TANUHACHIの回答

  • TANUHACHI
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回答No.3

 この言葉は確か国立国会図書館の総合案内近くに記されていた言葉と記憶しております。 質問者様は一つの喩えとして光の問題を示し、物事には様々な側面がありそれゆえに一つの面から見た像のあり方が真理には至らない、と申されていると理解させていただきましたが、これでよろしいでしょうか?。  問題の言葉は恰も「群盲象を撫ず」の喩えに等しいけれど、逆に「一面の真理」との言葉もあることで言い得て妙な感もないではありません。三人の盲人が象という生物の身体的特徴に触れたことで「象は団扇のような生き物だ」「象は太い柱のようだ」「蛇のような生き物だ」と主張したこも「象という生物の特性」であることに強ち間違いであるとも断定できないでしょう。象を「地上に生きている哺乳動物の中で最大の大きさを誇る生物」と定義するならば、この三人の盲人の言葉は何れも正しいことになります。  質問者様の疑義を整理するならば、文面上にある「ありのまま」は「事実」、題意としての「認識したい」とは「真理」若しくは「真実」「本質」と置き換えることも可能と思われます。「事実」が必ずしも事の本質を反映しているとは限らないこともこれまでの人間の足跡から観て明らかでしょう。中世ヨーロッパに置いて「真理だったはずの」天動説も天体の運動を観察した結果から「真理ではなく、一つの説」にすぎない存在となり、一部には残っているものの「天地創造説」も現代では同様です。少なくとも社会を支配してきた価値観が合理的な説明のもとで否定されたことと件の言葉は同じ意味が込められていると僕は思います。  「知る」ことで偽物の皮膜を一つ一つ剥いで実像を明らかにすることができる。従って全ての事柄に対し「決定論的スタンス」で臨むことが真実を理解する道筋にとっての最大の障壁であると思われます。よりベターな選択肢があればそちらを選ぶことも必定と呼ぶべきでしょう。ですから「真理」は取り敢えずの到達点程度の位置付けであると僕は理解しております。

noname#150036
質問者

お礼

ご回答 有難う御座います。 質問の趣旨は仰る通りです。 質問文の解説までして頂きまして 感謝いたします。 のちに閲覧される方々にも理解され易くなったと思います。 ご回答下さいました内容を 把握したくて 辞書を引きながら 拝読させて頂いておりますが ボクなりに理解してみますと 「ニーチェ 教育者としてのショーペンハウエル」より引用文 を あてはめても差し支えないかもしれませんので引用します。 【 英雄的な人間は みずからの生活上の安否 みずからの美徳 や悪徳 そしておよそ自己の尺度による事物の測定を軽蔑する。 彼は自己についてもはや何ものをも望まず すべての事物に おいて この絶望的な奥底までを見ようと欲する。】 こういう風な意味の お答えではないかと受けとめました。 社会は未だに 真理に向かっては途上にあるのだから 余裕を持てということですね。有難う御座いました。

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