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「真理はわれらを自由にする」では社会は真理か?

雪中庵(@psytex)の回答

回答No.5

人は、認識していないものを、意思する事はできません。 たとえば、社会生命たる人類において、自己の生命は 社会全体に依存しているにも関わらず、そうした組織性の 発達において、それを自覚化する認識性を発達させる労を 怠って、自己チューなままお金や出世といった“馬車馬の 目の前のニンジン”により、非自覚的に社会行動をとらせる 方法が発達しました。 その“お金をもうける自由”とは、自己存在の本質に根差し たものではなく、自己のトータルな生における他の欲求と 矛盾し、また低い認識による希薄な充足感として結果する 事により、真の生きる目的である「人生を通算した精神的 充足量の最大化」に反するものとなります。 換言すれば、真の自由とは、認識の深化において可能に なるものです。 もちろん世界には、それに抗する物質や他人が存在しま すが、実はそうした他律的存在に思えるものも、実は認識 の不完全さに由来する“自己矛盾”として生じているのです。 最新の量子論的世界像において、有限な存在性は観測 される事によって生じています。 自我仮説に対する相補して時空仮説が生じているならば、 全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源に まで遡った)必要なのです。 宇宙は、あなた自身の意思であり、その認識は無限の自由 =最大限の充足を可能にするのです。 先入条件のない真のの自由とは、「精神的充足量の最大化」 についての自己の可能性を最大限に発揮できる事であり、 社会生命としての人類においてそれは、自己の延長として 他を愛する事。 自分のために生きれば、肉体の消滅は、絶対的な敗北ですが、 あなたの生命を成立させている社会全体=真の自己のために 生きれば、その愛において、意志は自己の肉体や寿命を 越えて広がり、充たされます。 今や個人の生存は、衣食住どれも世界中の人々の営為に よっており、本当の意味での「世界のため」と「自分のため」は、 同じ事です。 そこに求められるのは、他我(=自己の延長として他を認識 する=愛)です。 愛とは、現象的なものではなく、この宇宙の起源=存在の 本質に関わるものです‥‥自我仮説に対する相補的な時空 仮説における、他我性(無の無限の闇に対する自我の射影) =愛こそが宇宙。 その愛を見失って憎みあう事もできるが、その「思いやり」を 失う事は、自己チュー化=意識の希薄化=宇宙の存在性の 消滅を意味する。

noname#150036
質問者

お礼

では やはり社会が退行しているとお考えでしょうか。 実はボクも退行している感が否めないのです。 ここにひとつの実例を挙げておきます。 ある村に 一人の男が住んでおりました。男は人と話す事が あまり得意ではなかったので 村はずれの丘の上に家を構えて おりました。 あるとき この村に風力発電事業が起きました。たくさんの風車 が建てられ この事業はクリンエネルギーブームに後押しされて 発展し村は豊になりました。 皆は大変喜んだかに見えましたが なぜか村はずれに住む男だけ 浮かない顔をしていたのです。話を聞いてみると 風車が建って から 体調が優れないとのことでした。村人たちは相談して 風車に対して改善を求める訴訟を起こしました。 しかし裁判所が下した結論は 健康被害を訴える者が男一人だけ であること そして風車が男の健康に直接的な影響を与える 科学的な根拠は無いとして この訴えを退けました。 男はやむを得ず 別の場所に引っ越しました。そうしましたら あら不思議 みるみる健康な体になり 今も元気に働いている そうです。めでたしめでたし。 はたして めでたしめでたしで終わって良いものだろうか。 国会図書館には 波動と健康被害に関する資料が 本当に 無かったのだろうか。ボクはこの国の第四機関である 国会図書館が 国益を重要視するあまり 事実を隠したのでは ないかと心配しているのです。 本当に社会は真理を求めているのか 疑わしいです。 長々と申し訳ないです。有難う御座いました。

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