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善について 2

starfloraの回答

  • starflora
  • ベストアンサー率61% (647/1050)
回答No.29

    わたしは、初めの頃の No.3 の回答の最後に、以下のように記しました。この意味が貴方に理解できたのかということを考えます。   実は、これは何を書いているのか、分からない文章なのです。無論、書いたわたくしは、朧にその意味を知っています。しかし、説明をしなかったし、これは、補足がなければ、そもそも分からない文章なのです。いま一度、引用しましょう。     他者の心や考えや、その存在の悲痛が、いかに深淵に満ちたものであるのか、まともに理解できておられないようですから。   ====================================================================     こういったもろもろのことを考え併せて、しかし、この世には「何かよいことがあるのか?」という問いは、他人に尋ねる問いでもあるでしょうが、自己で問い続けるべき問いでもあるでしょう。そういうことを言っていると宗教的だと言われてしまうのですが、「貴方が生きる」とは、「貴方が生きる」ことなのです。そんなことは分かっていると思われるかも知れませんが、それが「分かっていれば」、聖人でしょう。人間の本性から発露された善や、人為・自由意志による善は、探せば、無数にあることでしょう。無論、それらは、偽善や欺瞞や悪の泥沼のなかに隠れているというか、時に、それらと区別の付かない形であるのでしょうが、それが善であることは、人の苦悩の道を通じてしか実感できないとも言えるでしょう。     「生きよ、死せよ、休息せよ。汝ら、苦悩する雛鳥たちよ」生きよ、死せよ、汝ら、見捨てられし魂たちよ。「神の国は、そこにある、あそこにある、というようなものではない。それは、実に《あなたがたのあいだに》あるのだ」これは『新約聖書』にあるイエズスの言葉ですが、キリスト教の宗教の話だと思わないで、人間の生きる姿を的確に表現した言葉だと受け取るとどうでしょうか。神学的な解釈は色々ありますが、「あなたがた」とは、人間のことだけではないというのが、わたしのいまの考えです(天使のことでもありません)。     誰もかつて、「善」とは何かを知った者はいなかったのだとも言えるでしょう。善の探求、智慧の探求は、こうして、何時までも、人間の課題であり、人は、見捨てられし雛鳥として、いつも限りなく孤独で見捨てられ、しかし、目に見えない《あなたがた》のあいだにあるのだとも言えるでしょう。記憶違いかも知れませんが、インマニュエル・カントは、「我々を導くのは、頭上の星と、我々のうちなる理性である」と述べました。     答えになっていないかも知れませんが、答えのないまま、見捨てられし雛鳥として生きて行くのが、人の生きる姿ではないのかということです。神秘的な話だと言われるかも知れませんが、雛鳥の頭上の夜の空には、燿く一つの星があり、雛鳥を見守り、そして鳥の胸のなかには、理性と知性と、そして智慧への愛、善への志向の課題の自覚があるのではないのかと。こういう言葉です。   ====================================================================  

chihoko
質問者

お礼

 ほかのことにも時間を使いたいので 質問を締め切らせていただきます。 ●ご回答いただいた皆様に お礼の意味で以下を紹介させていただきます。 ●角川書店「死刑執行人の苦悩」 よりエピソードを抜粋。 その死刑囚は30代なかばであった。 世間からはむろん肉親からもみはなされて まったくの ひとりぼっちという おおかたの死刑囚にくらべれば その死刑囚はまだ恵まれているほうだった。 妹が面会や差し入れに来ていた。 遠くに住む姉からも 手紙や差し入れが送られてくる。 それでも 死刑囚は不満らしかった。 彼には 感謝というものがまるでない。 せっかく面会にきた妹に悪態をつく。 貧しい生活のなかから工面した差し入れ品に 文句をつける。 面会に来た妹が 泣かずに帰ることはなかった。 「どうせ死ぬんだ。」その死刑囚の口癖だった。 そして警務官に いちいち食ってかかる。 なにかにつけて ことごとく牙をむき 凶暴性をむきだしにする 手のつけられない死刑囚だった。 しかし 法務大臣の執行命令書が届けられた翌日 いつになく しんみりとした口調で 死刑囚は警務官に語りかけてきた。 「おれ 死ぬのはいいんだ。だけど おれは 四人も殺したからなぁ・・・。 四人の命を おれひとりの命で償えるのかなぁ。」 鉄の扉ごしでなければ このとき警務官は 死刑囚をおもいっきり抱きしめてやりたいとおもった。 死刑囚は本当は 素直に周囲の愛情を受け入れたかったにちがいない。 ●わたしの詩より [せみ] にまつわるものを ひとつ。 [ カナカナ ] 午前四時 眠れないわたし つい今しがた降り出した雨 まだ明けぬ空に カナカナが鳴き始めた 一匹鳴いたら あちらこちらで鳴く声が重なった うす明かりの山々に悲しく悲しく響いた ふと 思った 今日までの命かと ●わたしたちのご先祖様が 築いてきたさまざまな文化と文明へ  敬意をはらって いま そのそれぞれの延長線上に 新しい世界を築こう。  互いの存在を侵さず 地球上のすべての命たちと共に  その豊穣なる多様性への道を歩もう。  生を受けた誰もが ここがパラダイスだと感じる日々が来ることを信じつつ・・・。  ネバーギブアップ! 決してあきらめるなっ! chohoko

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