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善にも悪にも交じれない

私は善にも悪にも交じれないと感じます。 優しくて素敵な人と知り合うチャンスもありました。しかしいつまでたっても対等になれず、一緒にいれて嬉しいのに、苦しいのです。相手の心の美しさが、自分の邪心を際立たせたり、その方の潔癖さに心の中でたじろいでしまうのです。その人の優しさや純真さや潔癖さに触れる度に、仮面を被ってしか一緒にいられない罪悪感やむなしさを感じます。 かと言って悪口を言ったりいじめや悪事を働くことに罪悪感を感じない、それを楽しむような人と一緒にいても苦しく、恐怖を感じます。 そんなことはしたくない、そんなことをして喜びを感じる人間になりたくないという思いが強いです。しかし、妬みや嫉みという感情は大いに理解でき、それを持ってしまうのが人間だという思いも持ってしまいます。 この優柔不断さが自分でも嫌でクリスチャンの友人に話すのですが、善と悪を選択出来ない者は両方に引っ張られてボロボロになる、賢い人と歩めと言われました。 善にも悪にもなれない、中立にいるような人間は結局は一番の悪なのでしょうか。 戦いも主張もしない傍観者は一番の卑怯者なのでしょうか。 両方の考えに感化されて、自分の本当の気持ちもよくわからくなりました。

みんなの回答

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10472/32928)
回答No.5

売れていてお金がある芸能人がチャリティーをすると、「売名行為」とか「偽善」と批判する人が必ず現れます。そういう活動に熱心な人は、そういう中傷にも動ずることもしないでやってるんですから、それは評価されるべきですよね。「みんな喜んでくれると思ってやったら批判されたからもうやんない」では無責任というか、「その程度の気持ちだったのか」って思いますよね。 だから一番かどうかは別にして、傍観者は卑怯ではあると思います。自分が一番傷つかないポジションにいたがるわけでしょ。特に外国人はというか、日本人以外はだいたいどこの民族も「自分の意見をきちんと主張できるのが頭のいいやつだ」と判断するので、国際的な場にいけば自己主張をしない人は「あいつは自分の頭で考えられない愚かなやつだ」と相手にされないことも多いのは事実です。 私なんかは割と自己主張するほうですから、外国人からは「君は他の日本人と違って自分の意見を持っていてスマートだね」っていわれる一方、日本人からは「誰がお前に意見を求めたのか」と「出る杭は打たれる」も痛いほど経験しました。また、出ればいいわけではないということも年齢と共に学びました。今は求められない限りはなるべく差し出がましい真似は慎むようになりました。 しかし善人にも悪人にもなれないというのは、覚悟が足りないというか、悪い言い方をすれば小心者であるということなのじゃないかしら。どっちの立場にもなる勇気が持てないからどっちつかずの立場でいるってことでしょ。傍観者なら傍観者に徹してそれによって孤立することがあろうと、世間はどうあろうと我は我が道を行くってほどでもないのでしょ。

回答No.4

随分と高尚な悩みをお持ちのようですが、人間なんて皆そんなものです。 誰でも善人にもなるし、悪人にもなります。中立が悪だなんて考え過ぎです。 世の中はうまいこと成り立ってます。 それは、善も悪も中立も存在するからです。

回答No.3

Flannery O'Connorさんの『A Good Man Is Hard To Find』等が 考えるヒントになるでしょう。 〈ふろく〉 Friedrich Wilhelm Nietzscheさんの『善悪の彼岸』を読んで、 質問者さま自身の『善悪の彼岸』を書きあげてみませんか。 キリスト教徒は、牛・豚・鶏・羊・魚介類etc.を食しながら、 鯨や海豚を殺すのは罪悪だと主張して、小国の日本を 攻撃しつづけています。 安易に感化されないで下さいませな。 発狂しないで下さいませな。 自殺しないで下さいませな。 All the Best.

  • doraneko66
  • ベストアンサー率11% (535/4742)
回答No.2

考え過ぎでしょう。 善悪なんて人それぞれ違います。 善悪みな同じなら、戦争なんて起こりません。 善悪がはっきりしているほど、自己中だと思いますよ。 善悪は、見方で変わります。 よは、自分の価値観で判断しちゃっているわけですからね。 世界平和を願って世界征服考える正義、善と思う人もいるわけで、ぶっちゃけ今あなたが日本人であるなら、日本の法律に従うことが正義であり善です。 それ以外は、悪としか言いようがありません。 だから、あなたがどんなことを思おうが、想像をしようが法律に違反しない行動は善です。 例えば 一夫一妻が善と言う国が多数ありますが 一夫多妻がOKの国にしてみれば、悪でもなんでもなく、むしろ国に民族を増やすことに貢献していて、善とするところもあるでしょう。 死刑が善の国もあれば 死刑を善と考えない国もあります。 なので、あれこれ考える程度のことは、特に悪でもなんでもありません。 そんなこと言ったら、ホラー映画作る人、全て悪になっちゃいますよ。

noname#228046
noname#228046
回答No.1

善良かつ自己犠牲的な人も、凶悪かつ利己的な人も、 人格がそうなるだけの経験(環境)からそうなっただけ。 7000万年前に種として分かれた犬や猫ですら 虐待を受ければ凶暴化し、平和に幸せに生きれば温厚に近付く。 人も世界もただ今在るだけの理由を持って今そう在るだけ。 ある1つの物事や人の気持ちでも、単純なものは無い。 常に複合的かつ多面的で、どこをどう見るかで見え方は変わる。 何が恩恵で弊害かも見方次第で幾らでも覆る。 私達はそういう曖昧な世界を自分の視点で生きているだけ。 善か悪か卑怯か否か考えても視点の数だけ答えは微妙に変わり、 1人の人ですら絶えず考えは変わり捉え所など無い。 まぁ理屈で考えても出口なんて無いですよ。 嬉しい気持ちを巡らせる事が出来た瞬間を大切に生き、 自分の幸せを願ってくれる人の想いに応えつつ、 自分が背負い過ぎて苦しむ様を見せない程度に手抜きをし、 ほどほどに生きて行く事がいいのではないでしょうか。 もし自分の幸せを追うだけは抵抗があるならば、 今困っている人を助ける活動に参加し、 何があれば困らずに済んだか考え備える活動に参加するなど 自分にもできる事を見つけやる事を見つけ そちらを向いて生きて行けば 答えの出せないものに悩み続ける事は減らせるのではないでしょうか。 以上、1個人の意見でした。

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