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将軍の姫が・・・
広島藩の家老の三原浅野氏に、将軍の姫が嫁いだと聞きました。いくら三万石の城主とは言え、陪臣の正室に将軍家の姫君が嫁いだというのはビックリしました。 詳しい経緯を教えて頂ければ幸いです。 三原浅野家は御三家附家老の様に、諸侯に準ずる扱いだったのでしょうか?従五位下に叙任されたりしていたのでしょうか?
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姫は月渓院のことでしょうか? 興味があって調べてみたら、徳川家光のご落胤で、春日局に御典医の娘として育てられ、3代城主・浅野忠真に一目惚れして嫁いだみたいです。 院号の月渓院殿心誉栄讃珠光大法尼となっていますが、この「月渓院」は私の持っている資料によると、 家光の次男・亀松につけられています・・・。 三原浅野家の扱いについては分かりません。ごめんなさい。
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- tkr1977
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こんばんわ。 浅野広島藩初代三原城主が浅野長政の従兄弟にあたり、 http://www.m-network.com/sengoku/busyo/busyo-a.html 広島本家浅野家の浅野長晟(広島藩初代)には家康の娘・ 正清院 振姫(1580-1617)が嫁いでいます。 http://tikugo.cool.ne.jp/osaka/busho/asano/b-asano-akira.html ですので、「陪臣」と言っても徳川家と浅野家は縁が深かっ たのではないかと想像します。 「赤穂浪士」の浅野家も広島浅野家の分家ですし・・・。
お礼
御回答ありがとうございます。 確かに陪臣ながら城主を許されていますので、別格の扱いだったのでしょうね。 他に陪臣の城主と言えば熊本藩の松井氏(八代城主)・仙台藩の片倉氏(白石城主)と御三家附家老くらいのものでしょうか…
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お礼
御回答ありがとうございます。 御落胤で、他家に出されて春日局に養育されてのですね。流石に一目ぼれとは言え、将軍家の娘が陪臣の妻にはなるのを周りが許さないだろうと思っていたので、すっきりしました。