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御三家の附家老について
よく御三家の附家老は、江戸城に伺候席も無く、本来大名筋の家なのに陪臣の身になった、と言われます。 ある意味、柳間に席があった越前の本多家の方が恵まれていたとも聞きます。 でも、水野家や中山家などには、大名の姫が嫁いでいますし、娘が大名の室になっていたりするようです。 朝散太夫にも叙任されていますし、そういう意味では、他の大名には陪臣ながら大名と同格の家だと認識されていたのでしょうか? ただ、戒名の格式?などは大名より劣っていて、交代寄合の旗本と同格の格式だと聞きました。 附家老についてご意見を頂戴できれば幸いです。
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江戸時代、武家の守名乗りは大名・諸太夫の役職に就いた者・三千石以上の大身旗本に許されていたと思います。 陪審でも、御三家御附家老や加賀八家のように従五位下に叙任される特格の家柄はあったと思いますが、一般の大名家の家臣(特に重臣層)が守名乗り(越前守・讃岐守・縫殿頭など)をすることは出来たのでしょうか? 「かみ(守・正など)」を付けずに山田安芸、田中勘解由、鈴木民部、山本隼人と名乗ることは普通にあったと思いますが、「かみ(守)」を付けて名乗ることはどうだったのでしょうか? 公式には許されてなかった場合、○○守の私称がまかり通っていたとするならば、○○守で公文書に署名することは出来たのでしょうか。 大石内蔵助の内蔵助も正式な官名だと思うのですが、旗本では大身しか許されていないものを、陪臣にすぎない大名家の家臣が「大石内蔵」ではなく「大石内蔵助」と名乗ることは問題なかったのでしょうか。 ご意見を賜れれば幸甚です。
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江戸時代、譜代大名は国替えが頻繁にあったようですが、その際、先祖のお墓というのはどうしていたのでしょうか? 国替えを命じられなかった外様の大藩などでは国許の菩提寺に歴代藩主の立派なお墓が整然と並んでいたりしますが、頻繁に国替えを命じられた大名家の墓所は各地に点在していたのでしょうか?それとも江戸か親交のあった古刹に造っていたのでしょうか? 藩主もですが家臣達は自分の先祖の御墓の管理をどうしていたのかも気になっています。 あと、鳥居元忠の三男・成次ですが、甲府宰相忠長の附家老となる以前は大名(甲斐谷村藩主?領主?)だったのでしょうか? 元大名だったとすると、御附家老就任後の鳥居家の家格は諸侯から陪臣へ下がったのでしょうか? どなたか御教授頂ければ幸いです。<(_ _)>
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お礼
ご回答ありがとうございます。 渡辺半蔵家や長坂血槍九郎など、その智勇を買われて与力として附属したのに、いつの間にか一介の陪臣になってしまった家に比すと、附家老五家はまだ幸せな方なのかもしれませんね…