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御三家の附家老について

tanuki4uの回答

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  • tanuki4u
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回答No.2

徳川幕府体制はよく、「庄屋仕立」といわれます。必要に応じて、必要な人間を宛がっていった。 御三家成立に関しても、家康が天下様になった段階で、膝下にいた三人の幼児が独立した大名家になった。 しかし、幼児なので、しっかりとした「爺」が必要で、その爺がいつのまにか、徳川本家に戻らずに(戻れずに)付家老となった。 というのが実態です。 いつのまにか陪臣になったものだから、江戸時代を通じて、直参になる運動をしており、明治になって立藩していますね。

noname#30350
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 渡辺半蔵家や長坂血槍九郎など、その智勇を買われて与力として附属したのに、いつの間にか一介の陪臣になってしまった家に比すと、附家老五家はまだ幸せな方なのかもしれませんね…

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