- ベストアンサー
守名乗りについて
江戸時代、武家の守名乗りは大名・諸太夫の役職に就いた者・三千石以上の大身旗本に許されていたと思います。 陪審でも、御三家御附家老や加賀八家のように従五位下に叙任される特格の家柄はあったと思いますが、一般の大名家の家臣(特に重臣層)が守名乗り(越前守・讃岐守・縫殿頭など)をすることは出来たのでしょうか? 「かみ(守・正など)」を付けずに山田安芸、田中勘解由、鈴木民部、山本隼人と名乗ることは普通にあったと思いますが、「かみ(守)」を付けて名乗ることはどうだったのでしょうか? 公式には許されてなかった場合、○○守の私称がまかり通っていたとするならば、○○守で公文書に署名することは出来たのでしょうか。 大石内蔵助の内蔵助も正式な官名だと思うのですが、旗本では大身しか許されていないものを、陪臣にすぎない大名家の家臣が「大石内蔵」ではなく「大石内蔵助」と名乗ることは問題なかったのでしょうか。 ご意見を賜れれば幸甚です。
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
その他の回答 (1)
関連するQ&A
- 旗本(寄合)の守名乗り
三千石以上の寄合は守名乗りすることが出来たということですが、これは寄合なら誰でも守名乗りを許されていたということでしょうか? 浅野内匠頭の弟・長広は三千石の寄合で、「大学」と称していたようですが、どうして「大学頭」と守名乗りをしてなくて官名風の「大学」なのでしょうか。
- ベストアンサー
- 歴史
- 「忠臣蔵」の石高疑問
素朴な疑問です 「忠臣蔵」の主役・大石内蔵助と 敵役・吉良上野介について 当時の武家の「石高の感覚」についてです 幕臣(旗本)と藩士(陪臣)の違いはあれ 大石内蔵助も吉良上野介も 領地を禄として与えられていた上級武士でしたね 史実の赤穂事件を文献等でみると 大石家・赤穂藩家老:1500石 吉良家・高家旗本:4200石 ところが 大石内蔵助は 「代々家老の家柄で石高は高かった」 「四十七士は微禄の者が多かったが大身だった」 吉良上野介は 「石高は低いが高い官位を持っていた」 「高家を勤める名家だったが石高は少なかった」 等と語られる事が多いですよね 質問:大石内蔵助と吉良上野介だと 石高では吉良が大石よりも3倍近く高いのに なぜ 大石の石高=高い、吉良=低い と言う認識で語られるのでしょうか?
- 締切済み
- 歴史
- 柳沢出羽守と松平出羽守の両立は武家名乗り?本物は?
勉強になっております。語句など知識に間違いがあれば遠慮なくそれもご指摘下さい。最適な用語を学びたいと思っています。 1.出羽守の官職を持つ、公家がいたのでしょうか。 2.出羽守に限らず、○○守、○○介など武家と官名が重複する官職を持つ公家がいたのいたのでしょうか。 3.江戸時代の武家官位は員外官とありますが、同時に、それは官職ではなく、官名だけだとあります。そういう名前だけものを員外官というのでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%AE%98%E4%BD%8D 禁中並武家諸法度で決められてからの名乗りに代わる言葉、「武家官位」などという後世の歴史用語でない、他の言葉がありませんか。法度では何かしらの言葉で表現されているはずですが、武家の官名なのでしょうか。「名乗り」は公式用語ではないように思うのですか。 ちなみに名乗りとは位階も含まれるのですよね。すると、 4.言葉遣いに苦慮される人は多いと思うのですが、 官名と言えば「○○守」などを指す言葉として歴史話が通じるのでしょうか。律令制の地方官の官名に限った用語はないのでしょうか。 5.武士の間では、官名を、どのように呼んでいたのでしょうか。会話としては「そちの名乗りはなんじゃ」と言っていたのでしょうか。幕政上の公式では「そちの官職はなんじゃ」でしょうか。 幕府と朝廷では公式には何という言葉で事務処理されていたのでしょうか。 6.柳沢出羽守も、松平出羽守も、勅許を得ているはずですから、 (先のリンクより) 「そのまま官途名として認められた位記・口宣案」については、いくらでも発給できたということになりますよね。朝廷側の名簿はなんというのですか。やはり武家専用の別の名簿ですか。やりたい放題の名簿。 8.しかしながら、将軍の官位、例えば、正二位、内大臣、右近衛大将、征夷大将軍は、官名だけでは、ありませんよね。しかし松平出羽守は武家官位で名前だけ。朝廷的に、本物と偽物が混在しているということになりませんか。大名は本物で、幕臣陪臣は「武家官位」。ひょっとして、幕末の小栗上野介はもちろん名前だけの武家官位だが、高家旗本の吉良上野介は、朝廷からもらった本物だったから、高家と言えるのであって、実力のある官位だったとか? 9.素人ながら「武家の官位」の上下には敬意を感じぜずにおられなかったのですが、それが「武家官位」であれば、朝廷的には、本来の物とは別の名ばかりの代物だったわけですか。その権威が武士社会では有効だったということでしょうか。 柳沢出羽守と松平出羽守の重複問題は、官職の重複自体には、何の問題もなかったということですよね。幕政上、区別できなくなるというだけのことですよね。 公家の方にも出羽守がいるとすれば、公家では○○守の官名の重複は許されませんよね。律令国に一人ですからね。 部分的で結構ですので宜しくお願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
- 御三家の附家老について
よく御三家の附家老は、江戸城に伺候席も無く、本来大名筋の家なのに陪臣の身になった、と言われます。 ある意味、柳間に席があった越前の本多家の方が恵まれていたとも聞きます。 でも、水野家や中山家などには、大名の姫が嫁いでいますし、娘が大名の室になっていたりするようです。 朝散太夫にも叙任されていますし、そういう意味では、他の大名には陪臣ながら大名と同格の家だと認識されていたのでしょうか? ただ、戒名の格式?などは大名より劣っていて、交代寄合の旗本と同格の格式だと聞きました。 附家老についてご意見を頂戴できれば幸いです。
- ベストアンサー
- 歴史
お礼
内蔵助は雅楽助・縫殿助と同じように内蔵寮の次官を意味する六位相当の正式な官名ではないでしょうか。 毛利家の江戸留守居役だった福間彦右衛門は、彦右衛門という官名風の名前を名乗っていますが、これも正確には「彦右衛門尉」だったようで、こちらはまさに官名を真似たのだと思います。 鶴岡酒井家は歴代「左衛門尉」を官名として名乗っていますが、右衛門府の判官には左衛門大尉と左衛門小尉があったと思うのですが、上杉弾正大弼の大弼などと違って「大・小」をとっぱらってしまったのでしょうか・・・。難しいです。 加賀八家は年寄就任で従五位下に叙任されているので、おっしゃるように前田土佐守家の土佐守は正式な守名乗りだと思います。 福原氏は毛利家の一門八家(永代家老)に名を連ねる家禄1万石以上の重臣という点では加賀八家にもそう劣らない家柄ではありますが、福原越後は「官名風」になるのでしょうね。 同じ毛利家臣でも吉川氏は江戸時代を通じて従五位下に叙任されていないまでも守名乗りは許されていたっぽいです。 ありがとうございました!