• ベストアンサー

大名・旗本

大名同士はどう呼び合っていたのでしょうか? 例えば島津修理太夫と伊達陸奥守は互いにどう呼び合っていたのでしょうか? 「陸奥殿、薩摩殿」でしょうか?「薩摩守殿、陸奥守殿」と「守」をつけて呼んだのでしょうか? 「島津殿、伊達殿」と苗字で呼ぶ事もあったのでしょうか? 守名乗りをしない旗本同士だとどう呼んだのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • m4374m115
  • ベストアンサー率32% (120/370)
回答No.2

大名は官職名だけで呼ばれます。 島津は薩摩守、毛利は大膳太夫(だいぜんのたいぶ)、水戸家は中納言で、苗字は付けないのが正式な呼び名です。同じ国の守が同じときに2人以上付くときがあります(普通でした)が、そのときも苗字や名前は呼びません。 この呼び方ができるのは大樹(幕府)だけです。 徳川家の記録書(徳川実紀)も幕府の記録なのでこの呼び方です。 大名どうしはその国の略称に「殿」を付けて使用します。薩摩守なら薩州(さっしゅう)殿、出羽守は羽州(うしゅう)殿です。略称のない国はそのまま備前殿と呼びます。 家来からは「殿」と呼ばれました。 家来が他の大名を呼ぶときはその国の呼び方に「様」を付けます。薩摩守様等です。 官職はよく変わり、覚えるのが大変ですが、大名武鑑が毎年発行され、これで覚えるようでした。(江戸初期から幕末まで常に出版され、氏名、役職、官位、家紋、俸禄高、在所、大名の江戸屋敷、行列の際の道具等が記載され、大名行列を見物するためのガイドブック)

noname#30350
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 国持ち大名以外だと、国名ではなく地名で呼んだのでしょうか。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

その他の回答 (1)

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

老中同志が互いに呼び合うときは讃岐殿、信濃殿といって守の字を略して呼び合い、また老中が将軍に大名を披露するときはそれが国主であろうと安芸、薩摩といったように守の字抜きで披露したようです。 それ以外の大名同士であれば「薩摩守殿、陸奥守殿」と呼ぶこともあったでしょうが、同じ名乗りを何名かが使用している場合もあり「島津殿、伊達殿」というように呼びかたも使い分けていたのではないでしょうか。 旗本同志も、旗本が名乗ることのできる守名乗りは同名が何人もいましたから、時と場合によって苗字で呼んだり、あるいは苗字+名乗りで呼んだりと使い分けていたのではないでしょうか。

noname#30350
質問者

お礼

御回答ありがとうございます。 苗字で呼ぶ事もあったかもしれないのですね。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 大名同士の交遊

    大名同士が私的に交友する事はよくあったのでしょうか? 例えば幕府からすると仮想敵国の毛利大膳太夫と島津薩摩守が親しく交際する事は何ら問題のない事だったのでしょうか?

  • 旗本

    三千石以上の旗本は「守名乗り」をしたという事ですが、これは家督相続の年に「守名乗り」を許されたのでしょうか? 大名と違って「守名乗り」をしても従五位下に叙任されなかったのでしょうか? 三千石以下の交代寄合は「守名乗り」を許されたのでしょうか? 交代寄合は従五位下に叙任されていたのでしょうか? 駿河久能の榊原家は家督で従五位下に叙任されていたと聞いた事があるのですがど本当でしょうか? どれか1つでも結構ですので、ご回答頂けると幸いです。

  • 官位?に松平を付けるのは何故か?

    (伊達)松平陸奥守・(島津)松平薩摩守等。譜代・親藩・外様に関係無く官位?に松平を付けるのは何故か?教えてください。

  • 旗本

    旗本は大名と違って譜代・外様の区別がなかったようですが、外様大名分家の旗本でも五位諸太夫の要職を歴任する事は通常であったのでしょうか? 大身旗本で代々、番頭など要職を歴任する家もあれば、ほとんど代々無役寄合の家もあったそうですが、やはり家柄・出自・由緒によって差別・区別がなされていたのでしょうか? どちらか1つでも良いので、お考えをお聞かせ頂ければ幸甚に存じます。

  • 大名・旗本の婚姻

    大名・旗本が婚姻する際、相手側の家の家格はどれくらい重視されたのでしょうか? 例えば、伺候席が大広間の国持ち大名が、柳間の大名の子弟子女と婚姻するといった事はよくあったのでしょうか。

  • 外様大名と旗本・御家人疑問

    荒木又右衛門や大久保彦左衛門等 江戸初期を扱った時代劇ドラマで 外様大名と旗本・御家人は 反目していて 仲が悪かった 特に旗本は外様大名を目の敵にしていた と言うのがあったのですが 質問(1) 当時、外様大名と旗本・御家人が 実際に対立したり反感を持っていたり していた事があったのでしょうか? 質問(2) (1)があったとしたら 両者が両者が対立したり 仲が悪かった原因は どんな事でしょうか? 質問(3) 外様大名の分家で 旗本に取り立てられた家がありますが そう言うのは 外様大名、旗本・御家人 どちら派になるのでしょうか?

  • 大名と隠居

    大名が隠居した場合、隠居後も位階と守名乗りはそのまま許されたのでしょうか?

  • 旗本

    旗本で、大名の姫を妻に迎える事はあったのでしょうか?逆に、大名が旗本の姫を正室に迎える事はあったのでしょうか? 吉良少将の妻が上杉家出身だったり、附家老や吉川家の正室が大名の娘だったりしますが、旗本や万石以上の陪臣が大名の姫を妻にするのは一般的だったのでしょうか?

  • 守名乗りについて

    江戸時代、武家の守名乗りは大名・諸太夫の役職に就いた者・三千石以上の大身旗本に許されていたと思います。 陪審でも、御三家御附家老や加賀八家のように従五位下に叙任される特格の家柄はあったと思いますが、一般の大名家の家臣(特に重臣層)が守名乗り(越前守・讃岐守・縫殿頭など)をすることは出来たのでしょうか? 「かみ(守・正など)」を付けずに山田安芸、田中勘解由、鈴木民部、山本隼人と名乗ることは普通にあったと思いますが、「かみ(守)」を付けて名乗ることはどうだったのでしょうか? 公式には許されてなかった場合、○○守の私称がまかり通っていたとするならば、○○守で公文書に署名することは出来たのでしょうか。 大石内蔵助の内蔵助も正式な官名だと思うのですが、旗本では大身しか許されていないものを、陪臣にすぎない大名家の家臣が「大石内蔵」ではなく「大石内蔵助」と名乗ることは問題なかったのでしょうか。 ご意見を賜れれば幸甚です。

  • 大名・旗本と養子

    大名・旗本が無嗣で養子を迎える際、親戚に相応しい男子があっても持参金目的で他家から養子を迎えるという事はよくあったのでしょうか。 それとも持参金より血統の方が重視されたのでしょうか。