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家老の家臣
大藩の家老ともなると万石を食んでいる者も多く、その家臣も陪臣ながら百俵以上の家禄を与えられている者も少なくなかったと思います。(紀州家付家老で田辺城主・安藤家の城代・安藤小兵衛は陪臣ながら家禄九百俵だったと聞きました。) 家老の家臣は例え数百俵の家禄を貰っていても家格としては藩の足軽などよりも下位だったのでしょうか? それとも、陪臣ながら藩士の家格も与えられていたりしたのでしょうか。
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