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武家の格付け

武家の格付け 50万石くらいある大藩の筆頭家老なら自身も2万石ほどあってもおかしくないですよね? この大藩をAとして家老をBとします。 Bのさらに筆頭の家臣で1000石のCがいるとして、一方A藩の末席の直臣で300石のDがいるとしたら、 やはりDはCより格上になるのでしょうか? また一万石の大名Eは家老Bよりやはり格上なのでしょうか?

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回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>Bのさらに筆頭の家臣で1000石のCがいるとして、一方A藩の末席の直臣で300石のDがいるとしたら、 Dの方が大名直属のため、家格は上になります。 >>また一万石の大名Eは家老Bよりやはり格上なのでしょうか? こちらも、大名Eの方が家格は上です。 しかし、大名自身が一万石しかもらっていないのに、2万石出せるはずはありません。 ただし、2万石の家老が他藩の者であれば、当然、逆転現象は起きるでしょう。 封建社会では、主人(将軍や大名)直属の方が何と言っても権威は上位になります。

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  • tanuki4u
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回答No.3

実例で言えば御三家の附家老 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%84%E5%AE%B6%E8%80%81 将軍に対して陪臣になるので、独立した大名になるべくずっと運動していて、明治時代になってようやく独立した大名となった。 なぜ、独立したかったか?格が違うから。 格は 将軍からの距離で決まります。 城持ちだろうが、陪臣です http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E5%B1%B1%E8%97%A9

  • tak7171
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回答No.2

直参と陪臣という言葉がありまして、 上は100万石の前田大納言家から扶持米取りの御家人まで、 禄高に関係なく、将軍直属の家臣を「直参」と呼びました。 陪臣とは家臣の家臣のことであり、 大名の家臣がいくら禄高が多くても、江戸の木っ端旗本に 「俺らァ天下の御直参、  またもの(陪臣のこと)風情とは訳が違うのよ」 とやられてしまうのです。 上の理屈で、AとEは直参という形の上では同格、BとDは陪臣で同格、 Cは陪臣の陪臣ということで最下位ということになります。

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