「泣ける」「笑える」という表現について

このQ&Aのポイント
  • 「泣ける」「笑える」という表現が嫌いです。巷ではあちこちで見られますが、私はその表現が他人事なのであると同時に、発言するための表現ではないと思います。
  • 古い付き合いの友人に「泣ける」「笑える」と言う人がいて、そのコメントにイライラします。話の真髄を読み解くのが得意ではないため、相手の気持ちを理解していないのかもしれません。
  • 「泣ける」「笑える」という表現をする人は周りにいるか気になります。身内や知人にそういう人がいる場合、ずっと付き合っていけるか考える必要があります。また、あなたの意見や経験談を教えていただけると嬉しいです。
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泣ける、笑えるという表現について

こんばんは。 「泣ける」「笑える」という表現が嫌いです。 巷では「泣ける」「笑える」という表現があちこちで見られますね。 この表現は、他人事な表現であると同時に、その「泣ける」「笑える」という内容、たとえばそういったお話の当事者に対して発言するための表現ではないと思うのです。 泣ける本、笑える本 という売り文句は、あくまでも他人事なのであれば構わないと思うのですが。 これは私の考えなのですが。 古い付き合いの友人に、すぐ「笑える~~」「泣けるね~~」とコメントする女(38)がいます。 先日は私の祖母が亡くなった事に対してのコメントが「泣ける~~」でした。 (別に祖母は他人を泣かせるために死んだわけじゃないんだよ!) そもそもこの人は、話の真髄を読み解くのが得意ではないので、だから相手がどう思うのか分かっていないのかもしれません。 たとえば愚痴など、笑い話の様に話していたとしてもその内容次第では「怒り」を感じる事があるはずです。 ちゃんと真意を読む事が出来る人は、「それは…ひどいね。」とコメントしたり、励ます様な内容なのですが、その人は「笑える~~」と一言で返事をします。 それを言われるとかなりガッカリします。 私は、何度か訴えたのですが伝わらず相変わらずなのでお手上げ状態です。 その点も含めて、大した欠点ではないのですがそのたびに私がイライラするのが困ります。 私の方が変わるべきなのでしょうか。 何が正当な感情で、何が誤り(誤解)なのかを自力で認識する上でも、将来子供のしつけに必要な事だとも思いますので、小さい事ですが質問させていただきました。 このような「泣ける」「笑える」という表現をする人は周りにどのくらいいますか? もし自分の身内や知人にそういう人がいて、ずっと付き合っていくのに耐えられますか? または「泣ける」「笑える」という表現について、何か思う事がありましたら(または何も感じないでも)コメントを頂けると嬉しく思います。 愚痴でも経験談でも、あなたの感じた事を含めて書いていただけると周りの人の考えが分かりやすいので嬉しいです。 よろしくお願いしますm(._.)m

質問者が選んだベストアンサー

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  • ucok
  • ベストアンサー率37% (4288/11421)
回答No.4

おっしゃること、わかります。切り捨てるのは簡単ですが、たとえばこれが友人ではなく家族だったら切り捨てるわけにはいかないし、できることなら友人に対しても、上手に付き合っていきたいものですよね。 >このような「泣ける」「笑える」という表現をする人は周りにどのくらいいますか? 38歳にもなって、友達のお婆さまの訃報に「泣ける~~」と言う、あるいはコメントする人は稀だと思います。私の周りでは少なくとも、こういうケースに遭遇したことがありません。そもそも「~」の使い方が常識とは違う感じがします。 >もし自分の身内や知人にそういう人がいて、ずっと付き合っていくのに耐えられますか? 耐えられないので、工夫すると思います。 >または「泣ける」「笑える」という表現について、何か思う事 ある種の流行語のようなものですし、この表現自体に異論はありませんし、自分でも(質問者さんのおっしゃある「他人事な表現」としては)わりと使います。 しかし、ご質問で問題としておられるのは、この表現自体ではなく、この表現の“使い方”なのだと感じました。また、質問者さんの場合は、何度も注意した、つまり、それなりにご自身が工夫しているおつもりなのに自体が改善されない点がお悩みなのだと感じました。 さて、私の友人や親族にも、心無い発言をする人なら大勢います。何度ハッキリ言っても改善してくれない人もいます。これが自分の子供や部下など、自分が指導的立場にある場合は、やめてもらうよう、理由と代替案を添えて伝えています。改善されなくとも、情報として伝えるだけは伝えます。特に代替案を提案することは大事です。「代わりに、こうして」ということですね。 しかし、指導する義務が私にない相手である場合は、いきなり切るのは申し訳ないので伝えることはもちろん伝えますが、改善をはかるのは無駄だと感じた時点で、はたらきかけをやめることにしています。 ただし、それだけでは私のストレスになるので、たとえば嫌なことをされたら、とりあえず、しばらくは冷淡に接するようにしています。レスポンスを書き送らないとか、対面しているなら相槌を打たないとか、関係性によっては口をきかないといった対応をします。 これは相手に気づいてもらうため、あるいは気づこうとしてもらうためでもありますが、どちらかというと、自分がそれ以上傷つく余裕がないからです。自分が元気を取り戻した時点で、以前のような対応に戻します。 逆に私の場合、そのような相手には、自分が何を言われても傷つかないという自信ができるまで何も言わなかったりしますね。たとえば、身内が死んでも「今伝えたら、ろくでもないことを言われて自分が傷つきそうだ」と思ったら、悲しみを乗り越えるまで何も伝えません。伝えざるを得ない場合には、どうせ変なことを言われるだろうと覚悟したうえで伝えます。そうすれば、何を言われても雑音にしか聞こえませんし、万が一失敗しても、あらかじめ用意していたストレス発散方法に走ることができますので。 なお、自分のほうが誤解している可能性もなきにしもあらずです。たとえば(あくまでも例ですが)ご質問の件でしたら、ひょっとすると、ご友人はお婆さまが亡くなったこと自体を「泣ける~~」と言ったのではなく、亡くなったことに伴って何か泣けるような出来事があり、それに対して「泣ける~~」と言ったのかもしれません。そういうことこそ、このようなQ&Aサイトで投げかけたり、何日かあたためてみることで、自分が冷静になって、初めは気づけなかったことに気づけたりします。 また、友達付き合いも古くなると、徐々に互いに甘えが出てきます。他の相手には使わない軽率な表現を、軽口感覚で使ってしまうし、また、使われたほうも、善意に解釈する努力をする前に、感情的な怒りのほうが先にわいたりしてしまいます。まさしく家族と同じようなものですよね。 一方では、出身地によって表現方法は大きく違います。たとえば、長年同じ都市で付き合ってきたから、表現方法の基準も同じはずだと思いきや、互いに、若い頃の出身地の習慣をいつまでも引きずっていたりします。そこも贔屓目に見る必要があります。 >ちゃんと真意を読む事が出来る人は、「それは…ひどいね。」とコメントしたり、励ます様な内容なのですが、その人は「笑える~~」と一言で返事をします。 これはお婆さまの一件とはちょっと違うのかもしれないなと私は思いました。たとえば、怒り心頭の状態で愚痴を言う。それに対して「笑える」と言われる。すると、「ああ、これって笑えることなんだ」と気づいて、それまでの怒りがバカらしくなって笑いに方向転換できる場合があります。そういう方向転換のきっかけを与えてくれるのが友人らのちょっとした発言だったりした私には経験があります。 とはいえ、私の友人に、直感でものを言うわりには言葉足らずな傾向がある人がいます。たとえば、「あなたの痛みを思うと私まで涙が出てきちゃった」と言えばいいところを「泣ける~」で済ませたり、「こんなことを言ったら不謹慎かもしれないけど、それは正直言って、笑っちゃうような話だね。よく考えてみて」と言えばいいところを「笑える~」で済ませたりするようなところがあります。 この友人に対して私は、かなり必死になって、その言葉のどこに善意があったのかを探りだしたりすることで、自分を落ち着かせたりしています。また、相手は言葉をあまり持たない人なわけですから、こちらも言葉の洪水を浴びせないように注意しています。 あとは上手に突っ込むことですね。「は? 笑える?」と投げかけることで、会話の流れが改善されるような場合はそうします。 いずれにしても、抱え込んでいたものを世に向けて吐き出せば、世の刺激が跳ね返ってくるのは当然です。とはいえそれは、刺激の多い世に向けて吐き出せるほどまでに、自分が回復しているということでもあります。逆に、まったく回復していなくて、単に誰かにすがりたくて物事を吐き出す場合には、相手を慎重に選ぶ必要があります。 あくまでも私のやり方ですが、ご参考までに。

eimotosubal
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 一気に読んで、お返事がめちゃくちゃ長くなってしまいそうですが、全てのお言葉において私に足らない物が満載でした。 こういった自分に欠如している考え方や対応など、その良し悪しも同時に見えてきて今後の自分の血肉になる喜びを今、肌で感じています。 「自分に欠如している考え方」というような表現をする時点で、かなり私自身の成長が止まっている証だと改めて気付く事も出来ました。 頭では自分の成長が止まっている事を分かっておりましたが、具体的にどんな部分が足らないのかなど、こうして他の人に理由も添えて具体例を書いていただける事で新たに学ぶことが出来ます。本当にありがとうございます。 因みに私も巷で使われている「泣ける」「笑える」という表現は、1つの表現方法として捉えておりますし、いちいちそれに対して許せないような感情は持ちません。 私の友人については、言葉足らず(と言うべきか表現違いと言うべきか)で間違いありません。 そうでなければ付き合っていないと思います。 やはり一番大事なのは心であって、言葉ではないと理解しているからです。 それをくみ取る事が出来る程度の長いお付き合いはしていますから、だから言葉に腹を立てる事があっても付き合っていけるのだとも思います。 私以外の他の人が嫌がる表現の可能性があるから注意をしていたのです。 私もストレスに感じますし。 私や友人の関係を大事に考えてコメントをして下さる心遣いも本当に嬉しく思います。ありがとうございます。 一文一文にお礼のコメントをしたいとも思いますが、うまくまとまりそうにありません。 つたない文章ですがこれでお礼に代えさせていただきます。 最後に、貴重なお時間をありがとうございました。

eimotosubal
質問者

補足

ベストアンサー、No.3とNo.4 どちらも併せて選びたいのですが、もっとも沢山の情報が得られる此方に差し上げますね。 これできっと読んだ他の方も沢山の物が得られると思います。 ベストアンサーに選ぶことが出来るのはおひとりだけですが、他の方の回答もとても参考になりました! ですが一言だけ… 切り捨てるのは簡単ですが、切り捨てずに向き合って上手に付き合おうとする事が自分の身になることもあると考えています。 私が過去に切り捨ててきた知人は大勢おりますが、それでも今のお付き合いを大事にしているだけの理由はあるのですから、簡単に切り捨てる事は出来ません。 パッと出来たところの知人であれば、友人だともハナから思いませんから、そこはご安心下さい(笑)

その他の回答 (4)

  • pct10968
  • ベストアンサー率21% (640/2970)
回答No.5

じじいです。 確かに近頃の日本語表現は壊れかけてきている気がします。 >このような「泣ける」「笑える」という表現をする人は周りにどのくらいいますか? お客様商売でもあるし、職場にも若い人達はいますが、そのような表現をする人は見かけません。 話を全て「ヤバイ」で返す人もいるという話も聞きますが、「泣ける」「笑える」という表現も会話として成り立っていかないので、何れ淘汰されてしまうはずです。 私なら、「ヤバイ」泣ける」「笑える」という言葉で返されたら腹が立つので、二度と話しかけません。

eimotosubal
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 じじいですか。私はばばあです。(笑) お客様商売をされているのですね。 それであれば猶更言葉使いや語弊のある表現は避けるべきと考えるでしょうね。 何より語弊というのはちょっとしたトラブルと捉えます。 ヘタをしたらそれで関係が壊れてしまいますし…。 語弊の説明や弁解で更に誤解させてしまってこじれて…なんて考えただけでもゾッとします。 日ごろから言葉選びは慎重にしておかないと、普段の言葉に出てきてしまいますね。 「ヤバイ」という言葉も、確かに!!! 英語でもAwesome!って似たような言葉がありますけれど、これも直訳すると「恐ろしい!」 とかそういう意味ですよね。米俗で「すっげぇ!」て使い方されてますけど… アッそうか!俗語だったんですね。 フォーマルな言葉を使うべき所で俗語を使うから忌み嫌われる。 何となくそれも1つの理由の様な気がしてきました。 何よりその3つの言葉を頻繁に使う人は「軽薄」に見えますね^^;; 私もその様な言葉づかいしか出来ない人とはお付き合いしたくありません。 幸い私の知人はそこまでではないのと、もう少し言葉を選べる人ですが時々ボロが出ます(笑) その知人は子供もいますし、私にももう少しで生まれますし、お互いの教育の為にも時間を取って語ろうかなと今考えているところです。 貴重なお時間をありがとうございました。

  • izumi044
  • ベストアンサー率36% (1247/3419)
回答No.3

感情の機微をうまく言葉で表現出来ない人もいますけど。 何が正しいのか間違いなのかではなく、その方の少ない語彙から発せられた言葉に対して、自分がどう相手の感情を受け取るのか。 これも大切なことではないでしょうか。 ちなみに。 私自身、訃報を聞かされた時に、自分が同じ立場に立った時のことを想像して「泣けてきた」と表現したことはあります。(実際にうっすらと涙が滲んできました) そういう捉え方を質問者さんはしたことがおありですか。 誠実な方なのだとは思いますが、真面目であろうとするあまり、言葉の幅をご自身で狭めている面はないでしょうか。 ご友人にも言葉足らずな面はあると思いますが、もう少し言葉に対して大らかでいてもいいような気がします。

eimotosubal
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >誠実な方なのだとは思いますが、真面目であろうとするあまり、 >言葉の幅をご自身で狭めている面はないでしょうか。 この文章、まさに真髄な気がしました。 確かにそうです。誠実で、真面目でありたいと思うあまり、否定的になりすぎていると感じました。否定する事が決して誠実である事には結びつくとは思えませんし、言葉に対しておおらかである方が私にとっても理想に近づける気がします。 こちらに質問してこのような身になる回答が頂けて本当に感謝します。 前後しますが、私自身が先述の通り「泣ける」という表現を嫌っている為、その様に表現することはありませんでした。 確かに涙を流している自分は、客観的に表現すると「泣けてきた」から泣いている訳ですが、それは状況の説明でしょうか。 …! 今これを書いていて気づきました。 「泣ける」なんで嫌いなのかわかりました。 「I " can " cry」の "can"を感じる表現だから、嫌なんだなと。 (もしかしたら語弊あるかもしれませんけど…) いきなり英語表現でおかしいんですけれど、「泣ける」という表現は「第一に自分が泣きたくてやっとそれが可能になった。内容については二の次」という様な表現に聞こえるから腹が立つのですね。 よくよく考えたら、「泣ける」という表現には確かに可能を表す言葉ではありますがソレだけではありませんでした。 私は学生時代から国語が苦手なので上手にコレを説明できませんが、別の意味で感じるべきだったのかもしれませんね。 もっとも、2つ以上の意味合いに取れる言葉の場合、失礼になる可能性のある言葉として認識して、使用を避けるのがベターだという考えは変わりませんけれど。 ダラダラとお礼に自分語りが入ってしまい申し訳ありません。 貴重なお時間ありがとうございましたm(._.)m

  • kamikami30
  • ベストアンサー率24% (812/3335)
回答No.2

普通がどうだか気になります? 私ならあなたと同じ状況であれば、その相手を切り捨てて終わりです。

eimotosubal
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 しまったなぁ、性別も一緒に載せて欲しいと書けば良かったかなぁ。 男女でも考えが違う様な気がしてきました(笑) 私も、その子の短所が長所を大きく上回る存在なら切り捨てています。 ただ、ここにはその子の長所をつらつらと書きつづる様なスペースも無いですし 一言で言えばその短所を大きく補えるだけの長所を持つ人なのです。 私は、その長所が好きで長い事友人を続けています。 No.1の人が言うように感性は少々私とズレておりますが、別段それ以外の部分で 許せないほど気に入らない部分がないんです。 感性が合っても薄情な人の方が許せません。そしてそういう人が殆どだったのですが、 この人は決して「薄情」ではないのです。表現がズレてたりしてイラッとはしますけれど(笑) 礼儀正しくありたいと思う姿勢などなど、、、 長くなりました。 貴重なご意見ありがとうございました。

  • taka-aki
  • ベストアンサー率12% (748/6126)
回答No.1

感性の合わない相手は友人ではなくただの他人です。 感性の合わない相手に期待するほうがおかしいのでは。

eimotosubal
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 1行目について taka-akiさんはその様に分類されるのですね。 私は私が友人と思うのであれば「友人」という表現をして正しいと思っています。 もっとも、相手が「友人ではない」と言ったら最後友人という関係は成立しませんけれども(笑) 2行目については、仰る通りだと思います。 感性が合わないのは仕方がないとして、泣ける笑えるという言葉も感性に含まれてしまうのでしょうか。 多分、私がその表現を毛嫌いしているからその言葉を好んで使う感性を否定しているのでしょうね。 貴重なご意見ありがとうございました。

eimotosubal
質問者

補足

内容的に私の友人の話で回答が寄せられていますが、 この友人と私の関係について意見をしてもらいたいわけではないのですー。 例が私の友人の話でしたから分かりづらかったですよね、ごめんなさい。 メインとしては言葉の表現についてコメント頂けると嬉しいですー>ALL

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