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人は他人や自己やそのあやまちを赦す能力があるか

 次の命題についてその当否を問います。  ○ (人は他人や自己なる人をまたそのあやまちを赦す能力があるか)~~~~~  (あ) 人は その生まれつきの自然本性としての能力(すなわち感性および理性)によって 自己であれ他人であれ 人およびそのあやまちを赦すことは出来ない。赦さないことも出来ない。  (い) 互いに互いをたたえたり咎めたり 批評・批判をすることが出来るのみである。       (う) 人と人との関係は その行為にかんして・そしてましてや存在にかんして 赦す・赦さないといった判断をするようには出来ていない。  (え)=(い) マチガイを指摘することは 互いに自己防衛のためにも 必要である。      (お)=(あ) 自然本性においては その能力によって ひとを赦すか赦さないかの判定をするようには出来ていない。  (か) わづかにおそらく 恨み辛みや憎しみをその――ほんとうの心に反してでも――想像力によってかき立てた人間から始まって その気持ちや第二の心がついには 人間どうしの交通論の一環として《赦す・赦さない》の文化を生んだ。のではないか?  (き) 《なんぢ ころすなかれ》という文(発言・命題)に表わすことをとおして・またこれを社会の取り決めとすることによって 《赦し・もしくはあだ心・またルサンチマン》なるむしろ〔低劣なる〕知性としての倫理問題を生んだ。のではないか?  (く) ここで短絡すれば よってこの現行の文化のあり方を見直すべきではないか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~            *  別の言い方で問います。  (け) けっきょく世界との・そしてなかんづくおのれとの和解にかかわっているものと考えます。  言いかえると おのれの存在について心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。  (こ) その意味は こうです。  人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。ということは 赦さない能力も資格もまったくない。  (さ) では あやまちによって傷をこうむった人間に出来ることは何か?  そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガイをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。  (し) つまり 哲学として互いに自由に批判をすること。および 必要ならば・必要なかぎりで 法律にうったえるということ。  ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?  (す) 批判を伝えたあとは――人間存在としてのカカハリは どこまでもありましょうが―― マジハリという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とは無くなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。  (せ) というのも 人は おのれ自身のあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われます。    (そ) その人間が 他人とそのアヤマチについて 赦さん・赦せん おまえよ あやまれというのは 滑稽である。

みんなの回答

  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1119/8883)
回答No.3

私見では、人間にはない。持っているのは閻魔さまだけです。

bragelonne
質問者

お礼

 かいたら1さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ひととそのあやまちを赦す能力については それは  ★ 私見では、人間にはない。持っているのは閻魔さまだけです。  ☆ と解釈して 賛成票を投じてもらったと受け取ってよろしいでしょうか?  ありがとうございます。  ところで  ★ 閻魔様  ☆ って誰れでしたっけ?

  • hiak123
  • ベストアンサー率16% (14/87)
回答No.2

許す許さないはその人の自由です。自由の意味を分かっておられない。 大切なのは言葉より行動なのです。 NO.1の方がいみじくもそうおっしゃってられる。

bragelonne
質問者

お礼

 ひあく123さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  まづ 細かいことですが 《許す》は 権限のあるところが許可するといった意味のゆるすに使います。  あやまちをゆるすには 赦すと書くようです。  さて  ★ 許す許さないはその人の自由です。  ☆ ですから 心にさからったシツコイ問い求めを成す第二の心も ニンゲンにはあります。つまり そこまでの自由度を ひとの自由意志は持ちます。そういう意味において おっしゃるとおりです。  もし もともとの心における――言わずもがなですが 責任をともなったところの――自由ということについて蔑ろにする見方に片寄るとするなら それは  ★ 自由の意味を分かっておられない。  ☆ ということになります。  ★ NO.1の方がいみじくもそうおっしゃってられる。  ☆ その方は 《人間の本質が解っておられる》にもかかわらず その知性からの回答をおこたっておられるようです。よ!

回答No.1

「ん」まで質問しても 答えは 全部 不正解 何故なら あなたが 人間の本質を解かって無いから‥

bragelonne
質問者

お礼

 「ん」の次のたとえば (ああ)まで質問すれば どうでしょう?  ★ 人間の本質を解かって  ☆ いるあなたは どういう見解をお持ちでしょうか?  それが 回答者の寄せる回答であると考えますが いかがでしょう。  ちょかこあらさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

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