《自己チュー》とは どういうことですか?(1/3)

解決済みの質問

《自己チュー》とは どういうことですか?

《自己チュー》とは どういうことですか?


 個人攻撃を一般論にておこないます。

 (α) 自己チューとは どういう意味ですか? それは わるいことなんですか?

 (β) もし自己中心的な思考や判断のことを言うのであれば それは 誰もに当てはまるのではないですか?

  なぜなら とうぜんひとは《人間》を判断のひとつの基準とするはずです。つまりは取りも直さずこの《人間》を自己の見方考え方にもとづき捉えているはずです。人間という物差しを自己を中心として捉えたところから 思考も判断もおこなうのではないですか?

 (γ) たぶん自己中心的な側面をものごとのすべてだとするかたちの自己中心主義がいけないのかも知れません。だとすれば それは 互いの《自己中心性》を開いて互いの言い分に耳を傾けることをすればじゅうぶんに解決することができる問題点だと思われます。
 だったら 自己チューという問題は 対話の意志が有るか無いか あるいは対話の能力の如何に焦点が当たることではないのか?
 《自己チュー》なる傾向や現象を批判して事足れりとするような《対話能力の無さ》は いちばんの問題なのではないか?

 * こういう場合には こころを鬼にしてと言っておかないと 株を下げるようです。

投稿日時 - 2010-08-15 10:41:30

QNo.6110573

すぐに回答ほしいです

質問者が選んだベストアンサー

ぶらじゅろんぬさん。こんにちわ。
ハイビスカスな宙ぶらりんです。
ご返信ありがとうございます。
昨日は飲酒投稿をして失礼しました。


傍観者の感想などを、少し追記です。
(個人攻撃には参加していません。)



わたしは本物の自己中を目指しているので、
つい4番を書いたのですが、


このご質問は、たとえば、
患者に病名だけ付けて放置する医師(?)について、
その態度はどうなんですか、とか、
そもそもその病名はどうなんですか、とか、
そんなような問題ですか。



2番様のご回答を改めて拝見したのですが、
2番様は、
「自己」を「中心」にすることができなくなっている、
のが問題である、
とおっしゃっているようにも思えるのですが、
わたしの気のせいでしょうか。

純粋に「意志」することができなくなっていて、
(完全に純粋な「意志」なんか無いような気もしていますが)、
「意志させられる」ことになっていて、
そのことに気付かずに、
喜んで(?)狭い檻に飼いならされながら
窮屈ぢゃないかと文句だけ言っているような人とか、
檻を壊すのぢゃなくて隣の人を殴って喜ぶ人とか、
そんな人のことを、
「自己チュー」とおっしゃっているようにも思えるのですが。

よく分かりませんが。
特に案も浮かびませんが。
とりあえず思ったこと書きました。



>このおれは 死んでしまわあ
:たぶん殺されませんですわ。


お邪魔しました。
たぶん、書き逃げになります。

投稿日時 - 2010-08-16 18:03:09

お礼

 ニュウトラルさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 2番様は、
  「自己」を「中心」にすることができなくなっている、 / のが問題である、
とおっしゃっているようにも思えるのですが、
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ううーん。
 読みなおしてみます。

 確かにまづ 人を言うのではなく 《社会状況を象徴した言葉として》と言っていますね。
 ◆ (回答No.2) ~~~~~~~~~~~
 使用する人によって違うと思うが、
 あえて「自己中心的」ではなく「自己チュー」とするのは、
 僕の例でいうと、
 昨今「自己チュー」という言葉が生じたのに倣い、

 《社会性が乏しく
 コミュニケーション能力の低い、
 自己の客観視のできず
 KYで、
 非寛容なくせに依頼心の強い幼児的な》
 人間が増えている、
 〔* そのような〕社会状況を象徴した言葉としてである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いやぁ どうですかねぇ。《状況》を言うのであれば その中にいてここに記された特徴を持った《人》のことをも言っていると取ることも出来るような気もします。
 ただし これらの特徴は それほど問題だとも思えないのですが。つまり 問題なのですが・だから人によって差があるのですが その差というのは クラス分けするほどの違いを持つとも思えないのです。
 つまりは わたしは次の指摘のほうに注目したのでした。

 ◆ (回答No.2)~~~~~~~~~~~~~~~~~
 即ち、実質的には助け合っているにも関わらず、意識としては
 他人と奪い合い、優越感や虚栄心(他人の評価)に固執している。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これでしたら ちょっとした何かのきっかけによって 言わば《我れに還る》ことができると受け取ったのでした。《実質的には助け合ってい》て社会性があるからです。

 ◆ 意識としては 他人と奪い合い、優越感や虚栄心(他人の評価)に固執している
 ☆ こちらの側面を取り上げるなら 内向きになって自己に集中して行っているように思えます。すなわちしかも おっしゃるごとくに:
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 〔「意志させられる」ことになっていて、そのことに気付かずに、〕
 喜んで(?)狭い檻に飼いならされながら
 窮屈ぢゃないかと文句だけ言っているような人とか、
 檻を壊すのぢゃなくて隣の人を殴って喜ぶ人とか、
 そんな人のことを、
 「自己チュー」とおっしゃっているようにも思えるのですが。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ となるようにも思えます。
 
 どういうことかと言えば 
 ○ 《優越感や虚栄心(他人の評価)に固執している》というふうに 内向きになって自己に集中して行っていると同時に その
 ★ 「自己」を「中心」にすることができなくなっている、
 ☆ つまり自己に集中して行くのだけれど その自己を 人間として世界を見たり判断したりするための物指しにできるほどの《中心》とすることは出来ていない。果ては 居心地のわるさをわめいて訴えたり そばにいる人に物理的な力を加えて自己の存在をかろうじて訴えたりすることしかできなくなる。

 それなら 人間の幼児化でしょうか。でも幼児性としての自己中心性というのも 辞書の定義にあったようですね。
 わたしも
 ★ よく分かりませんが。特に案も浮かびませんが。
 ☆ になります。

 あぁ そうですね。
 幼児が自己中心性を持ち 《わたし》の基礎を築くなら 判断という行為(つまり 意志行為)の基軸を築いていることではないでしょうか? 
 いまから言うことは極めて不遜なことなのですが それでも言ってみますが こういう事情があるのではないでしょうか? すなわち 人間は 人間中心的だと思うのです。ほかの生物の生命をとうとべとか 自然環境を守れとか言うのは 人間のためでもあるはずです。人間が中心として やはり立てられていると思えます。
 自己中心性というのは かなしいかな そういう事情を同じく伴なっているかに思われます。つまりもし自己チューがいけないと見る場合には その場合にもそのように見る人の自己自身〔の描く社会像〕のために言っている。自己チューはいけないと見てそう言う人も 自己中心的である。
 つまりは だったら 互いに自由に話し合いをして あとは問い返されたときにきちんと答弁をするということをおこなえば もう何も言うことはない。こうなると思います。
 自己中心性が問題なのではない。こう見られてくるのですが どうなんでしょう。

 はいびすかす。

投稿日時 - 2010-08-16 23:42:23

ANo.7

1人が「このQ&Aが役に立った」と投票しています

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ベストアンサー以外の回答(12件中 1~5件目)

ANo.13

もっと簡単にのべるとすると

自己認識が足りないひとのこと



 簡単なこともわからないということも定義を裏付ける指標です。

 たとえば、

 馬車の原動力が、馬の前に吊り下げられたにんじんである。
       というくだらない御伽噺を信じる
                  知恵◎〇ず。

手綱を引くべき人間が釣竿を操作していると本気で説明する人的センサー機能の停止した無脳。

 血液型占いの「卦」を書き連ねるペテン師に、信憑性がある
              と本気で考える意味不明な哲学者のことです。

投稿日時 - 2010-08-17 06:57:14

お礼

 ★ 自己認識が足りないひとのこと

投稿日時 - 2010-08-17 10:12:13

ANo.12

何度も議論になったことを自分は質問していないという理由から質問する人が、自己ちゅーです。

生物学的にいうと、人間の一種です。

社会全体の営為を無視しないという行為の内容は、「新聞を読む」ということだと信じ込んでいます。

ニュースの引用が、常に日経であるという性向もあります。

神学的には、

物理で飯を食っている専門家にとっては理不尽な意見を、「私は、不確定性という言葉を暗記できる」
という理由から、自分が常に正しいと考えます。

理不尽で短絡的な事実内容は、具体的に、自分は、
「マッハのような物理学者を更にパワーアップした強化版哲学者である」と信じて
疑うことはなく、どんなコミュニティーからも孤立しているということでしょう。

存在論としては、価値がある素晴らしい個人。
意味のアル質問が出来ないコミュニティーの鼻つまみ者です。

血液型性格診断を信じている非科学的天才唯物論者です。

自分は宇宙と考える臭い人。

鼻が利かないということからも判るように、自分で考えることが出来ず、

数学と物理学のことも当然わからないので、
「この二つの学問こそ権威のある神の学である」と大声で叫びます。

臆病な権威主義者です。

友愛の兄弟げんかは、有名で、争いには、常に首をつこっみ、議論になると
相対性・不確定性もしくは、アマテラス インタームライズムという呪文を唱えてわかった不利をします。

努力はしたがだめだったというのが口癖の無能です。

自分は、「だいしぇんしぇい」であるが、「みんな平等に扱っている」という大法螺を吹くのも
生態的形相です。

「ああなるこうなるああなるほど
宇宙てwwwあるろいえばある
ないといえばないんだよねェ
でも!
人間は、四種類に分けられる ていうwww」と思っている自分に

自己矛盾を認めることが出来ない原始共産主義高齢者の漢たち(男の鏡)です。

きもい顔しか、映らないので、みんなから無視されているのは、個人的に残念です。

「オイラーは、哲学者だ」と思っている勘違いの天才。

意味のある事象については、何も知らないので
具体的なテストの点数や
自分の客観的知能指数が低くても、びっくりしない素晴らしい善人たちのことです

投稿日時 - 2010-08-17 06:39:59

お礼

 《みんなから無視されている》にもかかわらず このように足をお運びの上 二つの投稿をたまわり 感謝申し上げようと思えば 見てみると くだらんとしか言いようのない文章を書き残すとは。

 ★ 何度も議論になったことを自分は質問していないという理由から質問する人が、自己ちゅーです。
 ☆ そうしますと この《自己チュー》とは何かという質問に対する答えは すでに出ているということですね? 思いやりがあるなら それをおしえるのが 人間なんでしょうねぇ。

 要するにあんたの発言には 中身がない。レッテルを貼るのみ。それのオンパレード。空蝉――蝉の抜け殻――の人生かい?

投稿日時 - 2010-08-17 10:10:31

ANo.11

No.2さんの回答を読んで思ったことを書かせてください。

 言葉と、それによって表現される概念は、人間の、社会現象に対しての認識から生じるのであって言葉から現象が生じるのではないと想いますが、もし「自己チューという言葉が生じたのに倣い、社会性が乏しくコミュニケーション能力の低い、自己の客観視のできずKYで、非寛容なくせに依頼心の強い幼児的な人間が増えている」のであるとすれば、自らそういった言葉を使うと、そういった現象がさらに広がるのではないか? と思います。

 しかし、人が「自己中心的」になる説明については、全て為政者と社会制度が原因である、と書いてあるように思います。そう考えるのであれば、同様に、「自己チュー状態」も、自己チューという言葉が生じたのに倣って」生じるのではなく、社会環境が原因であると考えたほうが良いのではないでしょうか。

 結局は、「自己チュー状態」も、「自己中心的状態」も、どちらであれ個人個人の 行為振る舞い・判断・思考・世界観 により、政治や社会環境が決まり、生じる。と言えるかもしれませんが。


 また、「自己チュー」という言葉は、「社会状況を象徴した言葉として(使っている)」とありますが、「自己中心的」という言葉の意味を、「実質的には助け合っているにも関わらず、意識としては他人と奪い合い、優越感や虚栄心(他人の評価)に固執している。」と書いているから、やはり「自己中心的」という言葉も、社会状況を象徴した言葉として説明しているように見えます。しかしそうではなく、何か別のことを説明しているのでしょうか。深い考えがあるかもしれません。

 ともかく、普段の回答が妥当であるかどうかは別として、流麗に見える文章の中で最後に使われる「自己チュー」という言葉が文章全体を汚しているように見えます。その言葉を使う人にとっての問題でもあるように思いますが、一方では防御しないと「常識とは違うことを言っている」という理由だけで非難され易く、また、実際に誹謗中傷を受けてきたからあえて書いているのかも、とも思います。




おまけ:
 貴重でない類人猿がキーキー啼いてますが、人がサルを廻してこそ芸としての猿廻しになります。お猿さんに「あーしろ こーしろ」と言われて乗ってしまったら、「サルに廻される人」という事になり、ぎゃく になります。お猿さんを切り捨てて人になってこそ、観察すべき貴重な類人猿として扱えるようになります。何らかの意図思惑があって無理に作成したサルの文章が、支離滅裂なのは当然のことです。真に受けすぎると混乱すると思いますよ。たぶん荒れ狂う自我に翻弄され、狂乱しているだけなのだと想います。サルに対して「根っからの悪人である」とは言えないでしょう。

 誰を揶揄しているのか知らないが、それほどまでして守らなければならないものとは何でしょう。嘘・偽りの自我であるなら一旦捨てなさい。もし誰かを「根っからの悪人」と規定するのであれば、そのように規定する人がまさにそうであると言えます。善人の極みまで行けば、次は悪人の極みまで行くと思います。それは誰か他者によってもたらされるのではなく、自分の行為振る舞い ――それが文章によるものであったとしても―― により、そうなるのだと思います。それこそ「当番制」となります。十分注意してください。

投稿日時 - 2010-08-17 00:48:16

お礼

 元気いっぱいさん お久しぶりです。ご回答をありがとうございます。

 まづ物言いから入りましょう。
 ★ 貴重でない類人猿 / 観察すべき貴重な類人猿
 ☆ ひとは 類人猿ではありません。また ひとに《貴重な人間》と《貴重ではない人間》とがいるわけではありません。
 言うとすれば ひとは その存在としてひとり残らずとうといものです。
 そしてそのときにも ただしそういう人であっても みづからの自由意志によってどこまでもへそを曲げ続けることもあり得ます。おのれの心にどこまでも逆らって ほかの人の心をすべて打ち消そうとし続けるという道(?)をえらぶ場合があり得ます。――これは 根っからの悪人です。
 根っからの悪人に対しては 放っておくよりほかに交わりの仕方のない場合があります。
 ここまでのことを書いたはずです。それを超えて そのような見方が当番制として組み込まれるとか そういうことには つながっていません。おのれの見方を述べたまでのことだからです。

 さて
 ★ ともかく、普段の回答が妥当であるかどうかは別として、流麗に見える文章の中で最後に使われる「自己チュー」という言葉が文章全体を汚しているように見えます。
 ☆ そうですね。わたしの場合は 《文章全体を汚しているように見える》という批判ではなく そうではなく たとえその診断がただしいとしても 何にもならないような発言の仕方ではないかと批判しています。ちょうどニュウトラルさんが 解説してくれたように
 ● (回答No.7) ~~~~~~~~~~
 このご質問は、たとえば、
 患者に病名だけ付けて放置する医師(?)について、
 その態度はどうなんですか、
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と言って迫っています。《揶揄》ではありません。(というのも その回答者は わたしの質問に回答して来ることがあるのですが それに対してわたしが補足要求をしても それに返さずほとんど一回きりの投稿でおしまいとしているからなのです)。

 ★ その言葉を使う人にとっての問題でもあるように思いますが、一方では防御しないと「常識とは違うことを言っている」という理由だけで非難され易く、また、実際に誹謗中傷を受けてきたからあえて書いているのかも、とも思います。
 ☆ これについてもわたしの見方はこうです。《常識と違うことを言っている》かどうかと見るよりも 常識が旧いものとなっているならば 新しいものに変えるのがよいというふうに つねに《常識》を確認しあたらしく問い求めているとは思いますが――そうは思いますが―― その得られた常識としての回答を どう表現するか その仕方に異議をわたしはとなえています。認識だけを述べて あとは放りだすやり方に近いのではないかと。
 あるいは 誰もがみづからの認識内容を すぐに・すでに実践しているかと言えば それが相手のあることであれば むつかしい場合があります。ということは その実践という方向性において 認識をみづからの意志行為の問題として表現するなら いいということでしょう。それを望むという物言いです。
 過去に何があってそういう文体を形作っているのか これはわたしは詮索していません。

 ◆ (回答No.2) ~~~~~~~~~~~~~
 あえて「自己中心的」ではなく「自己チュー」とするのは、
 僕の例でいうと 
 〔* 社会情況の中から〕自己チューという言葉が生じたのに倣い
 ・・・
 〔* これこれの〕社会状況を象徴した言葉として〔* 「自己チュー」とするの〕である。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と言っているのだと思います。《言葉から現象が生じる》という意味ではないと思います。

 わたしはいままだ ニュウトラルさんの提起した観点について考えています。
 そのような問題点としては いかがですか?

投稿日時 - 2010-08-17 10:01:02

ANo.10

ああ、
一つ思いつきました。
人間の判断とは口に出して表せばお互いに理解できるとの了解のうえで成り立っています。
もちろんその通りで例外はありません。
表明すれば必ず理解されます。
しかし、
あいてを人間と見なさない。
姿勢としてそんなでは理解もゆがむでしょう。
大いに反省しますが、猿回し形式思索法に関して釈明すれば、悪人では無く、一個の人間として冷静にみた結果、自由意思の欠如した家畜に過ぎない他者に驚愕したゆえのいじめです。
悪人に善良な人間性を見出し、その悪に感化されるのを避けるとこのような弊害に及びます。

投稿日時 - 2010-08-16 22:44:49

お礼

 これは 孤独と自己中の問題とは 別ですね。

 この悪人だとかの問題は かんたんです。
 話ができない――つまり 発言はしていても 意味が取れない――場合には 放っておきます。こちらの発言について 何度もその意味を説明したり 相手の発言についてその意味を何度も尋ねてみたりした上で 話が続かないのであれば 放っておきます。
 
 相手のその状態について
 ★ 自由意思の欠如した
 ☆ のではないかとうたがうことはありますが
 ★ 家畜
 ☆ という規定をすることはありません。人間だからです。ただし 根っからの悪人ではないかとうたがうこと これもあります。
 ★ 人間性
 ☆ というのは 《ただそこにいるという存在》だけでとうといという内容を言います。
 ★ 善良
 ☆ だから尊ぶとか 悪質だから憎むとか そういう区別は――存在にかんするかぎり――ないと考えます。

投稿日時 - 2010-08-17 00:19:52

プライムエイプです。
A8の解りにくさを整理してみました。
A8は返答不要です。

孤独と自己中に因果関係が無いのなら自己中の狼藉に、孤独ゆえであるとの弁護なり釈明の受け入れなりは不要となります。
下手な同情はいらないのでしょうか?
これが子供相手なら現代は体罰はもうやめようと言う機運が20年ほど前から取り組まれすでに結実しています。
子供の自己中をとがめない理由として孤独の回避、要するに理解する姿勢があるのですが、旧来の自己中のように原因が孤独に有るとは見なさないのですね。
多分その通りですね。自己中に疎外感を与えるのは逆効果なのでしょうね。
しかし現代っ子と違って親や先生に殴られた世代は自己中ゆえに阻害されるトラウマを背負っているでしょう。
その傷が癒されたか否かは問うべきではないでしょうか。

投稿日時 - 2010-08-16 22:30:23

お礼

 前回答(No.8)では 自己中を わがままな振る舞いと解釈したのですが これはこれでいいのでしょうか?
 つまり
 ☆☆(趣旨説明) (α) 自己チューとは どういう意味ですか? それは わるいことなんですか?
 ☆ に先に答えていただくと あとの話が分かりやすくなると思うのですが どうでしょう?

 それとも 現代の学校事情をわたしが知らないので ピンと来ていないのかも知れません。
 ★ 子供の自己中をとがめない
 ☆ と言われても はっきりと事情が飲み込めません。子どもに対してその振る舞いを咎めるという場合 《自己中》という呼び名でよぶ振る舞いがあるのですか? わたしは 内面における傾向のようなものだけを言うのだと思っていました。確かにその自己中心的な性格から出た振る舞いはあると思います。たとえば 相手の言っていることを無視したり 果てはその存在じたいを無視するという場合です。
 けれども この振る舞いは 相手を無視するという行為であり それとして批判や非難がされると思っていました。
 これらが 自己中として咎められるということなんでしょうか?

 ★ 子供の自己中をとがめない
 ☆ ですから その《相手を無視する態度》については 咎めます。その原因が 自己中だということでしょうか? その自己中の原因は 孤独にあるということでしょうか?
 ううーん。

 いまひとつ考えることは 《自己中心的》であることは 人間および自己を物指しとするというほどの意味だとわたしは思っています。ですから 誰もがそうしていると見ているわけです。ですから 《自己中》を咎めるという意味が よく飲み込めないのです。と同時に 自己中心的であることと 孤独であることとの つながり これもピンと来ていません。
 どうもここに行き違いの原因があるようです。

投稿日時 - 2010-08-17 00:10:53

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