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人は他人や自己やそのあやまちを赦す能力があるか

 次の命題についてその当否を問います。  ○ (人は他人や自己なる人をまたそのあやまちを赦す能力があるか)~~~~~  (あ) 人は その生まれつきの自然本性としての能力(すなわち感性および理性)によって 自己であれ他人であれ 人およびそのあやまちを赦すことは出来ない。赦さないことも出来ない。  (い) 互いに互いをたたえたり咎めたり 批評・批判をすることが出来るのみである。       (う) 人と人との関係は その行為にかんして・そしてましてや存在にかんして 赦す・赦さないといった判断をするようには出来ていない。  (え)=(い) マチガイを指摘することは 互いに自己防衛のためにも 必要である。      (お)=(あ) 自然本性においては その能力によって ひとを赦すか赦さないかの判定をするようには出来ていない。  (か) わづかにおそらく 恨み辛みや憎しみをその――ほんとうの心に反してでも――想像力によってかき立てた人間から始まって その気持ちや第二の心がついには 人間どうしの交通論の一環として《赦す・赦さない》の文化を生んだ。のではないか?  (き) 《なんぢ ころすなかれ》という文(発言・命題)に表わすことをとおして・またこれを社会の取り決めとすることによって 《赦し・もしくはあだ心・またルサンチマン》なるむしろ〔低劣なる〕知性としての倫理問題を生んだ。のではないか?  (く) ここで短絡すれば よってこの現行の文化のあり方を見直すべきではないか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~            *  別の言い方で問います。  (け) けっきょく世界との・そしてなかんづくおのれとの和解にかかわっているものと考えます。  言いかえると おのれの存在について心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。  (こ) その意味は こうです。  人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。ということは 赦さない能力も資格もまったくない。  (さ) では あやまちによって傷をこうむった人間に出来ることは何か?  そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガイをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。  (し) つまり 哲学として互いに自由に批判をすること。および 必要ならば・必要なかぎりで 法律にうったえるということ。  ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?  (す) 批判を伝えたあとは――人間存在としてのカカハリは どこまでもありましょうが―― マジハリという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とは無くなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。  (せ) というのも 人は おのれ自身のあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われます。    (そ) その人間が 他人とそのアヤマチについて 赦さん・赦せん おまえよ あやまれというのは 滑稽である。

みんなの回答

  • asisai888
  • ベストアンサー率15% (11/73)
回答No.13

あると思いますし bragelonneさんの立場に立ってもあるということになってしまいます というのも >(か)《赦す・赦さない》の文化を生んだ。のではないか? とあるように、《赦す・赦さない》の文化があることを認めてるので それは赦すという行為が存在することを意味します そしてその行為が存在するところには赦す者と赦された者が存在することになり 赦す能力が存在することになってしまうのです 人間どうしの交通論の一環として生まれたとしても、ほんとうの心に反してても それは赦す能力の否定にはならないと思います だって現実に存在するし、《赦す・赦さない》の文化がないときは赦すことなんて なかったのだから、本来存在しないって論法なんでしょうけど それを言うなら言語が存在する前は言葉を話す人がいないんだから本来的に人間は 言葉を操る能力は存在しないってことだって言えてしまいます 我々が言葉を操れるように、赦す能力もあるのです ただ文化的な面ではなく宗教的な面からなら、赦す能力はあるかと問えると思います 例えば、ある人が罪を犯して文化的に罪を赦されたとします その人が神の前で罪を告白しろと言われた時に赦された罪も告白すべきだろうか? つまり人は神に代わって罪を赦すことができるのか、あるいは人に赦された罪は 閻魔大王は不問にするだろうか そういう側面からなら赦す能力があるかと問うことができると思います

bragelonne
質問者

お礼

 あしさい888さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。ひとの心を 第一次と第二次とのふたつに分けられるという前提がありました。これについて しっかりとは説明していませんでした。  生まれながらの自然本性なる心。これが 第一次。  なぜ第二次の心が生じるか? これは ひとが経験的にして有限で相対的な存在でしかないからです。あやまち得るのが 人間です。マの違いや抜けをもおこなう自由度を持ちます。    信仰にあっては この《有限性》を超えるところの《無限》の世界を想定するようです。(アートマン=霊我。ブッダター=仏性。プネウマ=神の霊。・・・)  ということは もしこの信仰の問題をも人間の《現実》にふくむとすれば こうなります。   ○ ひとの心は 《無限性 - 有限性》なる二重性から成る構造を持つ。  《第一次の心》とは 無限性にあたかも接してその――いわゆる真理に裏打ちされたような――自然本性を保つというときのわが心です。  むろんこのような心であっても・つまりその判断力としての意志にあっても その自由度は この真理を見たというかのようなわが心になおも逆らって 何かを欲しこれを実行に移すことがあります。  これが 《第二次の心》であるとも言えるのではないでしょうか?  第二次の心が あたかも悪貨は良貨を駆逐するというかのように 第一次のわが心をどこかへ追いやってしまった。そこにむしろ社会の秩序を保つために 人びとのあいだの交通整理を取り行なうために法律(または シュウキョウの倫理規範)が取り決められて行きます。  つまりは ゆるす・ゆるさないを人間が決めることが出来るという人為的な観念が共同化されて行った。  この現状にかんするかぎり:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    >(か)《赦す・赦さない》の文化を生んだ。のではないか?  とあるように、《赦す・赦さない》の文化があることを認めてるので  それは赦すという行為が存在することを意味します  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とおっしゃるとおりのことが ただいまの現実です。  ★ そしてその行為が存在するところには赦す者と赦された者が存在することになり / 赦す能力が存在することになってしまうのです  ☆ というイデオロギー(観念体系)が築かれるに到りました。  と見るのですが どうでしょう?  ★ 人間どうしの交通論の一環として生まれたとしても、ほんとうの心に反してても / それは赦す能力の否定にはならないと思います  ☆ 《ほんとうの心に反している――つまりは わが心において それをおこなうとヤバイと感じられ ヤマシサ反応が起きるということ――》 これは そこには《ゆるす能力もゆるさない能力も》無いと思っているわけです。つまりは そのように今から思えば赦す赦さないにかかわるような・《怒り》が込み上げてくる何らかの仕打ちを 相手からこうむったときにも  ほんとうの我が心にあっては 赦す能力も赦さない能力も無いと思っているわけです。  そのあと ゆるす・ゆるさないという文化が生じて来た。よって その権利だとかあるいは能力だとかも もともとあるはずだという議論へと進んで来た。うんぬんです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  だって現実に存在するし、《赦す・赦さない》の文化がないときは赦すことなんて  なかったのだから、本来存在しないって論法なんでしょうけど  それを言うなら言語が存在する前は言葉を話す人がいないんだから本来的に人間は  言葉を操る能力は存在しないってことだって言えてしまいます  我々が言葉を操れるように、赦す能力もあるのです  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という論理からの批判については 冒頭の議論が 《待ち構えて》います。  すなわち 歴史的・時間的に昔と今とに分けるのではなく そのいま・ここなる現在において ひとりの人間には 《無限性 - 有限性》なる二つの要素が存在すると想定できるのではないかという議論です。  ひとが 無限性――すなわち わが心がつねに《ほんとうの》心に従うことが出来るみなもとのチカラ――にもとづくなら 赦す・赦さないの能力はない。となるという寸法です。  言いかえると いま・ここなる生身の人間にあって 《第一次の心》を実践する能力としての自然本性もあれば そこから脱線する《自由度》をもったわが心もある。となります。  《言語》を持った段階の歴史にあっても 言語以前の生と社会を生きた人間の自然本性をなおよく保っているのではないか。という視点であり その視点を 《言語以後の文化段階》なる人生および社会についても 自由に当てはめることは出来るのではないか?   特にただちに何かの効果や有益なことが出て来なくても そのように言語以前の世界にも われわれの頭と心とが開かれているということは 基本的に言って有意義ではないか? です。  ★ ただ文化的な面ではなく宗教的な面からなら、赦す能力はあるかと問えると思います  ☆ わたしの見方は その真逆です。シュウキョウがからむと 余計 ほどける結びもほどけなくなる。と思います。文化つまりここでは特には法律ですね この法律ないし慣習法のところまでに限って捉えたほうがよいと思っています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  例えば、ある人が罪を犯して文化的に罪を赦されたとします  その人が神の前で罪を告白しろと言われた時に赦された罪も告白すべきだろうか?  つまり人は神に代わって罪を赦すことができるのか、あるいは人に赦された罪は  閻魔大王は不問にするだろうか  そういう側面からなら赦す能力があるかと問うことができると思います  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 非常にかなしく残念なことながら 《発想》がすでに《文化的・宗教的に》逆転してしまったのではないか? と考えます。  つまりここで言う《神》は これが 広い意味での文化段階における神であり――文化以前の神は 自然本性に宿りそなわっているという想定です―― まさしくシュウキョウの神です。人為的・人工的・作為的な神です。  なぜなら 文化的に・法的に罪を赦されたとしたとき それは まだ甘い・軽い・甘すぎると言って 法律によれば罪が赦されるかも知れないが 《真理を扱う》宗教によれば それはそれは厳格に判定され裁定されるのだぞ よく心得よという《第二次のわが心による》議論なのです。  早い話が 文化の極致が シュウキョウであり何ごとも見過ごさない公平なる目を持っている神〔という概念装置〕なのである。とその文化的知性は 言おうとしているはずなのです。  これは あたかも 文化以前の自然本性における《ほんとうの我が心》が 想定されるだけではなく 真実の知恵なのだと言おうとしていることにひとしい。  ほんとうは シュウキョウの神が問題ではなく 個人の内面における信仰の神(真理)が問われている。  シュウキョウは 信仰のあたかもセミの抜け殻である。蝉本体を問うことなく しかもその本体の内面問題を扱おうとしている。  こういったカラクリが じんるいの歴史には 構築されて来ている。のではないでしょうか?  このマボロシをさとることが 信仰のねがいであり のぞみであると考えます。  シュウキョウはつねにそのマガイモノを用意し提供しようとします。  シュウキョウは すみやかに自己解体するのが せめてもの社会への貢献です。  言いたい放題みたくなって すみませんが 偽らざる考えです。

回答No.12

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  ただし相手は最も深き闇を携えた悪魔で、彼らを闇に落とした人類は対象外だ。  人類は自らが理解すればよい。  滅びの宴が始まる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここは ちと 月並みの文句ではないだろうか?  《赦す》相手が このような悪魔なのだろうか?  その悪魔を闇に落とした人類? ――おそらく誰もがこれを読んでも まだよく分からないと思う。わたしも分からない。  ★ 人類は自らが理解すればよい。 / 滅びの宴が始まる。  ☆ 分からんなぁ。 フン、フンフンフンふーん。 ここの判らないという言い分はな、人類の誰もがあなたの裏切りを許さないでしょう。 こう響くのだよ。 そして私は赦されざる者を名乗る。 だからこそ悪だ。 とことんかっこいいだろ。 まさに仮面ライダーだ。

bragelonne
質問者

お礼

 分っかんないなぁ。  芝居なら 文学の世界だ。哲学とは無関係。  ご回答をありがとうございます。

回答No.11

君の意見を肯定的に解釈すると。 赦す赦さないなんてことに悩んだりしないで仲良くしているのが普通じゃん。 そう言う事だろうね。 いいんでねえの。 しあわせて何よりだ。 俺様は黒き明星だー。 赦されたいんなら許してやる。 受け取れ。 俺様の愛だー。 こういう激しさだ。

bragelonne
質問者

お礼

 ただし しかるべき・必要なだけの――けっきょく互いのそして自由な――批判は おこないます。これは むしろ徹底的におこないます。  その上で  ★ 赦す赦さないなんてことに悩んだりしないで仲良くしているのが普通じゃん。  ☆ となります。  黒き明星は 分かるような分っかんないような。・・・  ご回答をありがとうございます。

回答No.10

9だよ。 > 君の前提の全てが間違っている。 これを君の前提の全ては私とは正反対だ。 こう修正しておこう。 礼儀のつもりだよ。 君は君で励みたまえ。 私は輝かしき光を身にまとった、初代男子プリキュアの方がしょうにあっている。 しかし人類の裏切り者として呪われた私は黒き明星だ。 そこまで悪の汚名を着ようとも悪魔を愛する。 かっこいいだろ。

bragelonne
質問者

お礼

 分っかんない。  直前の回答への応答を見てみてくれたまえ。末尾のところだよ。  つづいてのご回答をありがとう。

回答No.9

フン。 君の前提の全てが間違っている。 赦しを受け取らないとしても一方的に許せばいい。 我が名においてだ。 社会の合意の過程を君は重視するが、いらんことだ。 そんなだと、 おめでとう君は無我だよ。 こんな厭味を言う事になる。 言葉として救いの片鱗がうかがわれる言い回しの例をあげると。 あなたは今だ自分自身を許すことはできないでいる。 しかし私はあなたを許す。 こんなべたべたな言い回しでぐっと着たりするだろう。 慈悲という慰めや人に救われるのはこんな思いからだろう。 社会的であることはむしろ、許さない事でなく、赦す事だろう。 黒き明星の私は社会通念を無視して、個人的かつ一方的に赦す。 ただし相手は最も深き闇を携えた悪魔で、彼らを闇に落とした人類は対象外だ。 人類は自らが理解すればよい。 滅びの宴が始まる。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 赦しを受け取らないとしても一方的に許せばいい。 / 我が名においてだ。  ☆ この《我が名において》というのは どういう意味でしょうか?  《ゆるす》のは おのれの意志行為です。つねに。そのような内容として 言ってみればやはりつねに《わが名において》 振る舞われています。  ★ 一方的にゆるす  ☆ というのは おそらく《ゆるす・ゆるさない》から自由な思いや心のことだとも考えられます。  ただし その行為のマチガイについては その内容を明らかにして互いに知っておくということ。これをもおこなっておきます。  このことが おそらく次の《社会の合意の過程》のことだと思われるのですが。つまり:  ★ 社会の合意の過程を君は重視するが、いらんことだ。  ☆ つまり ゆるしとは別のところで この過程を重視するということになっています。  ★ 社会的であることはむしろ、許さない事でなく、赦す事だろう。  ☆ まさにそのとおりであって これは――つまり《ゆるす・ゆるさない》が問題になるような社会状態というのは―― 第一次の自然本性から第二次の《文化》なる段階に入ったところで生じる。  すなわち 何らかの人為的に人工的に作為的に《社会的な取り決め(つまり 律法ないし法律)》を持ったことから始まるものと考えられます。  これを言いかえると:  ○ 第二次の社会的にして文化なるものの情況にある人間関係に到る以前にあっては・すなわち 第一次なる自然本性にあっては ゆるす・ゆるさないという思考からひとは自由である。いちいち何も考えない。  ただし そのアヤマチについて どこが間違ったのかなどについて 詳しく検証しておくし そのマチガイを侵した者にきちんと伝えられる。  となります。  この第一次なる自然本性に直接に立ち戻って考え行為を成すことを おそらく  ★ 黒き明星の私は社会通念を無視して、個人的かつ一方的に赦す。  ☆ というときの《社会通念を無視して》と言っているものと考えられます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  ただし相手は最も深き闇を携えた悪魔で、彼らを闇に落とした人類は対象外だ。  人類は自らが理解すればよい。  滅びの宴が始まる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここは ちと 月並みの文句ではないだろうか?  《赦す》相手が このような悪魔なのだろうか?  その悪魔を闇に落とした人類? ――おそらく誰もがこれを読んでも まだよく分からないと思う。わたしも分からない。  ★ 人類は自らが理解すればよい。 / 滅びの宴が始まる。  ☆ 分からんなぁ。

回答No.8

視点を変えまして、 「赦すとは信じる」ことである、と再定義ましょうか。 この定義は、おそらく、それほどひどい定義ではないのだろう、と思います。 前に提出した定義とも矛盾はしないと考えます。 そして、この能力は先天的に我々に与えられている。 人間や動物の赤ちゃんは、他者を疑うこと、恐れることを知りません。 無条件、無前提に他者を信じています。 いや、まぁ、赤ちゃんに聞いたことがないので、 本当にそうなのかどうかは確かめようがありませんが、 他者を疑うということは、後天的に自身の経験を通じて学ぶということだけは確かなのでしょうね。 如何がでしょう?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  自説を展開することをおゆるしください。    アブラハムは 長子イサクをいけにえに捧げよと言われて 悩みに悩み 苦しみ抜いて ある結論に達しました。  たぶん朦朧としたあたまに こうヒラメキを得たのだと見られます。:  ○ ~~~~~~~~~~~~~  もしおまえが 神のちからを信じているなら  =ということは 自然本性にあってその自由において知覚し思考し振る舞うならば  おまえは ひとを――自分にせよ他人にせよ――ころしはしないであろう。  ~~~~~~~~~~~~~~  このような内容として  ◇ 「赦すとは信じる」ことである  ◇ 人間や動物の赤ちゃんは、他者を疑うこと、恐れることを知りません。 / 無条件、無前提に他者を信じています。  ☆ という定義を受け留めます。  言いかえると ものごころが着いてからは 先ほどの第一次の自然本性から文化なる段階に移ります。   ○ なんぢ ころすなかれ。    という規範を受け取ります。そういった段階としての  ◇ 他者を疑うということは、後天的に自身の経験を通じて学ぶということだけは確かなのでしょうね。  ☆ という《文化》状態の中にあってこそ 《あやまちをゆるす・ゆるさない》といった心的現象ないしその観念が生まれて来たのだと。  ということは げんみつに言うとすれば  ○ 信じる状態にあるならば すでに《ゆるす・ゆるさない》文化としてのクセから自由である。  ◇ そして、この能力は先天的に我々に与えられている。  ☆ このように展開されるのではないかと思っています。どうでしょう。  ブディズムでは どう展開しましょうか?  戒律という《文化》状態のみではないんでしょうね?

回答No.7

「赦す」が「自由にする」という主体的行為や態度を指し示すのであれば、 人間には、「赦す」能力はあるのだろう。 この「自由にする」対象は、他者だけでなく、自身や自身の心なども含まれます。 ただし、無制限、無条件に「赦す」ことはできない。 一人一人、また、その「赦す」対象によって閾値が異なっている。 こういうことではないのでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  今回は 反対の側から論陣を張りたいと思います。  ◇ 「赦す」が「自由にする」という主体的行為や態度を指し示すのであれば、 / 人間には、「赦す」能力はあるのだろう。  ☆ この《自由にする》が 人の意志行為のうちで おのれのヤマシサ反応にさからっておこなった行為によって ほかの人がその意志を自由に発揮する機会やチカラそのものを奪ってしまうことになった場合にかかわるのならば それは 出来ない。という仮説を推し出しています。  そういう意味での意志行為としての相手や他人のあやまちにかんして こちらがすることの出来るのは そのヤマシサをともなった行為の内容を分析し 意志自由という(または 自由・平等・愛なる公理という)心を踏みにじったことを合理的に明らかにすることまでです。(法律にからめば その決まりにしたがった処理・処罰がくわわります)。  ゆるすことも出来るという主張は ゆるす・ゆるさないといった文化がすでに人びとのクセとなりナラハシとなった段階と情況とにおいて現われる心的現象です。(法律もからむかとは思われますが)。  自然本性は おのれの心の意志自由をゆがめたあなたよ もとの自然本性に立ち還れということだけをのぞみ じっさいそのために現場検証などをおこなうものだと考えます。  この第一次自然なる人間から 第二次社会的自然へと 人間およびその心は《文化し進化した》のだろうと思われます。    《自由にする》とすれば そういうカラクリが 社会の成り立ちとして二次的につくられて来ている。のだと見ます。    ◇ この「自由にする」対象は、他者だけでなく、自身や自身の心なども含まれます。  ☆ 他者については その心をどうにかすることは かないません。出来るのは 自分の考えやのぞみを伝えるところまでです。  自己については すでに第一次自然としての自然本性にあっては もともと《自由にされている》状態にあると見ます。  われが自由な状態にあるとき なれも かれも 同じく自由の状態にある。よって誰もが この自由なる状態について同じであるからには 互いに平等である。  この自由性すなわち平等性が ヒトに共通の基礎を成すとするなら 互いにこれをとうとび その意味で愛し合うことが出来る。共生にみちびかれる。  このような第一次の自然本性にあっては 人のあやまちについて――そのマの違いや抜け具合いを出来るだけ《客観》して分析し 将来にそなえることは出来ても―― それを赦さない・いや 赦す いやいやその民族はもろともにほろびるべしとして画策するといった措置は 人間には出来ない。しても 無効である。  あるいは 第二次の社会的自然の文化状態の中で 幻想として おこなわれている。《さとり》を得るとは このまぼろしから解脱することである。  赦さないことも赦すこともできないという能力を ひとは持つ。  第二次の心的社会的現象は 要らないと。    ですから 以上の議論によって  ◇ ただし、無制限、無条件に「赦す」ことはできない。 / 一人一人、また、その「赦す」対象によって閾値が異なっている。  ☆ という議論は 第二次の社会的文化としての産物の内においてこそ起きていると見られる現象である。こう捉えます。いかがでしょう。

  • hiak123
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回答No.6

あなたはいつでもパープーですね。 考えをいじってはならないと言ったじゃありませんか。 思考するものなのです。好きにしてはいけません。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ あなたはいつでもパープーですね。  ☆ はい そうです。  ★ 考えをいじってはならないと言ったじゃありませんか。  ☆ そうでしたか。何しろ 健忘症でして。  ★ 思考するものなのです。好きにしてはいけません。  ☆ そうなのですか。  ところで 好きにしなくて 思考するものだと捉えたら どういう答えが出て来ますか?  ひあく123さん 続きましてのご回答をありがとうございます。

回答No.5

「赦す」とはどういうことなのか、現在、思案中です。 正直、よく分からない。 日本語の語源的には、どうやら  「緩(ゆる)ます」 → 「赦(ゆる)す」 らしいんですよ。 「ゆるゆる」、「緩い」の「ゆる」です。 で、問題は、漢字の「赦(しゃ)」ですね。 象形的には、 この「赤」は「火」に照らされた「人」を意味し、右側は「右手で”ボク”と打つ」ことを意味するらしいです。 ですから、この漢字自体が何を意味しているのか、さっぱり分からない。 ただ、 「捨(しゃ)」と関係があるらしい。 そして、「赦」は「罪」と関係があるようです。 ヨーロッパ、キリスト教世界では、「赦し」は「罪」と関係しますよね。 カトリックは、その典型なのでしょうけれど、 人の世界において、神からこの「赦し」の権限を与えられているのは、ローマ教会のみ。 これは、(ローマ教会以外の)人には、「赦し」の力が与えられていない、ということを意味します。 「赦す」ことができるのは、神だけなんだろう…。 ただ、こうしたキリスト教的な「赦し」という概念を、日常語として使われる「ゆるし」にまで適用するのは、如何なものか、と考えます。 少なくとも日本語の「ゆるす」は、「ゆるゆる」の「ゆるす」ですから(ニコニコ)。

bragelonne
質問者

お礼

 ◇ 日本語の「ゆるす」は、「ゆるゆる」の「ゆるす」ですから  ☆ そうですよ。《大目に見る》といったニュアンスではないでしょうか。  こんばんは。ご回答をありがとうございます。  つまり 《相手に対する強く・きびしく咎める姿勢をゆるめる》ことが出来るか? その能力が人間にあるか? です。  つまり ささいなことだから その責めを問わないでおこう・大目に見ようという事例があったとしても 基本的に 人があやまちを侵して 咎を受けると思われるとき その責めをゆるめ 何もなかったことにする能力 これが 人間にあるか? です。  クリシチアニズムは 関係ありません。  関係させても よいわけです。  横田めぐみさんの意志と自由を踏みにじったあやまちを ゆるす・ゆるさないという能力や資格が 人間にあるか? です。

  • Key_A
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回答No.4

「あやまちを赦す」 定義づけが甘い。 許容するのか見放すのか、どうとでもとれる。 奇天烈な文語体で主題をぼかすのは、自分の思考に 酔っているだけに過ぎない。質問者に必要なのは哲学 ではなくて、純粋な医学によるしんだんではなかろうか。 違うというならば、口語体で客観的な論証を待ちます。 但し、100文字以内で。

bragelonne
質問者

お礼

 き_Aさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 奇天烈な文語体で主題をぼかすのは、自分の思考に / 酔っているだけに過ぎない。  ☆ 酔えるほどの名文を書いてから言ってください。  けれども ご自分が酔えたから そう言うんでしょう。ただし 相手をほめるのは 自尊心がゆるさない。  自己投影でしょ。  ★ 「あやまちを赦す」 定義づけが甘い。 / 許容するのか見放すのか、どうとでもとれる。  ☆ 《赦す》という漢字は とがめても当然な被害を受けているのに これを放棄するごとく おこなわない。そういうふうな意味合いのはずです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  質問者に必要なのは哲学  ではなくて、純粋な医学によるしんだんではなかろうか。  違うというならば、口語体で客観的な論証を待ちます。  但し、100文字以内で。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここまで自省的にして 自己に課題をあたえて ふるき《わたし》から卒業しようとするのは 見上げた態度だと思います。健闘をいのります。

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     同じおもむきの質問をしたことがあります。ふたたびみたび問いたいと思います。  ひとつには けっきょく世界との和解にかかわっているものと考えます。  言いかえると おのれの存在について心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。  その意味は こうです。  人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。ということは 赦さない能力も資格もまったくない。  では あやまちをこうむった人間に出来ることは何か?  そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガイをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。  つまり 哲学として批判をすること。および 必要ならば 法律にうったえるということ。  ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?  こういう問いです。  さらに この主題の内実が明らかにされて行くことをのぞみます。ふるってご回答をお寄せください。  * 批判を伝えたあとは――人間存在としての関係は どこまでもありましょうが―― まじわりという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とはなくなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。  というのも 人は おのれのあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われるからです。  どうでしょう?

  • 人が 人のあやまちを赦すことができるか?

     この問いをなお問います。  1.   まづ前身の質問の趣旨説明をかかげます。    ひとつには けっきょく世界との和解にかかわっているものと考えます。  言いかえると おのれの存在について心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。  その意味は こうです。  人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。  ということは 赦さない能力も資格もまったくない。  では あやまちをこうむった人間に出来ることは何か?  そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガイをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。  つまり 哲学として批判をすること。および 必要ならば 法律にうったえるということ。  ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?  こういう問いです。  この主題はその内実として まだ分からないところがあるかも知れません。それが明らかにされて行くことをものぞみます。ふるってご回答をお寄せください。  * 批判を伝えたあとは――人間存在としての関係は どこまでもありましょうが―― まじわりという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とはなくなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。  というのも 人は おのれのあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われるからです。  どうでしょう?      _________    2.  さらに趣旨説明を継ぎます。  早い遅いはあるでしょうが 誰もが自分の与えてしまった迷惑や危害については いかにオモテ向きは低姿勢であやまり続けていたとしても 内心では《取り返しがつかない。けれども 詫びようがない。どうしようもない》というところに落ち着いて自分を赦していると思われます。  もっと言うならば たとえばそのあやまちを犯してしまったそのあとの人生をすべてその害をこうむった相手のためにささげて生きるのみだと考え じっさいにそう生き切ったとした場合 そうだとしても オモテ向きは自分を赦していないけれども そのようなつぐない人生を送るというかたちで自分との和解は成り立たせていると思われるからです。  つまり たいへんな負い目を負いそれをすべて払いきるというきびしい人生ではあるのですが たとえばそのようなかたちで けっきょく自分を赦している。こう思われます。  そしてちなみに 昔は 死んでおわびしますという言い方(および実行?)がありましたが 死んだからと言って 自分を赦さなかったということにはならないように考えられるのではありませんか?  そのように 自分を赦すかどうかについて考えるなら たいていは赦すのであり おそらく赦さない能力は 人間にはないのではないでしょうか?  でも 被害者やその近しい人たちから見れば その加害者については とうぜんのごとく《おのれを赦す能力も資格もないに決まっているではないか》というふうに扱うはずです。  そうして もしこの被害者やその身内の人びとが 仮りに自分たちがそれぞれ加害者になったとした場合を考えるなら どうなりましょうか。  つまり 世間の相場から行けば 加害者である自分については遅かれ早かれ赦すでしょうし かつて自分が被害者であったときにはその加害者に対しては こんなことを言っていた。(あるいは思っていた)。と思い出す。つまり 《どんな面をさげて おまえは自分を赦せたのか? 自分を赦したなどと言えるのか。オモテにはその気配も出さないからと言って その内面でいったいどんなことを思っているのか? わたしは知っているのだ あんたは内心ですでに自分を赦してしまっているということを》と。  だったら――つまりそんな内心の探りっこをしているくらいなら―― けっきょく人間には《赦す資格も能力もなく 同時に赦さない能力も資格もない》 こう考えをあらためるなら きわめて人間的な共生のための方程式が得られるのではないか?  3.  さて このように趣旨説明をさらに伸ばしてみたのですが なお言い方を変えて説明します。  すなわちぎゃくに言えば 《赦すことができず赦さないことも出来ない》という能力を人間は 持っている。のではないか?   《赦す・赦さない》にはかかわりを持たないという能力が 生まれつき人間にはそなわっている。のではないか?  わたしは人間として 能力によって人を赦すことも赦さないことも出来ない。のだと。  つまり 或る人 A が或る人 B を死なせてしまった場合などを例として考えるとき それでも A は・つまりわれわれの おそらく 誰もが 自分を赦すようになると思われます。  これは いかにつぐないを続け 残りの人生がすべて償いの時間であったとしても その内心は自分を赦しているものと思われます。  むしろ そうであるゆえに(つまり やがて時とともに自分を赦してしまったと或る日悔いたことがあった ゆえに) つぐないをして 自分の不甲斐無さのつぐないをしようと思うものなのでしょう。  自分を赦していないという姿勢を採り その心を持ち続け つぐないの人生を送るという外形と 片や内心とは 果たして同じでしょうか? 舌を出して笑っているわけではないとしても 心はと言えば もうとっくに自分を赦しているのではないでしょうか?  もし自分が加害者であって 想うにそのような外面と内面とを合わせ持つポスト加害の人生を送らざるを得ないのだと決めた場合 果たして《つぐない》ということは もしそうすべきだとして どうすればよいのか?   おそらく つぐないをする・しないの前に どうも人間は人をいかに嫌悪しいかに憎んでも 赦すことも赦さないことも 出来ないのかも知れないと思うのではないでしょうか?  赦して欲しいとか 赦してやろうとか そういった思いを持つことは 人間にふさわしいとは思えない。のではないか?  4.  この質問が問うこととしては あやまりの言葉 おわびの言葉を申し述べること これは問題ないと思うのですが 問題は そこに《赦す・赦さない》が入ると ことは人間存在の一大事にかかわっているのではないかということにあります。  きわめてぶしつけで挑戦的な言い方をすれば 《ごめんなさい》のひと言で ことは全部終わったということ これが 人間たちのあり方なのではないか?   あとは 法律上の――あるいは法律に準じた考え方の上での――かたちあるモノによるつぐない これは それとしてしかるべく伴なわれるだろうとは思います。心身のあるいは生活上の損傷を埋めるだけとしてでも 助け合いは必要でしょうから。  5.  いかがでしょう?   そして 問いの出し方や問題点の切り口がずれていたり間違っていたりしていましょうか? 主題そのものの認識がつたないでしょうか?

  • 自然本性としての《むさぼらない》という能力

     自然本性としての《むさぼらない》という能力  ◆ 1. 《記憶‐知解‐意志》なる三つの行為能力として分析するのではなく おもに意志行為の具体的な内容に応じて《自然本性》のあり方をさぐるこころみです。  1-1. ひとに生まれつき備わった本性には たとえば《自然状態》と言われるごとくに《ものごとを限りなく欲する〔ゆえに 人は互いにあらそう〕》という思いや動きがあるとは見ない。――このように仮説した命題を問います。  1-2. 言いかえると 自然本性には《むさぼることはしない》という能力がそなわっている。――この命題を問うものです。  1-3. 《人は人に対して狼である》ではなく 《万人の万人に対するたたかい》でもなく そうではなく人びとは《非戦論において くにゆづりをおこなうことがある》。  ◆ 2. 《ものごとを欲する》という意志行為にかんして 次のように――西欧の精神科学にもとづき―― その内容を区分し それぞれについてやはり《むさぼらない》という能力が生まれつきそなわっていると言おうとするものです。  2-1. 《欲する》という意志行為を 次の《欲動・欲求・欲望》の三つに分けます。(いくらか 解釈に勝手な色合いを出しています)。  (α) 欲動( pulsion ): 存在するもしくは生きるということに関して ひとを否応なく突き動かすような感覚や思いや動きを言う。   ・(α‐1) これは 意志の発動する以前に起きるハタラキであるように思われる。  (β) 欲求( besoin ): 空腹を満たすというような――やはり意志に先行して起きる――身体自然にかかわる生理的なハタラキを言う。   ・(β‐1) 意志は 欲動や欲求が 意志に先行して起こしたそれぞれのハタラキを受け留め 一般にその中身を意志行為としておこなう。   ・(β‐2)  性欲は 意志に先行する欲求であるが 性行為はひとが意志によって・しかも互いの意志の合意によっておこなう意志行為である。〔→(γ-1)〕  (γ) 欲望( désir ): 欲動――つまりむろん 生の欲動――として起きたハタラキを受けてわれわれは 欲求をも満たしつつ 生活する。この生活においてわれわれが何かを欲するという感覚や思いやあるいはそのハタラキないしウゴキを言う。   ・(γ-1) しかもこれら《生活において欲する》ことの意志行為が自然本性としてそなわった生物なる存在としてわれわれは 互いが互いをそのような存在として受け留め認めている。つまり 生活は 共同性を持ち 社会生活をいとなむ。   ・(γ-2) ここで 意志行為をおこなう意志は いわゆる自由意志である。早い話が 欲動や欲求の自然なハタラキに――或る程度は――逆らってまでも《おのれの意志》を持とうとするし その《自由》を手放そうとはしない。   ・(γ-3) よって欲望は われわれが社会生活において これを欲する・あれを欲しない これをこのように欲する・あれを欲しないどころか排除しようとまで欲するなどなどと展開するあらゆる志向性を言うことになる。   ・(γ‐4) よってわれわれの欲望は 環境自然に対しても・《身と心》の自然本性に対してさえもそれらにおとなしく従う場合もあれば逆らって振る舞う場合もある。言いかえると これら《自然的および非自然的(つまりその意味で文化的)な〈欲する行為〉》を含む。   ・(γ‐5) よってわれらが欲望は 欲動に逆らったり欲求をねじ曲げたりそしてもろもろの社会的欲望についても 際限を知らないというほどに《自由に しかも時に 見境なく自由に》その想像力の翼に乗ったら乗ったでその行き着く先の宇宙の果てにまで進み入る。   ・(γ‐6) 欲望は《むさぼり》となり それとしての意志行為が現われるし 実際に起こされている。ところが・・・  ◆ 3. ・・・ところが このとき意志行為は もともとその自然本性にあっては 《むさぼり》を知らないのであり 《むさぼることをしない》という能力がそなわっている。と見る。  3-1. 言いかえると むさぼりを行なう欲望ないし意志は もともとの自然本性にはない。後天的な心的および社会行為的な現象である。に過ぎない。こう見る。  3-2. この命題の成否を問うわけですが これ以上論拠がないというその意味は タナトスなる死にかんする志向性が 死の欲動などと言われるごとくには 生来のチカラでもなければ本来のハタラキでもないということ これを言おうとしているものだからです。  3-3. 生の欲動のほかに 欲動はなくその中身にも複雑性はないという想定です。志向性の複雑は すべて《欲望》の段階における二次的で派生的な意志に発している。  3-4. 言いかえると 言ってみれば ひとはこの自然本性論としての問いにかんする公理を どのように設定するか。こういう問いになっています。  よろしくどうぞ。

  • 過去の過ちを繰り返さないようにするには

    私は心から趣味を楽しんでいる他人を直接否定・批判する人を数多く見てきましたが、そんな低レベル?な人に同調して自分も同じ事をしていた恥ずかしい過去があります。 同じ過ちを繰り返さないようにするには最低でも批判的もしくは否定的な人から離れるべきでしょうか? ※みっともないですが批判的な声な否定的な声=世間の声、世間の正義と本気で思っていた時期がありました。もちろん相手方は犯罪をやっていたとかではないです。

  • やはりまずは自己管理能力が高い人がなるのでしょうか

    企業の管理職というのは やはりまずは自己管理能力が高い人がなるのでしょうか? 自己管理もできない人が組織や他人を管理なんてできないですよね?

  • 《自己チュー》とは どういうことですか?

    《自己チュー》とは どういうことですか?  個人攻撃を一般論にておこないます。  (α) 自己チューとは どういう意味ですか? それは わるいことなんですか?  (β) もし自己中心的な思考や判断のことを言うのであれば それは 誰もに当てはまるのではないですか?   なぜなら とうぜんひとは《人間》を判断のひとつの基準とするはずです。つまりは取りも直さずこの《人間》を自己の見方考え方にもとづき捉えているはずです。人間という物差しを自己を中心として捉えたところから 思考も判断もおこなうのではないですか?  (γ) たぶん自己中心的な側面をものごとのすべてだとするかたちの自己中心主義がいけないのかも知れません。だとすれば それは 互いの《自己中心性》を開いて互いの言い分に耳を傾けることをすればじゅうぶんに解決することができる問題点だと思われます。  だったら 自己チューという問題は 対話の意志が有るか無いか あるいは対話の能力の如何に焦点が当たることではないのか?  《自己チュー》なる傾向や現象を批判して事足れりとするような《対話能力の無さ》は いちばんの問題なのではないか?  * こういう場合には こころを鬼にしてと言っておかないと 株を下げるようです。

  • 《宇宙は 自己の補完である》とはどういう意味か?

     (1) たとえば《地球家族》という言葉を 耳にしました。   これは 表題の意味内容とかかわっているのでしょうか?  (2) 《宇宙は 自己の補完である》とは どういう意味でしょうか?  (3) 質問者には 次のような意味のほかは 分かりません。   (あ) ヒトは 宇宙の中に存在する。   (い) その人という存在があたかも小宇宙と呼ばれるような宇宙の縮図を成している〔という主観想像的な見方が出来るかも知れない〕。   (う) その存在という存在は 相対的なものであるから 互いに関係しあっている。  (4) すなわち 前項の(う)については そこからさらに次のように考えられます。   (え) ただしその相互の存在関係は 互いに依存しあう側面すらあっても ヒトの場合は――つまり社会的なあくまで関係性としてある存在であっても―― その自然本性として中核を成す自由意志が 一人ひとりに〔相対的な〕独立性を持って発揮されるからには その意味での《独立性》をも同時に持つ。と考えられる。  (仮りに複数の人間による共同でひとつの意志があるとしても それが発揮されるのは 個々の人間それぞれによってに限られる)。     (お) つまり そのとき 《補完》というのは そぐわない。と考えられる。   (か) すなわち ひとりの人間として《わたしがわたしである》ことは あたかも――あたかもです あたかも――《独り満ち足りている》かのごとくその相対的で関係性の内にありながらの独立性・自立性を持ち得る。  (5) それとも  ここで《補完》という場合には 容易には知り得ないもっと深い意味があるのでしょうか?  よろしくどうぞ。

  • 過去の過ちを清算したいです。

    中学生だった頃に自分が犯した過ちに、いまだに悩まされている大学生の者です。 人間関係など人に対する過ちではなく、人の物に対して過ちを犯してしまいました。 今でも、思い出すと激しく後悔の念にかられ、心が苦しくなります。 「あの出来事さえなければ、今こんなに苦しんだり悩んだりせずに済むのに」と痛感する毎日です。 そこで、国内にある寺社もしく神社に参り、過去の過ちを清算・改めたいと考えています。 このような、過去の過ちを清算したり改めるのに御力を貸していただける寺社や神社を ご存知の方いらっしゃいませんでしょうか?寺社や神社のお名前を教えていただけたら幸いです。 寺社や神社に関わらず、過ちを清算するのに適したパワースポットや場所などでも構いませんので、 教えていただけたらありがたいです。 また、私は無宗教なのですが、このように自分が必要なときにだけ 寺社や神社などの御力を拝借するのは、無礼でしょうか? 自己中心的な考えでお力を拝借し、失礼になってしまいますでしょうか? 文章能力が乏しく、理解し難いかと思いますが、よろしくお願い致します。

  • 人の存在は 自己(心)と環境とが相補性の下にあるか

     ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限に詰め込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この命題について 別様に問います。  《全ての存在》のなかで 人の存在は  ▼ 量子的な不確定性に基づいており  ☆ と言えるか?   すなわち 世界を おそらく心としての自己と そして自然および社会としての環境(時空間?)とのふたつに分けて捉え これらのものが 相互に補完するようなかたちであると言えるか?  すなわち 自己つまりワタシが この世界において《すべての国家は その執行部たる公民が 生活者市民に 大政奉還すべし》とうったえ そのように実践しようとするとき 相手の環境たる政府について何も認識し得なくなるだろうか?   また 政府じしんも その自己の意志決定が出来なくなるほど 相手つまりワタシのことが認識できず 見えなくなると言えるだろうか?  言い得まい。  たとえモノにかんしては その現象が 相補性なるあり方をしていたとしても 人間にかんする世界としての現実は そうではあるまい。それにちなんで 次のような仮説を示します。   ○ 人間にとっての《現実》 ~~~~~~~~~~~~~~~~    (あ) 人間存在= 自然本性(身と心)     一般に 心(精神)において 現実を捉える。     身(感性)において知覚したものをも 心で認識して概念として扱う。    (い) 人間としての《現実》= 世界事実 + 主観真実(*)      * 主観真実= 事実認識 +ウソ(想像・虚構)    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ すなわち このワタシの《主観真実》は 環境をそして自己をもすでにそのつどの時点で捉えている。その捉えた中身についての正否を超えて この主観真実として ワタシは意志行為を成し 相手も同じくそうする。試行錯誤でもある。  つまり 世界は 認識〔のみ〕の問題なのではなく 一般に主体と見なされる存在が――主体ではなくても現象する自然とともに―― つねに問いと答えを繰り返しつつ その意味での対話としての動態過程をあゆむ。  自己(心)を測定すると 環境が測定できなくなるといった情況にはない。測定だけではなく意志行為もが行なわれる。   つまり認識および判断決定をともなってワタシたちがあゆみ生活するとき その測定や意志する内容が 正否の問題を超えて たえず互いに問い求められ その動態として社会的世界的な実践が成されて行く。  これを問います。

  • 他人の心を読める同僚

    同僚の女性に他人の心を読める人がいます。 感受性が鋭く、足音だけで(聞いている彼女は何一つ顔色を変えず。。)他人の行動を読みあてます。 例:この足音ならAさんで、この歩き方ならBさんが〇○をしにやってきたところだな、、とか。 そして、洞察力も鋭く、周りの人についてたった少しの情報から、どういう環境で生まれ育った人か。相手が育った環境の中で、心にどんなコンプレックスを抱えている人間か、 そういう部分を直ぐに見抜く人です。 例:あまり職場に馴染んでいなかった他の同僚について、素性を見抜いた(素性によって職場では少し煙たがられる存在だった)為に、上司の方が面食らってしまった。 こういう、他人についての洞察力が優れている人間は、どんな能力に長けているのでしょうか? また、このような能力を持つのはやはり頭が良いからなのでしょうか?