「失敗は成功の元」は本当に正しいのか?

このQ&Aのポイント
  • 「失敗は成功の元」は成功者たちが残してきた名言ですが、これは必ずしも真実ではないと思います。
  • 成功するためには環境も重要であり、劣悪な状況では名言は役に立たない場合もあります。
  • そのため、「失敗は成功の元」を信じるかどうかは個人の判断に委ねられるべきです。
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「失敗は成功の元」は間違い??

よく過去の偉人や現在活躍している成功者達(起業家・プロスポーツ選手・芸術家 etc....)は「失敗は成功の元」を筆頭に、 「成功の反対は失敗では無く、行動しないこと」 「失敗を恐れず行動する」 「途中で投げ出さず、できるまでやる」 こういった名言を残しています。 しかしながら、僕個人的にはこの様な言葉は 「必ずしも真実ではない」 と思うのです。 なぜなら、この様な名言はこれらを実現できる「環境」がなければ成り立たないからです。 もちろん、この様な名言「自体」は間違っていません。 至極全うな考え方だと思います。 ただ、そもそも自分の身が置かれている「環境」が最悪だったら、 この様な名言は現実のものとはならないでしょう。 例えば皆さんがサラリーマンだとします。 その職場にいる他の人達が、まるで小・中学生がするようなイジメをするような人として質の悪い人達で、皆さんがそのイジメの標的にされていたとしたら、 皆さんは自分が望むパフォーマンスをすることができるでしょうか? 人の目を気にしてビクビクしなくてはいけない状況に置かれていたら、 決して自分の実力の100%を出す事はできないでしょう。 そんな状況に置かれている時に、上記ような 「失敗を恐れず挑戦する。できるまでやり続ける」 こういった名言は、残念ながら役に立たないと思うんです。 事実、会社の人間の質が悪くて思う様に仕事できなかったけど、 転職したら自分の実力をフルに出せるようになって充実できるようになった人、いますよね? 高校時代の友人の知り合いが経験したことからもこれは事実と判断できると思います。 彼のその知り合いは野球が大好きだったのですが、高校では部活でイジメられて 小便をかけられたり、先生に試合に出たくないですと言えと先輩に命令されたりして、 最終的には退部に追いやられてしまったらしいのです。 その知人は推薦で部活に入ってかなり上手かったらしいのですが、 残念ながらそのイジメという「外的要因」が原因で やりたい野球をすることが出来なくなってしまった。。。 結局彼は部活を辞めた後高校も辞めて、別の高校(公立から定時制)に入り直したらしいのです。 (別の高校へ入学後、それでも野球が好きだった彼はまた野球部に入ったらしく、そこでは楽しくできたそうな) こんな状況に置かれているその知人に、 「失敗は成功の元」 「成功の反対は失敗では無く、行動しないこと」 「失敗を恐れず行動する」 「途中で投げ出さず、できるまでやる」 こういった名言を投げかけても、全く効果は期待できない。 「失敗は成功の元というけれど、失敗したらイジメがエスカレートするかもしれないよな。。。」 「行動しないことが駄目だというけれど、こんな人間達がいる状況で快活に行動したら嫌がらせがエスカレートするだけかもな。。。」 「投げ出さず、もっと野球上手くなる為に練習したいけど、こんな状況でできるまでやることなんて無理だもんな。。。」 こんなことを思うでしょう。 以上の事を踏まえて、僕は 「失敗は成功の元などの名言は、『普通にパフォーマンスできる状況にいる』ことが前提で成り立つものであるし、こういった名言を使っている成功者達ももちろんそういった前提の上で使っている」 という結論を導きました。 よって、そういった名言は『普通にパフォーマンスできる状況にいる』ことが前提の上成り立っているため、その手の名言を考える時にわざわざ「でも劣悪な環境だったら役に立たないよな。。。」みたいなことは考えなくてよい、という結論を導きました。 前置きが長くなりましたが質問です。 皆さんはこの私の結論をどう思いますか? もちろん基本的には問題無く自分のパフォーマンスはできるものなので、 こういった名言を見た時に、上記で挙げた例の様な劣悪な環境は考慮に入れることは無いと思います。 ただ、高校時代の友人の知人の様な事実等があるので、 どうしてもこのモヤモヤを解決すべく、こうやって結論を出してみました。 回答頂ける方、是非ともよろしくお願い致します。

noname#188715
noname#188715

質問者が選んだベストアンサー

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  • qzec
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回答No.4

>皆さんはこの私の結論をどう思いますか? 当たり前の事をなに長々と語っちゃってるの? が率直な感想 成功者の残した言葉や経験談が万人に当てはまる訳ではない。当たり前でしょ 成功するには非常に様々な要因があって、言葉に出来るのはそのうちの極一部だし 質問者さんも言っているように環境は人によって全然違うんだから 成功した人がそうしていたというだけであって、そうすれば成功する訳ではない そういうのは何が正しいとか何が間違ってるとかそういう問題じゃない 実際、人によって全く真逆の事を言っている場合もある 途中で投げ出さず、できるまでやることが成功の秘訣・・・と言っている人もいれば 才能がないと感じたら早めに見切りを付けて他の事を・・・ みたいな事を言ってる人もいるよ 成功者の言葉でも、ことわざでも、格言でも なんでもかんでも鵜呑みにするのは馬鹿のすることです そういった格言はあくまで"参考"程度にすることですね 自分の考えに合う格言を"参考"にして、自分の意思を持つことです

その他の回答 (14)

回答No.15

 「普通にパフォーマンスできるか」も重要ですが、ワールドカップ予選の本田がPKを決めたシーンを見て、「勝負に勝てるか」も人生の重要な要素のような気がしています。ドーハの悲劇や、あと一球でノーヒットノーランなどで、その失敗はどんな意味があるのか?ちょっとしたスキとか、投げたコースの違いとかは、戦略とか意志とか運でもない、相手との勝負の一瞬の駆け引きのような気がします。  結局、勝つことに意味がある、勝たないと意味が無い、ギャンブルのような行動も人生の醍醐味と言えるかですね。

  • hyuuma8579
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回答No.14

時間・空間・環境は、人間が管理しなければならない対象です。 環境すら管理できなければ、その時点で既に失敗したも同然なのです。 というより、環境に負けたら人間と名乗ることはできません。 環境は、あくまで人間が自由に管理できる対象だからです。 人間であり続けたいのなら、環境管理は必須条件です。 ある環境下で「〇〇だから△△できなかった」のだと環境のせいにすれば、その人が成功者として表に立つことは不可能なのです。 言葉や名言として表に出るような人は、最低でも環境を克服するのが大前提です。 あなたの挙げた名言が名言である理由は、その一言に辿りつくまでの人知れぬ努力や流した血と汗と涙が込められている故でありましょう。 1を聞いて10を知るという言葉がありますが、そのフレーズに秘められた奥妙な真理がわかるかわからないかも聞く側に問われるのです。 成功者の言葉を・・・言葉として矛盾があるように見えてしまうのは、1を聞いても1しかわからないからです。 成功者の言葉を聞き、それを真の意味で理解できる者は、少なくとも成功者と同レベルの苦労の土俵に立っている者でしょう。 10を聞いても1しかわからない者からすれば、成功者の言葉に対しても「言葉じりを取る」ことや「揚げ足取り」的な解釈しかできないかもしれません。 1を聞いた時に、語られていない100の言葉を噛み砕ける人間でありたいものです。 言葉がわからない人がその真意を知ることができないのです。 もっと言えば、成功者の言葉が言葉にしか見えていない時点でどうしょうもありませんね。

  • tomban
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回答No.13

うーん…私はそうは思わないな。 泥沼にハマった時、そのまま沈んでしまう人もいれば、助かる人もいるんだよね。 いろいろな要素はあるけどね。 助け舟が来たりとか(運)、そのままで冷静にしていたら浮いたとか(判断)、ともかくもがき続けてたら岸についたとか(死力)…いろいろあるけど、事実助かる人はいたんだよね?。 なんらかのムーブメント(行動)をすることで、結果としての成功はあった、というのもあるんじゃない?。 だから「成功」したんだと思う。 必ずしも努力が報われるなんてことは私は言わないけど、でも、努力すること、考えること…状況判断とか、逆転の発想とか、そういったものはやはり「諦めないからこそ」得られるんじゃないのかな?。 泥沼=死、と決めたら、そこで確かに「ジ・エンド」かもしれない。 でも「いや、そうなのか?」と疑問を持てば、状況だって逆転する可能性があるんだ。 投げ出したらおしまいだが、投げ出さなかったからこそ、死地から生還できた。 そういうことも有ると思わない?。 すべての人が成功するわけじゃないよ。 「結果として」生還できた人や勝利者「こそ」が吐ける言葉には違いない。 でも…それで私はいいんだと思う。 人生敗北は一度きりじゃないし、何度でもチャンスは有る。 成功は一度だけでも良いんだよ…そしてその時にこそ「成功の秘訣」というのは話せる資格が出来るんじゃないのかな?。 仕事は泥沼と違ってやり直しはきくじゃない?。 部活だって「こだわった結果として」イジメを受ける羽目になったんだから、それがどんなに理不尽と言えども、そこから抜け出すのには「自分の判断」だけしか最終的には頼れないだろ?。 他人が頼りにできない以上は、自分で自分を諌めるしか無いやね。 そのことで自分が無くなるわけじゃないんだから。 どうにもならんことなんぞ、捨てるほど有る、人生には!!。 そんなことにいちいち付き合っていたら、人生が終わっちゃうぞ?。 上手い具合に行ったならばよし、努力しても結果的に無理だったら捨てる。 成功、というのは、そういうものだ。 数々のものを捨てまくった先に、やっと一個の「成功」を掴んだ、って、ただそれだけの話しなんだよ?。

  • lunalian
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回答No.12

「失敗は成功のもと」とは、 成功という到達地点へ至る際にある障害を、失敗を経験することで理解し、その障害を軽減もしくは回避できるようになることで、よりベターな道のりを導き出せる、ってことではないでしょうかね。 投稿者さんの考えでいうなら、足を引っ張る方々を失敗からその存在を理解し、その人達の影響を受け辛い、または受けないようにする手段を思いつくきっかけになる、のではないでしょうか。

noname#203300
noname#203300
回答No.11

 当然のことながら『失敗』の質によるでしょう。人生を棒に振るような『失敗』では『成功の元』たって棒に振った人生は取り返せない。何で『成功』する?  他人が『失敗』とも思わないような『失敗』を大げさに考える奴の“戯言”でしょうね。この社会は、残念ながら、本当の『失敗』を『成功の元』に出来る程“優しい”社会じゃありません。またそういう『失敗』が本当の『失敗』ナンです。

回答No.10

「失敗は成功の元」 コレって諦めたく無いなら絶対条件の必然事項なんよ!100%と言える位w 道に例えるなら、左右に別れた2つの道を、右に行って失敗だったら左に行くんよ! 「左」この字の読みを「みぎ」って答えて、間違えて、正解したいのに、また「みぎ」とは答えないんよw 屁理屈の垂れようが無いんよw 野球でも、諦めたく無いなら「このままじゃいけない」「この場じゃいけない」「変えないといけない」「変わらないといけない」コレらの選択ミス、行動ミス、思考ミスを「元にして」じゃなく、元するしか無いんよw 「成功の反対は失敗では無く、行動しないこと」 コレは、タダ単に当たり前の事を述べてるだけ!w 行動しないと、成功どころか失敗すら「しない」じゃなく「無い」でしょw 「失敗を恐れず行動する」 コレは、やるからには、当たり前!wしかも、成功の事を言ってるんじゃない! どちらかと言うと本番の事を説いてる! 過程を、やるだけ、ヤッた奴に言う言葉w(ぶっつけ本番も可w) 「途中で投げ出さず、できるまでやる」 ん~…コレはねぇ…俺も違うと思うw「途中で投げ出さず、できる所までやる」がいいww 最後にw 「成功=ゴール」 コレが、すごーく大きな間違いw って言っても「ゴールが成功」でもいいんよ!w でもね「成功」って言うのわ、ゴール出来なくても、ソコを頑張って、必死に目指した自分の「成長」「精進」「満足度」とかの「納得出来る自分」「悔いの無い自分」の事なんよw 100年かけても登れない、クソ険しい山に挑戦して、頂上(ゴール)に辿り着かない事が失敗じゃないんよw 限界まで行って、悔い無くやり尽くした時には、景色も広大になってるし、成長してるし、満足出来て「納得出来る自分」「悔いの無い自分」になってるんよw 「成功」してるんよw むしろ「成功」って、自分でしか決めれないんよ! 「成功の反対は失敗じゃ無く、後悔」 って俺は思うね…w

  • pain68
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回答No.9

日本語に「最善を尽くす」という言葉があります。 英語に置き換えるとネバーギブアップでしょうか? その状況、その事態、その環境、どんなに切迫し劣悪な状況であれ、 自分が対応できる全てを駆使し、全知全能を傾けてその状況をやり過ごす。 7人の敵がいたら8人の味方を付けるよう応援を頼む。 死なないように死んだらおしまいだから・・・・・・ そして、反撃のチャンスをうかがい、相手を叩き潰す、若しくは状況を好転させる。 諦めたり、逃げ出さずになんとか柳のようにフラフラとやり過ごすか、 強硬手段で突破するかはその時の判断。 自分の経験で申し訳ないが、魂をこめて対応すれば何故か「反省とひらめき」が脳裏をよぎる。 それこそが「失敗は成功の元」だと思う。 適当にあしらって。逃げてばかりの人生は「反省も、ひらめき」も空虚で空しい。 一度きりの人生だが、運がいいとか悪いとか、いろいろあるがいろんな経験を 重ねることの方が次に的確な判断をできる大きな武器になる。

回答No.8

ご質問者様こんばんは。 シェイクスピアの言葉に「世の中には幸も不幸もない。ただ、考え方でどうにもなるのだ」というものがありますね。ご質問者様は失敗の後の行動は環境が整ってこそだとおっしゃいますが、成功や幸せへの下地となる環境が既に整っているのなら、もうその人にとっての幸せは実現していると言えるものかもしれませんね。 与えられた環境によって人間は生きるしかありませんが、中世の時代のように外界に出ることが許されない、環境が「定まった」時代では現在は無いのです。個人的な思想を持って行動を起こすことで自分の環境を変えて行くことは、近代の社会では容易になったといえるのではないでしょうか? 最善を尽くす為の行動を「選択」することが現代人には求められますね。しかし、良い結果だけ得られることを期待すれば、人間は行動を起こせなくなるでしょうね。何もしないことが人間にとってはとても悲劇的なことですね。 この世界に起こる出来事は大まかに3つに分類できると思います。それは「起こり得ること」「あり得ないこと」そして「避けられないこと」です。 起こり得ることとあり得ないことの違いは、そのことに意識が及んでいたかどうかの違いですが、避けられないこと、「運命的な」ことということも人間には起こりますね。引き起こされた出来事が、運命的なものなのか、そうではないものなのかを見極めることが今後、行動を選択する上で必要な能力になるでしょう。運命的な出来事に遭遇したとき、人間はそれを無条件に受け入れるしかありません。それを受け入れた上で、今後どうするのかを選択するしかありません。 ご質問者様のお友達のように、人生は自分の思い通りにはならないことの連続です。例えば、演奏家が事故にあってプロとしての道を絶たれたといったことも起こり得ますね。事故を避けられたものと捉えれば、それにこだわって、恨んだり悔やんだりしながら長い期間を過ごさなければならないでしょうが、避けられない運命的な出来事が自分に起きたのだと、人生そのものを切り替えてしまうような大きな思考転換に人間は至ることもできるのです。 その人にとっての未来に至ったとき、過去に起こってしまった避けられない運命的な出来事、(そのときは不幸な出来事としか思えないような出来事)が、「導かれたもの」と感じたり、自分にとっては「なくてはならないもの」と思えたり、その出来事に「感謝」したりすることも起こり得るのです。未来にそう思えるように、現在に与えられた選択肢を自分なりに精一杯選択することを愚直に積み重ねること。その「行動」が人間に必要なのですね。 先人の言葉には、このような意味が含まれるのだと思います(^-^) ご参考になれたら幸いです。

  • kazukun-z
  • ベストアンサー率13% (24/175)
回答No.7

いい線いってると思います。 名言に限らず世の中には、その命題が成り立つ条件が省略された言葉が多々あります。 水は零度で凍る(但し、1気圧に限る) やさしい人が好きです(但し、イケメンに限る) 国民の所得を150万円増やします(但し、公務員と上場企業正社員に限る) 人生には何の意味もない(但し、凡人に限る) 言葉が発せられるとき、その人の環境や立場が当然の条件として省略されてしまうようです。 ですから、環境や立場が違う人が会話してもかみ合わないし、時には喧嘩になってしまいます。 相手の環境や立場を理解し、省略された言葉を補うことは円滑なコミュニケーションの 第一歩だと思います。

noname#246720
noname#246720
回答No.6

環境込みでってことじゃないですか? 劣悪な環境に入ってしまったからと言って諦めず、そこから這い上がることができれば「投げ出さずに続ける」っていうのと同じだと思います。 事実、そういった経験談を語る有名人もいますよね。 中学時代いじめられてました、みたいな。 普通にパフォーマンスできるっていう時点で「普通」なわけなので 普通じゃない環境に置かれた時にどれだけやれるかが成功へのカギじゃないでしょうか。

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  • この言葉に対する自分の意見について

    「失敗を恐れて何もしなければ、何も成長出来ない」 おそらく殆どの人がこの言葉に共感していて、自分も同じくこの言葉は行動を決定する上で大切な言葉だと思っています。 しかし大切だとは思うのの自分は過去のイジメの経験により、「失敗は恐れるべきもの」として考え、「失敗を恐れて何もしない」という行動を今まで何度も取って来てしまいました。 ただ現在は20代前半の者なのですが、もうこんな事は二度としないようにし失敗を恐れずにどんどん挑戦していきたいと思っています(もちろん失敗から学ぶという前提で、です)。 そこで、その過去のイジメの経験によって自分の中に根付いてしまった「失敗は恐れるべきもの」という考えを払拭する為に、最近長い熟考の末ようやくある結論が自分の中で出たのですが、それを皆様に読んで頂いて皆様の感想をお聞きしたいと思います。 長文になりますが、最後まで読んで頂けたらと思います。 自分がその考えを持つ様になったのは、中学の頃クラブでいじめに遭ったのが原因です。 初心者で始めたスポーツ(バスケ)だったので、どれだけ失敗しないで練習しようとしても失敗してしまう事があったのですが、イジメに遭っていた自分は失敗すると陰湿な嫌がらせを受けました。 失敗して嫌がらせを受けたりイジメをされるのが本当に辛かった為、しばらくして自分はそもそも「挑戦」しない事に決めました。(要はもう自分はいないのと同じ)。 そしたらやがて酷い嫌がらせはされなくなりました。 (もちろん挑戦していないので実力は0のままです) この経験から「失敗を恐れず挑戦して失敗したらイジメの行為を受ける。ならば挑戦しないでおこう」という式が頭の中に出来上がってしまったのです。 なので、中学以降は失敗を恐れず挑戦するという言葉を聞く度に、そのトラウマが思いだされて苦しんでいました。 しかしよく考えてみると、自分は当時「陰湿ないじめに遭っていた」状態だったのでミスをした時に異常なまでに非難されて攻撃されたのは流れとしてはごく自然。なぜなら「嫌われていて、イジメられていたから」。 (ちなみに自分はその部活以外ではイジメを受けた事がなく、普通に友達もいました。そのイジメの行為をしてきた数人がかなり陰湿で人として最悪だったと覚えています) 以上の事から、失敗をした時に異常なまでに精神的に苦しめられたのは、自分が当時イジメられていた立場で、イジメをしてくる輩達がいた環境(つまり部活)に属していたからであって、「失敗を恐れず挑戦したが結果的に失敗した」からでは決してないと言えます。 もし「失敗を恐れず挑戦したが失敗した」事によって僕が(しかも経験者ではなくまだ初心者)が当時イジメを受けたのであれば、集団の中で、例えば部活に限らず仕事で挑戦して失敗した人達は皆陰湿な嫌がらせを受けて精神的に苦しめられて、結果トラウマを抱え、もう「挑戦する事」を止めるでしょう(ちなみに自分は社会的枠組全般、例えば小中高大、バイト先等も含めてイジメられた事は一度もありません)。 他にも例を挙げると、イチローだって現在は世界トップレベルのバッターですが、彼が野球をやり始めた頃は失敗の連続だったでしょう。そんな時に失敗した事を執拗に責められ、精神的に苦しめられイジメられていたら、とてもじゃないが野球どころでは無かったでしょう。 エジソンも数多くの発明をした事で有名ですが、その発明の裏には沢山失敗があったはず。 しかし失敗する度に精神的に苦しめられてイジメられていたら実験どころでは無かったと思います。 よって僕は中学の部活の出来事を「もうとっくの昔に過ぎ去った、たまたま運悪く経験してしまった一過性の嫌な出来事」として理解し、一切トラウマ等にする必要が無く、これからは「失敗を恐れず果敢に挑戦」という言葉を愛してまた大好きなバスケについて話したり、実際にプレーしていけばいいと感じています。 (中学以来そのイジメをしてきた輩達が脳裏にちらついてしまったので、バスケについて話したり、実際にプレーする事を避けて来た) 堂々とこれから失敗を恐れずバスケをすればいいし、スポーツ以外のどんな事に対しても、「失敗を恐れず挑戦」していけばいいと最近思えるようになりました。 (まぁこの事は普通の人はごく当たり前に思っている事だと思うのですが、自分は最近までトラウマが原因で思えませんでした) 上記の思考プロセスを経て「もう過去に囚われず失敗を恐れず何事にも挑戦していこう」という結論に至ったのですが、皆さんは上述の文を読んだ上で、僕のその結論についてどう思いますか? 回答お待ちしております。

  • この悩みが解決できなければ待っているのは...死?

    20代前半の者です。 中学時代に球技系の部活で陰湿ないじめされたことがあります。 当時イジメの加害者達はことある毎に私の事を潰して排除しようとしてきたので、 僕は部活中思い切って行動し、挑戦することができませんでした。 結局、ずっとそのような状況が続いたまま3年の引退を迎えることに。 当時は本当に鬱になるぐらい辛かったので、 1年の時点で辞めなかったことを本当に後悔しています。 そんな嫌な経験をした中学時代からもう7、8年経っているのですが、 当時できたトラウマに未だに苦しめられています。 そのトラウマは2つあります。 1つ目は、そうやって当時やりたくてやりたくて仕方無かったのにもかかわらず、 思い切って積極的に挑戦できなかった経験があることから、多くの場面でよく聞く 「行動する事が大事。自分を信じて始めの一歩を踏み出す事が大事」 「失敗を恐れずに、まずは行動するんだ」 こういった言葉をすんなりと参考にすることができないことです。 偉業を成し遂げた人 スポーツ選手 有名な学者 何かしらの成功者 ....etc 皆こういったことを言っていますし僕もそう思うので、その言葉は紛れも無い 「事実」なのですが、自分はこういう言葉を耳にする度に、 「あ~でも俺は当時部活で自分を信じて、失敗を恐れず行動したかったけど 出来なかったもんな...」 「当時のいじめられていた状況だったら、こんな言葉無意味だよな...」 と考えて、当時の事や当時の加害者達の事を思い出してしまいます。 思い出し始めてしまうと、思考が停止して目の前の事に集中できなくなり、 そうするとやらなければいけないことをするのに時間がもの凄く掛かってしまいます。 人が30分で終わるところを、僕は3時間掛かってしまうこともあります。 そこで皆さんに質問です。 もうこれ以上こういった言葉を聞いた際、 中学のいじめられた時の事を思い出して嫌な気持ちになりたくありません。 そこで僕は今後そうしない為に、 「中学の時はいじめられていた環境にいたから、やりたかったことを出来なかったのは当たり前だ。 当時とこれからは全く環境が違うのだから、そのイジメの出来事を一過性のことと割り切って、これからは当時のことを連想する事も無く、そのような言葉を参考にしていけばいい」 と結論づけました。 これは事実ですし、普通は皆過去に何かしらあっても割り切って生きています。 ただこうやって結論付けたものの、不特定多数の方の意見を聞かないと不安で仕方ありません。なので、皆さんがこの結論についてどう思うかをお聞きしたいです。 2つ目は、当時部活で僕の行動を制限しようとしてきたいじめの加害者達を、頻繁に生活の中で考えてしまうことです。 何かやろうと挑戦している時に、脳内にその加害者達を出してきて、 「お前なんか無理。ヤメろヤメろ」と僕に言ってるところを想像して苦しんでしまうのです。 もちろん当時の加害者達は僕の今、そしてこれからの生活に一切関係ありません。 なのでその加害者達のことなどたったの一秒も意識する必要は無いのです。 でも、考えてしまう...。 恐らくそれは、質問1と同じ様に、「当時の奴ら等意識する必要等ない!」と結論付けても、 それが正しいかどうか不特定多数の方の意見を聞かないと不安で仕方ないからだと思います。 「奴らにブログを見られたら馬鹿にされるだろうか・・・」 「奴らにFacebook等のSNSで見られたら馬鹿にされるだろうか・・・」 「奴らに街であって、例えば恋人を連れている所を見られたら馬鹿にされるだろうか・・・」 「今の俺を見られたら馬鹿にしてくるだろうか・・・」 こんなことも一切考える必要がない。 「その当時の加害者がどう思うか?」なんてこと、一瞬たりとも意識する必要ありません。 ただしこれは自分が出した結論なので、皆さんが 「僕はその加害者達を今、そしてこれからも意識する必要があるかどうか」 についてどう思うかお聞きしたいのです。 質問は以上となりますが、質問1・2の両方共、どうしても解決したい悩みですので、 どうか多くの方に回答して頂けたらなと思います。 実は、今回こうやって質問をする前に、 高いお金を払って数人のカウンセラーの方にこの悩みを相談しました。 しかしながら、何やらよくわからない心理学用語を用いて今の僕の状況を説明はされたものの、 一向に僕が解決したい悩みの核心(今回のこの質問)に入ろうとしないので、 全く症状は改善されませんでした。 なので、ここが最後の頼みの綱だと思っております。 もし解決できなければ、下手をするともう自殺という行為に入ってしまいそうなぐらいに追い込まれているので、「こんなくだらないことを...」とは思わずに、どうか皆様の回答を頂けたらなと思います。

  • 彼に振られました。元彼女との関係をハッキリさせるまで待っていてと言われ

    彼に振られました。元彼女との関係をハッキリさせるまで待っていてと言われ、半年程待っていました。その半年間は、体の関係はありませんでしたが、二人で旅行をしたり毎週会ったり、彼の野球友達に私を紹介してくれたり(試合を見に行ってました)と、性格や考え方も近く一緒にいてとても居心地のいい関係でした 野球友達は、彼が女の子を連れてきたのは初めてだからといい、みんな優しく迎えてくれました。 しかし、私が「そろそろ答えがほしい」と聞いたら、彼に「元彼女とやり直そうかと思っている。やっぱり彼女には俺が必要だと思ったから。ごめん」と言われました。 私は「ならもう会えないね」と言い、彼は「でもまだどうしようか悩んでいる」と言い、その時は「またね」といい別れました。それから、一週間たちましたが連絡は一切ないし、私からもしていません。 彼の野球友達とはまだ交流があり、状況を話した(チームをまとめている女の子)ところ、「彼と会うのが気まずいなら、彼がいないとき、野球を見においで」と言ってくれます。私は、彼に「もう会わない」と言ったものの、そのことに対し少し後悔しています。振られた時、もっと別の別れ方があったのではないかと・・・。 私は友達にも会いたいし、野球をまた見に行きたいと思っています。でも私の行動を彼はどのように感じるものでしょうか?また、周りの男性は振られて、彼も来ていないのに野球を見に行く私を、変な風に思うものでしょうか?アドバイスをお願いします。

  • こんな経験、忘れたらいいですよね?

    23歳です。 僕は中学時代、バスケ部で陰湿ないじめに遭いました。 僕は初心者でバスケを始めたのですが、1ヶ月が経つ頃から僕とは別の小学校から来たバスケ経験者の同級生数名に陰湿なイジメをされ始めたんです。 いじめの理由は恐らく「なんとなく嫌だ、むかつく」こんな理由だったと思います。 僕は大学まで出ましたが、大学卒業するまでその中学の部活以外で、バイト等も含めいじめの行為に遭ったことがありません。 今思い返しても、当時いじめを受けたのは、 いじめをして来た人間の性格が腐っていたからだと断言できます。 部活では、 ・シュートを打つと「お前が打つな」と言って、尋常じゃなくキレられる ・「下手クソはシュート打つな」といった様な罵倒をされる ・僕が出したパスをもの凄く嫌そうに取る ・ミスしたら必要以上に責めて馬鹿にして攻撃して来る こういったことをされました。 明らかにシュートチャンスでシュート打てる時や、自分でカットインしてシュートに持って行きたい時、外したら何を言われるか分からないし、決めても嫌な顔をされるかもしれない・・・ 大人でも始めたての仕事で、罵倒やいじめを繰り返されたらさすがに心を痛めます。 そんなことをまだ13歳14歳の思春期にされたら、ダメージは相当。 こんなことを延々と繰り返された僕は、 徐々に挑戦というものをしなくなって行きました。 まだ数ヶ月の初心者。 どれだけ意識していてもミスはあります。 でも、ミスすると罵倒される状態だったらもう怖くて挑戦できないですよね。 「思い切って挑戦する」→「失敗するかもしれない」→「失敗したらそこから何かを学んで次に繋げる」 このプロセスが、何かを上達させるには不可欠です。 しかし、僕はこの第一段階である「挑戦する」っていう行動を取れなかったんです。 もうボールを持ったらパスをして、自分では攻めない。 こういう状況に追いやられていました。 そして他にも、 「下手クソはシュート打つな」 「下手クソは○○するな」 こういった発言をされていたと述べましたが、僕は下手だから練習しようとしたんです。 下手だからシュート打って練習しますし、 下手だからドリブルとか果敢に責めたりして、上達しようとしていたんです。 でも「下手だからするな」と言われたら、一生上手くなることができません。 家でいくら1人で練習しようが、実際の練習で上述したようないじめの行為をされていたらその成果を発揮できません。 「下手だから○○するな」と言われない為には、上手くなってから始めないといけなくなります。 しかし上手くなるには、実際に部活で皆と一緒に練習しないといけない。 でもその練習にちゃんと参加できないようにさせられていたので、もう上手くなりようがない。 こんな負のサイクルに追いやられていました。 中学の部活でこの様な経験をした僕は、2つの"誤った"理論を頭に刷り込まれてしまいました。 1つめが、「思い切って何かに挑戦すると、いじめみたいな酷い目に遭う」 2つめが、「何を始めるにも"完璧になってから"始めないと、酷い目に遭う」 この2つの理論です。 何かに挑戦すると、勿論"失敗"するという可能性が出てくる。 それは誰しもそうだと思います。 普通にスポーツでもそうですし、 仕事でもそう。 趣味でもそう。 何でもそうです。 何かに挑戦するということは、成功することも勿論ありますが、失敗もつきまといます。 しかし、失敗をするともの凄く酷い目に遭わされるという状況だったら、さすがにもう行動ができない。 僕は当時そういう状態を2年以上も経験したので、 それが"真理"であるという勘違いをしてしまってるんです。 もしそれが真理なら、みんな誰も何も始めようとしないですよね。 2つめに関しても同じ。 「できるようになってからはじめる」じゃ、いつまでたっても何も始められません。 スポーツでも、仕事でも、語学でも、 「ちゃんとリフティングができるようになってから始める」 「ちゃんと仕事の内容を完璧に覚えてから始める」 こんなことやっていたら、いつまでたってもやるべきことができませんよね。 何でも「やりながら」できるようにしていくのが普通な訳です。 完璧になってから始めよう!だと、そのやりたいことを始められる日は来ないです。 よって、上の2つの理論は間違っているんです。 成功者の方達もそうですし、色んな本やメディアでも 「失敗を恐れず、挑戦する事が大事」 「初めの一歩を踏み出そう。転びながら学ぶんだ」 このような事が言われていることからも、 僕の2つの理論は誤っているんです。 だから僕は、この2つの理論は、 「いじめを受けていたという、ある種の"特殊"な環境にいたからこそ生まれた誤った理屈である」 ということを認識して、もう忘れてこれからはどんどんと思い切って一歩踏み出し、積極的に挑戦していきたいんですよね。 そこで皆さんに質問です。 僕はこれから、いじめの経験から導き出されたこの2つ理論などもう忘れて、 世の中で言われているように、どんどんと色々な事に挑戦して行って、成功体験を積んでもいいですよね? こうやって確認を取るのもおかしいと思いますが、 自分でいくら考えても不安なので今回質問させて頂きました。

  • 狡すっからい方が成功するのでしょうか?

     人間としてより良く生きると云う事(道徳など)は別として  出世する 収入を多く得る(勿論仕事をこなす事が出来る事を見越した上で)  のは不良気質の(犯罪を犯さない程度)方が良いのでしょうか?  中学時代の同級生 不良気質でしたが 勉強は役に立つと励んでおり、  学業は学年トップ スポーツ万能でしたが、委員会活動や  当番などはせず、クラスの誰かに喧嘩を売ったり、  自分勝手な行動が目立ちました 又、彼に逆らえないようにする為に  不良グループに入っておりましたが、一緒につるむが、本当に悪い事を  する時は「抜け」 時には不良のボスに「貢いだり」して、報復を免れたり、  自分に火がかかってきそうな時には急に大人しい子にも「御免 冗談だった」  等と云っておりました。  流石に20歳を過ぎると暴力は犯罪になるといいしませんでしたが、  大学時代も(彼と偶然にも同じ大学で彼は体育会の部活に居た)  彼は立場の強いものに付き、弱い立場の者や自分にとって目障りと思う者は  変なデマを流したり、鬱憤晴らしとしてのいじめも行っておりました。  社会人になり、彼は一早く出世したらしいですが、噂によると「同期のあいつ  を這い上がれなくしてやる」とかその様な事をしていたらしいです。  今彼は独立しておりますが、彼はこの様なスタンスで人間としては正しくないが、  収入を多く得て、社会的には成功しているそうです  唯、中学 高校 大学 社会人になっても「誰かに殴られそうになったり」  「脅迫の電話や手紙が相次ぐ」とは云っておりましたが、「それにめげると  やっていけない 俺は性格が悪いし、自分だけが可愛いだからそれを貫く」と   豪語しています(妻や子を持つと、被害が妻子に及ぶので独身  元々親子関係も気薄故付き合いもないそうです)  彼のスタンスは  1 小さな事(掃除や委員会 日直)はやらない  2 その時の強い者に付く  3 そして、立場の弱い者や自分が目障りな者を蹴落とす  これがモットーだそうです(事実そう豪語しています)  正しくはないが 幼少時はいじめや脅しで 社会人になっても相手を蹴落とすと  云う事はある意味社会の処世術を身に着け、トータルで見たら正しくはないが  出世 収入でみれば成功者と云え その様な生き方はある意味手本となるのでしょうか?  ご回答お願いいたします