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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《自己チュー》とは どういうことですか?)

《自己チュー》とは どういうことですか?

Full_Energyの回答

回答No.11

No.2さんの回答を読んで思ったことを書かせてください。  言葉と、それによって表現される概念は、人間の、社会現象に対しての認識から生じるのであって言葉から現象が生じるのではないと想いますが、もし「自己チューという言葉が生じたのに倣い、社会性が乏しくコミュニケーション能力の低い、自己の客観視のできずKYで、非寛容なくせに依頼心の強い幼児的な人間が増えている」のであるとすれば、自らそういった言葉を使うと、そういった現象がさらに広がるのではないか? と思います。  しかし、人が「自己中心的」になる説明については、全て為政者と社会制度が原因である、と書いてあるように思います。そう考えるのであれば、同様に、「自己チュー状態」も、自己チューという言葉が生じたのに倣って」生じるのではなく、社会環境が原因であると考えたほうが良いのではないでしょうか。  結局は、「自己チュー状態」も、「自己中心的状態」も、どちらであれ個人個人の 行為振る舞い・判断・思考・世界観 により、政治や社会環境が決まり、生じる。と言えるかもしれませんが。  また、「自己チュー」という言葉は、「社会状況を象徴した言葉として(使っている)」とありますが、「自己中心的」という言葉の意味を、「実質的には助け合っているにも関わらず、意識としては他人と奪い合い、優越感や虚栄心(他人の評価)に固執している。」と書いているから、やはり「自己中心的」という言葉も、社会状況を象徴した言葉として説明しているように見えます。しかしそうではなく、何か別のことを説明しているのでしょうか。深い考えがあるかもしれません。  ともかく、普段の回答が妥当であるかどうかは別として、流麗に見える文章の中で最後に使われる「自己チュー」という言葉が文章全体を汚しているように見えます。その言葉を使う人にとっての問題でもあるように思いますが、一方では防御しないと「常識とは違うことを言っている」という理由だけで非難され易く、また、実際に誹謗中傷を受けてきたからあえて書いているのかも、とも思います。 おまけ:  貴重でない類人猿がキーキー啼いてますが、人がサルを廻してこそ芸としての猿廻しになります。お猿さんに「あーしろ こーしろ」と言われて乗ってしまったら、「サルに廻される人」という事になり、ぎゃく になります。お猿さんを切り捨てて人になってこそ、観察すべき貴重な類人猿として扱えるようになります。何らかの意図思惑があって無理に作成したサルの文章が、支離滅裂なのは当然のことです。真に受けすぎると混乱すると思いますよ。たぶん荒れ狂う自我に翻弄され、狂乱しているだけなのだと想います。サルに対して「根っからの悪人である」とは言えないでしょう。  誰を揶揄しているのか知らないが、それほどまでして守らなければならないものとは何でしょう。嘘・偽りの自我であるなら一旦捨てなさい。もし誰かを「根っからの悪人」と規定するのであれば、そのように規定する人がまさにそうであると言えます。善人の極みまで行けば、次は悪人の極みまで行くと思います。それは誰か他者によってもたらされるのではなく、自分の行為振る舞い ――それが文章によるものであったとしても―― により、そうなるのだと思います。それこそ「当番制」となります。十分注意してください。

bragelonne
質問者

お礼

 元気いっぱいさん お久しぶりです。ご回答をありがとうございます。  まづ物言いから入りましょう。  ★ 貴重でない類人猿 / 観察すべき貴重な類人猿  ☆ ひとは 類人猿ではありません。また ひとに《貴重な人間》と《貴重ではない人間》とがいるわけではありません。  言うとすれば ひとは その存在としてひとり残らずとうといものです。  そしてそのときにも ただしそういう人であっても みづからの自由意志によってどこまでもへそを曲げ続けることもあり得ます。おのれの心にどこまでも逆らって ほかの人の心をすべて打ち消そうとし続けるという道(?)をえらぶ場合があり得ます。――これは 根っからの悪人です。  根っからの悪人に対しては 放っておくよりほかに交わりの仕方のない場合があります。  ここまでのことを書いたはずです。それを超えて そのような見方が当番制として組み込まれるとか そういうことには つながっていません。おのれの見方を述べたまでのことだからです。  さて  ★ ともかく、普段の回答が妥当であるかどうかは別として、流麗に見える文章の中で最後に使われる「自己チュー」という言葉が文章全体を汚しているように見えます。  ☆ そうですね。わたしの場合は 《文章全体を汚しているように見える》という批判ではなく そうではなく たとえその診断がただしいとしても 何にもならないような発言の仕方ではないかと批判しています。ちょうどニュウトラルさんが 解説してくれたように  ● (回答No.7) ~~~~~~~~~~  このご質問は、たとえば、  患者に病名だけ付けて放置する医師(?)について、  その態度はどうなんですか、  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と言って迫っています。《揶揄》ではありません。(というのも その回答者は わたしの質問に回答して来ることがあるのですが それに対してわたしが補足要求をしても それに返さずほとんど一回きりの投稿でおしまいとしているからなのです)。  ★ その言葉を使う人にとっての問題でもあるように思いますが、一方では防御しないと「常識とは違うことを言っている」という理由だけで非難され易く、また、実際に誹謗中傷を受けてきたからあえて書いているのかも、とも思います。  ☆ これについてもわたしの見方はこうです。《常識と違うことを言っている》かどうかと見るよりも 常識が旧いものとなっているならば 新しいものに変えるのがよいというふうに つねに《常識》を確認しあたらしく問い求めているとは思いますが――そうは思いますが―― その得られた常識としての回答を どう表現するか その仕方に異議をわたしはとなえています。認識だけを述べて あとは放りだすやり方に近いのではないかと。  あるいは 誰もがみづからの認識内容を すぐに・すでに実践しているかと言えば それが相手のあることであれば むつかしい場合があります。ということは その実践という方向性において 認識をみづからの意志行為の問題として表現するなら いいということでしょう。それを望むという物言いです。  過去に何があってそういう文体を形作っているのか これはわたしは詮索していません。  ◆ (回答No.2) ~~~~~~~~~~~~~  あえて「自己中心的」ではなく「自己チュー」とするのは、  僕の例でいうと   〔* 社会情況の中から〕自己チューという言葉が生じたのに倣い  ・・・  〔* これこれの〕社会状況を象徴した言葉として〔* 「自己チュー」とするの〕である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ と言っているのだと思います。《言葉から現象が生じる》という意味ではないと思います。  わたしはいままだ ニュウトラルさんの提起した観点について考えています。  そのような問題点としては いかがですか?

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