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明治政府はどうして神道を重視した政策を打ち出したのでしょうか?

明治になると、神仏分離で廃仏毀釈などが起こりますが、 そもそもどうして明治政府は神道を重視した政策を採ったのでしょうか? 聖武天皇などは、仏教を重視した政策を採りました。 誰が言い出したことなのでしょうか。 よろしくお願いします。

  • 歴史
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  • ベストアンサー
  • oska
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回答No.4

>明治政府はどうして神道を重視した政策を打ち出したのでしょうか? 天皇を中心とした中央集権体制樹立を目指したからです。 江戸幕府時代は、各藩が独立した国としてして存在し、幕府はこれらを管理・監督する立場でした。 政治的には、連合国家だったのです。 A藩の罪人がB藩に逃げ込むと、A藩の官吏は勝手にB藩内で捕縛は出来ません。B藩もA藩の官吏が入国する事を嫌います。 当時の各藩及び市民は「徳川家が薩長に変わった」との認識でした。 中央集権を目指す薩長土肥政府は「天皇を神聖化=現人神」とする事で、国内統一を考えます。 (万世一系の天皇は、明治に入ってからの制度です) 天皇だと、昔から「お伊勢参り」などで庶民でも天照大神は知っていましたから、天皇は天照大神の子孫である必要があったのです。 (この政府の基本的考え方は、1945年移行の「天皇人間宣言」まで続きます) 全国の神社は、基本的に天照系の神々を祭っていますから、神道を国教化する事で中央集権化を強化したのです。 まぁ、警察力で庶民を縛る事が出来ないので、宗教を利用した訳ですね。 余談ですが、神仏分離令が公布されると・・・。 奈良の興福寺の坊主は全員春日大社の神官になり、無住の興福寺は衰退。 香川の松尾寺の坊主は一人を除いて神官になり、境内の仏像・仏具を破棄。境内を神式に改め(既存建物は、松尾寺時代の仏式建造物のまま)金毘羅神社と改宗。改宗に反対した坊主は、金毘羅神社奥の院で神式で祭られています。

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  • tachiuo
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回答No.5

皆様のご回答に補足させていただきます。 では、何故仏教ではだめで神道なのか。それまでは神仏習合があたりまでした。それを支えていたのが本地垂迹説です。ところが… 本地垂迹説では、天皇の先祖とされる天照大神は本地である大日如来の垂迹であるとされます。すなわち、大日如来が本来の姿で、天照大神は大日如来が仮に姿を変えて現れたもの(権現)ということです。そのなると、天皇の先祖が外国から来たということになってしまいます。これは、当時の天皇を中心とする中央集権国家を建設しようとしてた為政者にとって不都合なことです。そこで、神仏分離令を出して神道を仏教から切り離し、廃仏毀釈が進んだのです。

  • wolfhat
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回答No.3

この当時の欧米の考え方に「独立した民族」の定義が3つありました 1.独自の言語 2.独自の歴史 3.独自の宗教 この江戸末期までの日本は独自の言語と歴史を持っていましたが、仏教と儒教を組み合わせた「日本仏教」と「儒教」だったため、欧米に対し日本人が独立した民族として主張するために「独自の宗教」を示さなければならなかったのです そのため神道を国教化したのです もう一つの側面としては国民の意識を統一し、モラルを作るために新しい宗教が必要だったからです モラルの面に関しては仏教で問題なかったのですが、仏教自体いくつもの宗派に別れているため、国民の意識を統一させることに利用することができなかったのです 宗教による意識を統一された集団は為政者にとってかなり扱いやすく、それを敵に回す人(この当時の日本にとっての敵は日本植民地化を狙う欧米人)にとってはかなりの脅威になります 過去の例で見ても一向一揆に苦しんだ織田信長、最近ではオウム真理教、世界で見ても黄巾の乱、イスラム原理主義など >そもそもどうして明治政府は神道を重視した政策を採ったのでしょうか? 私の考えでは以上の理由を元に、日本に圧力をかけてくる欧米に対抗するためですね

  • fumkum
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回答No.2

>明治政府はどうして神道を重視した政策を打ち出したのでしょうか? 維新政府は王政復古、祭政一致の方針から1868年にそれまでの神仏習合を禁止し、神道を国教化するために「神仏分離令」を発布します。これが契機になって廃仏毀釈が起こるのですが、これは明治維新・尊皇攘夷の思想的背景が国学にあったからだと思います。仏教・儒教の影響を排除して「惟神(かんながら)の道」(分かり易くいえば神道=神代から伝わってきた日本古来の道)を追求した国学の影響が強かったせいだと思います。国学は特に平田篤胤から学問と言うより政治思想化しますので、維新の志士に強い影響を与え、維新後その志士たちが政権を握りますから。 以上、参考まで。

  • jamiru
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回答No.1

江戸時代の仏教はもう本家仏教ではありませんよ。 なので、聖武天皇時代とは仏教の質が全く違います。 聖武天皇時は本家仏教のコピーだから。 江戸時代の仏教はフリーダムなのですよ。 言うなれば治外法権。国家の法が及ばない聖域。 誰がというよりも近代国家の根幹とも言える中央集権化と法律を守らないのでこの上ない邪魔な存在なのと、聖域を規制緩和をして今までに溜め込んだ資産を収奪して売りさばいてウマーにしたかったから。 ん?似たような狙いの政策を1990年代からよく聞いたなあ。

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