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人間にとって物語って何なのでしょう?

serpent-owlの回答

回答No.7

 補足を拝見しました。私の眼から見て、語るべき論点が二つほどあるように感じました。  一つには「近代《子ども》論」と発達心理学の関係。  もう一つは「自己了解の方法としての物語」という論点。  一つずつ見ていきます。  まず「子ども論」です。  これは比較的最近提起されてきた問題です。フランスの歴史学者フィリップ・アリエスの論考『子供の誕生』(みすず書房に邦訳あり)での、「子どもは近代になって初めて《発見》された」という、ちょっと驚くような指摘が出発点になっています。国内では元・御茶ノ水大学教授の本田和子(「まつこ」とお読みするようです)さんが代表的な論者で、中村雄二郎さんも時々これについて論じています。  アリエスの指摘は、「近代以前には子どもが存在しなかった」ということを言っているのではありません。子どもという「新たなカテゴリー」が、「近代家族」の成立と連動して析出し、文化的現象として明確に浮上してきたのが近代に入ってからなのだ、という主張です。  もう少し詳しく述べましょう。近代以前には、子どもは存在していましたが、明確に意識される存在ではなかったのです。そこでの子どもの捉えられ方には二つあります。一つは、単に「幼いもの」として、共同体の中で特に意味を持たない存在、つまり「共同体の外部にある存在」とでもいうべきものです。もう一つは「小さな大人」としての捉え方。これは村落社会での子どもの役割をイメージするとわかりやすいと思います。農村では、子どもだって労働力なのです。大人と子どもにできる仕事には、むろん違いがありますが、その違いの元は「腕力」だけです。つまり、量的な差異でしかない。質的には区別がない。すなわち、子どもと大人は連続的に捉えられています。これが「小さな大人」。こちらはというと、やはり特別な意識の対象としてではなく、「共同体の中で」大人と同列に置かれています。(もっとも、「米俵一つを持ち上げられたら大人」とか、そういう通過儀礼・イニシエーションはあります。これが大人と子どもの「区別」を意味するのはたしかですが、やはり「腕力の量的変化」のある時点に便宜上の区切りをつけているだけのことですから、「恣意的」なものでしかありません。どのようにもズラすことのできる区切りなのです。)  このように、近代以前は、子どもは特に意味を持たない「幼いもの」として「共同体の外」に置かれ、あるいは「小さな大人」として「共同体の中に」大人と同列に置かれて、いずれにせよ明確に意識される対象ではなかったわけです。  ところが、近代産業が勃興し、「系族」「大家族」から「近代的家族」が分離・析出してくるのと連動して、「その幼さ、未熟さを愛し慈しみ、可愛がる対象」であり、同時に「その幼さ、未熟さを、教育することを通じて排除すべき対象」でもある存在として「子ども」という新たなカテゴリー(分類の箱)が生まれてきた。ここが大事なポイントです。つまり、近代的文化事象としての「子ども」とは、《実体》なのではなく、    「幼さを愛の対象として共同体の中へ引き込む力」と、    「幼さを排除の対象として共同体の外へ押し出す力」とが、    同時に作用している対象として《定義されるもの》 なのです。  具体的に言うと、12歳くらいで大学を卒業してしまうような天才児は、家の中では子どもかもしれませんが、大学ないし社会は「大人」として扱います。上記の「定義」から外れるからです(未熟ではないから)。  逆に、いかに精神的に幼く、あるいはどれほど腕力が乏しかろうと、チン毛はおろかスネ毛までがボーボーに生えていたら、やはり社会は彼を「大人」として扱います。可愛がりの対象たる「幼さ」がないため、上記の「定義」から外れるからです。  「二つの力が同時に作用するもの」として「定義」されるのが近代における「子ども」です。  本田和子さんは、このような子ども、および近代家族は、「二律背反に引き裂かれている」と指摘しています。  というのは、まず子どもから見ると、一方では「おまえの幼さ・未熟さがかわいい(だからいつまでもそのままで)」と言われ、しかし他方では「おまえの幼さ・未熟さは乗り越えていかなければならない(早く大人になろうね)」と言われる、というように、相矛盾して両立しえないはずの態度が同時に向けられているからです。反対に家族の方から見ると、「子どもの幼さ・未熟さを愛し慈しめ」という命令と、「その幼さ・未熟さを排除せよ」という命令とが、これまた同時に与えられているのです。  さて、ここまでが「近代子ども論」のサマライズです。これに照らして「発達心理学」を見ます。  実は問題があるのです。発達心理学には。  まず一つには、「発達心理学」と一言で言ってもさまざまで、ヴェルナーやクリューガーやヴントなど、鮮明に立場を異にする人たちがそれぞれに「発達心理学」を名乗り、その全体を統括する作業がいまだに終わっていないことがあります。これにも理由があります。いずれについても、「心が低い段階から高い段階へ発達していく過程を時系列に沿って整理し、その法則性を発見・記述する」という目的は同じです。が、問題は「何を以って発達と見なすか」です。当然、「発達」には価値判断が伴うわけです。そして、その価値判断は時代により、地域により、つまり文化によって左右されてきます。言い換えれば、「人間」という種のレベルで客観的・科学的には扱えないのです。この「文化的要素」をどう捉え、整理するかによって、さまざまな発達心理学が分化してしまっています。  これは、この心理学が「発達」という課題を背負ってしまったがために、必然的に価値判断の問題に足を絡め取られることとなり、文化も考慮せざるをえず、したがって自然科学的方法だけでは完結し得ない結果になった、ということです。ブレイクスルー…あるかもしれませんが、そうなると発達心理学は、もはや「客観的自然科学の一分野」とは言えなくなっているでしょう。ご指摘のとおり、「人間を自然科学的に捉えようとする場合、必ず問題になる部分」に関わっているからです。  それからもう一点。前述の「子ども論」に照らせばこちらの方が重要です。それは「発達心理学は教育心理学である」という点です。さっき述べましたように、発達心理学にはさまざまなものがあります。しかし、やはりもっとも一般的なのは「児童心理学」ないし「教育心理学」としての発達心理学です。…これは、大学の教員養成課程では必ず設置されている講座です。つまり「教育を目的とした」心理学ということです。  すると、この心理学は「子どもと定義されるもの」に対して働く力の一つ、「幼さ・未熟さを排除する力」を代表するものにほかならないことが見て取れるでしょう。ですから、こういうことが言えます。すなわち、「発達心理学は、《子ども》というものの全体像を捉えるための窓としては小さすぎる」と。先の「文化的要素を抱え込まざるをえなかった」という点とも連動して、「物語を自然科学的に検証する」のが苦しくなるのは当然のことです。  そしてまた同時に言えることは、発達心理学が前提にしているのが「生身の子ども」ではなくて「近代に成立したカテゴリーとしての子ども」である、ということです。発達心理学自体がそのカテゴリーを定義する力の一つなのですから、これも当然のことです。循環するトートロジーがここに生じます。自らがその力の一つとなって定義されるカテゴリーを、前提となる「子ども像」に据えているという…。これは、「文化的に定義される《大人なるもの》へ向かって発達・成長していく子ども」という課題を持つがゆえに必然的に背負わざるをえない困難です。  ブレイクスルー…難しいと思います。どうしても自然科学的手法の枠内で完結できるものとは思えません。  「近代的文化事象としての子ども」とは、「二つの力が作る渦巻きとして生じる、実体のないもの」です。ここでの「子ども」は、それ自体として自立的に「ある」と言えるものではなく、二つの力によって「あらしめられている」ものです。実体ではなく、仮構です。でも、子どもって「います」よね。近代以前は「発見」されていなかったとしても、そして近代以降は「仮構」としてしか見えなくなってしまっているとしても。  これは中村雄二郎が述べていることですが、子どもを「独自の存在」と認め(つまり大人へと発達していくものとしてではなく)、その全体像から眺める方が適切であるように思います。「純真無垢であると同時に、荒ぶる神として善悪の彼岸に立つ存在」として。  そして子どもの内的「物語」もまた、そうした子どもが「生の世界」とぶつかり合う中で自分の言語体系を耕し、組織化していく主体的な営みと考えたく思います。「子どもから大人へ」という一本の線を引いてしまうと見えなくなる「物語」があるはずです。そうした物語をこそ、見なければならないのではないでしょうか。『絵本の心理学』も、そうした物語を掬い取ろうとする努力なのだろうと思います。が、やはり発達心理学の枠組みを保つかぎりは、限界を持つもののように感じられます。  さて、少々長くなりました。(「少々」か?>おれ)  「自己了解のための物語」は稿を改めます。 men

motsuan
質問者

お礼

serpent-owlさんこんにちは、そして、どうもありがとうございます。 いろいろ教えていただいて、それに追いつけないのが申し訳ないのですが、皆さんからの示唆を杖によちよちと進んでいこうと思ってます。  serpent-owlさんのおっしゃるように近代になって共同体の枠の外の存在であった子供が、「発見」されたというのは、私にはある意味、共同体の中での大人(人間)が当然あるべき姿以外の部分を持つものとして共同体の中で充分に認識されるようになったことの裏返しのように見えます(それまで、共同体の中に埋め込まれてきた人間の内面にある「荒ぶる神」が、カーペットの下に掃き寄せられたごみのように、(すべての文化の最大公約数としての)矛盾のない完結した社会と引き換えに個人の所有物として認識されるようになったということなのでしょうか)。そして、大人の当然あるべき姿以外の部分の記述は、発見された「子供」を記述するための方法論とあまり変わらないのではないかと思うのです。私たちは完結した社会と自分の中の矛盾を各人の責任の範囲として解決しなくてはならなくなったのではないのでしょうか?そして、共同体の中の物語としてではなく、個別化された物語ってなんなのだろう?その物語の構造主義的な、あるいは還元主義的な理解が、再び共同体の問題として、個人の内面にある「荒ぶる神」を引き戻すことになるのか?というのが私の問題の伏線のひとつなのだと思います(その方法論が必ずしも正しいとは思わないのですが、共同体の問題に引き戻せるような気がしてくるところがおもしろいのかなと思います)。ある人は「無意識」という言葉を使い、「利己的な遺伝子」(本能)という言葉で説明しようとする人もいるかも知れません。でも、それは(現代社会が引き起こした)矛盾する自己を、新たな概念をつくり、矛盾しない体系の中に組み込もうとする試み(矛盾のない完結した社会の言語体系への還元)にしか過ぎないのではないかと思うのです。つまり、カーペットの下に掃き寄せているに過ぎないのではないのでしょうか?  かと言って自費出版の自伝のようなものを全員が作ればそれが物語なのかというとまた違うような気がするんです。素朴な意味の物語が個人の「荒ぶる神」とどうかかわり、個人の矛盾を解決ではなく内包し、共同体の中に埋め込んでいくのかということなのかも知れません。その意味で、おそらく「絵本の心理学」に関しては現状子供の心理を記述するために手一杯で発達心理学としいままでできなかった子供の心の仕組みを語るまでには至っていない、あるいは方法論としてそういう結果をもたらすものでは無いのかも知れません。私はまだその方法論が語りたいこと(語れること)に挑戦していないような印象を受けて射ます。・・・私の単なる幻想なのかもしれません。自然科学的な手法が渾沌に目鼻をつけるような愚かしさをもっているのはわかるのですが、目鼻をつけられた渾沌がもがく姿を見極めて、そこから渾沌の姿が垣間見えるかも知れない!あるいは目鼻がないと分かった気がしないおろかな人間がもがく姿を鏡に映しただけなのかもしれませんが。 後半のお礼はまた別途させていただきます。

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