外国に住むという体験:言葉の深みと歴史を知る

このQ&Aのポイント
  • 外国に住むという体験は、言葉の重みと歴史を知ることにより、自分の存在の深さを洗いざらい感じることができる。
  • 言葉は単なる表面的な符牒ではなく、過去の歴史と生活体系の頂点が詰まったものであり、言葉を通じて他者を呼び、事物を指示することは、その言語圏の歴史を背負った体験となる。
  • 外国での体験を通じて、言葉の有用性だけでなく、言葉の深みや歴史を知り、自分の存在の実体を理解することができる。
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この文章の要約がどうしてもできません……

この文章の要約がどうしてもできません…… 長文で大変申し訳無いのですが、教えていただけると助かります💦  ここに一人の人間がいたとする。彼が自分の属している言語圏から出て全くことなった言語圏に入ってゆくとしたらどういう変化が生じるのだろうか。それは、移り住んだ言語圏の言葉を多少知っていて、それを組み合わせ、あやつりながら生活するという程度ではは終わらない。彼の用いる言葉の一つ一つが言語圏と表裏一体をなしている歴史と生活体系の総体に根ざしているのであり、その結果、一つの言語を発し、もしくは一つのセンテンスによって他者を呼び、あるいは事物を指示すること自体がその歴史を含んだ生活体系の中で否応なしに強いられる体験の一つにほかならず、したがって、異質な体験によって自分の存在の根のこまかな末端まで洗われざるをえないということになる。この場合、自分の存在は、鋭敏となった感覚とほとんど等価である。一つ一つの何気ないような日常的な体験さえもが存在の核心にひびいてくるのである。そのようであれば、自分が発する言葉の重みは、それが生まれた歴史の深みと生活を持って、自分がただ必要としたいその言葉の有用性を正確に背後からうちのめすのである。それを知っているのは観念ではなく感覚である。だから感覚は言葉が有用性のみで生きてはいないことを直接的に知らせてくれるのである。  私は、時おり、外国に住むということは、草木が移植される状態に似ているように思う。つまり有機的な感覚体験が存在全体をゆりうごかすということである。新しい土壌に存在のこまかな根の先が、おののきながら極端に微細な感覚と化してはいりこんでゆくのである。その場合、言葉を用いるということは、よきしにしろあしきにしろもっとも確実な手ごたえを与えてくれる。  森有正の言い方にしたがえば「犬(いぬ)」は「犬(シャン)」とちがうのだという意味において、指示された視覚的には同一に見える事物や存在が言語圏の相違によって全くちがったものになるということである。その上、用いられた言葉は、たとえ日常的な些細な買い物であっても表面的な有用性において生きたのであってリアリティがあるわけではない。さながら符牒のような役割を果たしたにすぎない。そのように考えてみると、われわれは単純な言葉の背後にあるはかり知れない深みをあらためて気づかずにはいられない。言葉は幾層となく積み重なった過去のそれ自体の歴史と、その言語圏の生活体系の頂点に露呈しているのだということを感ずるのである。  このような体験は同時に次のようなことを示してくれる。つまり、その単純な言葉の深みを知るということが、逆に知覚したこの「私」なるものの実体をほとんど等価にあらわしてくれるということを。言いかえれば「私」とは遥かな歴史の集積の上に露呈し、個性という名辞で呼ばれた一つの輪郭をもつ存在にすぎないということである。「私」のなかに流れこんでいる「私」の住んでいた言語圏の歴史や生活体系の一切がこの「私」においてあらわれているという意味においての「私」なのだ。「私」とは無限に複数の「私」の前に生きた、そして「私」とともに生きている存在たちの集約としての「私」なのである。「私」は話している。そのことは同時に無限に複数の、通常的な「私」と共時的な「私」によって話されているのである。リルケルは『初期詩集』のなかで次のように歌っていた。   ぼくはひとりだったためしはない。   ぼくより前に生きて、   ぼくより先に別れてゆこうとした人々も、   ぼくという存在のなかに   生きていたのだ。………   ぼくには空間が必要なのだ、   一族全部が生きるに足りるほどの空間が。  このとき「私」という一つの名前を持ち、一つの顔立ちをした片々たる個性というものに何ほどの意味があるだろうか。われわれが外国に住んで見出す最初のものは、外の世界よりも実はこのような「私」ではないだろうか。しかし、もしこうした「私」を見出したならば、その「私」とは、たとえいかに矮小な存在ではあっても、外国のことなった言語圏の歴史とその生活体系の総体に優に匹敵しているのであり、拮抗している存在だ、とも言うことができるのである。われわれはこのようにして、外国の体験の一つ一つがわれわれの内部を掘り下げ、一個の「私」を突きぬけてかぎりなく字間の彼方にひろがる世界を開示してくれるのだということを理解する。「私」とは一個の「私」である以上に「私」の属する言語圏の歴史や生活体系そのものであり、伝統であるとも言うことができる。換言すれば「私」はヨーロッパならヨーロッパの内部に入りこんでゆくことができる。そしてこの行為が、あらためて、はじめてのように見出された「私」の内部に下降するようにと促すのである。

みんなの回答

noname#232424
noname#232424
回答No.3

ん~,ぼくはあなたの「草稿」をまず示せと答えましたが,手も足もでないのでしょうか。これだけ大量の書写をして空振りではかわいそうなので,ぼくの試案を書いておきましょう。 「私」とは一個の「私」である以上に「私」の属する言語圏の歴史や生活体系そのものであり、伝統である。もし「私」が外国で暮らせば,単に用件を外国語に翻訳するにとどまらず,「私」の国の歴史や生活体系とその国のそれらとが衝突しつつ,かつ「私」とは何かについて隅々まで鋭く掘り下げさげることとなる。そのとき「私」の感覚は,言葉は有用性のみでは生きてはいないことに気づくとともに,「私」とは伝統が個の形をとっているにすぎないことに気づく。 (213文字) じつはぼくは,著者の同業者として,こういう答案を採点する側にあります。人によって書き方はいろいろありえますが,まあ,合格最低点はもらえる(つける)んじゃないですか。ただし,ぼくは大学・大学院は理学系ですので,結論先行型で簡素な文体をとっています。 もし手も足もでなかった問題なら,志望校の水準をさげるほうがいいです。昔風の「コテコテ」の課題文なんか,受験生に読ませるのを諦めている大学に。

noname#232424
noname#232424
回答No.2

ご返事ありがとうございます。 フランス文学者・評論家でしたか。たぶん文学系の古株で,チンピラじゃないとは思いました。もって回ったいいまわしは,フランス系でしょう(大江も仏文学専攻)。その意味では,著者自身が「日本語圏の歴史や生活体系」から乖離している 笑。 あなたの質問には,「何字で要約するか」の情報がありませんね。もし問題が「もっとも内容を表している1文を抜き出せ」なら,ぼくの前の回答のままです。句読点・記号をふくめて59文字あります。 大学入試問題(たぶん関関同立水準いじょう)なら,200字くらいでしょうか。あなたの「草稿」をこの「補足」で示してもらえば,ぼく以外のもっと親切な回答者が添削してくれると思います。

pooo04
質問者

補足

すみませんでした。 200~300での要約です

noname#232424
noname#232424
回答No.1

こういう問題を解くときの鉄則を,授業で習いませんでしたか? いわく,最後に「肝」がある。この文章では: 「私」とは一個の「私」である以上に「私」の属する言語圏の歴史や生活体系そのものであり、伝統であるとも言うことができる。 これをドタマに入れたうえで,もういちど最初から読んでみてください。ごちゃごちゃ書いてあることが,わかりやすくなると思います。 ところで,ぜんぶ書き写したんですか? 無理しましたね。また,この著者が課題文の最後に注記してあれば,教えてください。大江健三郎クラスでしょ?

pooo04
質問者

補足

写真だと見にくいかと思ったので… 著者は「饗庭孝男」で作品名は「想像力の考古学」です!

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  • この文章の要約がどうしてもできません……

    この文章の要約がどうしてもできません…… みなさんだったら、どのように要約しますか? できるだけ、本文をそのまま使う形でお願いします💦  ここに一人の人間がいたとする。彼が自分の属している言語圏から出て全くことなった言語圏に入ってゆくとしたらどういう変化が生じるのだろうか。それは、移り住んだ言語圏の言葉を多少知っていて、それを組み合わせ、あやつりながら生活するという程度ではは終わらない。彼の用いる言葉の一つ一つが言語圏と表裏一体をなしている歴史と生活体系の総体に根ざしているのであり、その結果、一つの言語を発し、もしくは一つのセンテンスによって他者を呼び、あるいは事物を指示すること自体がその歴史を含んだ生活体系の中で否応なしに強いられる体験の一つにほかならず、したがって、異質な体験によって自分の存在の根のこまかな末端まで洗われざるをえないということになる。この場合、自分の存在は、鋭敏となった感覚とほとんど等価である。一つ一つの何気ないような日常的な体験さえもが存在の核心にひびいてくるのである。そのようであれば、自分が発する言葉の重みは、それが生まれた歴史の深みと生活を持って、自分がただ必要としたいその言葉の有用性を正確に背後からうちのめすのである。それを知っているのは観念ではなく感覚である。だから感覚は言葉が有用性のみで生きてはいないことを直接的に知らせてくれるのである。  私は、時おり、外国に住むということは、草木が移植される状態に似ているように思う。つまり有機的な感覚体験が存在全体をゆりうごかすということである。新しい土壌に存在のこまかな根の先が、おののきながら極端に微細な感覚と化してはいりこんでゆくのである。その場合、言葉を用いるということは、よきしにしろあしきにしろもっとも確実な手ごたえを与えてくれる。  森有正の言い方にしたがえば「犬(いぬ)」は「犬(シャン)」とちがうのだという意味において、指示された視覚的には同一に見える事物や存在が言語圏の相違によって全くちがったものになるということである。その上、用いられた言葉は、たとえ日常的な些細な買い物であっても表面的な有用性において生きたのであってリアリティがあるわけではない。さながら符牒のような役割を果たしたにすぎない。そのように考えてみると、われわれは単純な言葉の背後にあるはかり知れない深みをあらためて気づかずにはいられない。言葉は幾層となく積み重なった過去のそれ自体の歴史と、その言語圏の生活体系の頂点に露呈しているのだということを感ずるのである。  このような体験は同時に次のようなことを示してくれる。つまり、その単純な言葉の深みを知るということが、逆に知覚したこの「私」なるものの実体をほとんど等価にあらわしてくれるということを。言いかえれば「私」とは遥かな歴史の集積の上に露呈し、個性という名辞で呼ばれた一つの輪郭をもつ存在にすぎないということである。「私」のなかに流れこんでいる「私」の住んでいた言語圏の歴史や生活体系の一切がこの「私」においてあらわれているという意味においての「私」なのだ。「私」とは無限に複数の「私」の前に生きた、そして「私」とともに生きている存在たちの集約としての「私」なのである。「私」は話している。そのことは同時に無限に複数の、通常的な「私」と共時的な「私」によって話されているのである。リルケルは『初期詩集』のなかで次のように歌っていた。   ぼくはひとりだったためしはない。   ぼくより前に生きて、   ぼくより先に別れてゆこうとした人々も、   ぼくという存在のなかに   生きていたのだ。………   ぼくには空間が必要なのだ、   一族全部が生きるに足りるほどの空間が。  このとき「私」という一つの名前を持ち、一つの顔立ちをした片々たる個性というものに何ほどの意味があるだろうか。われわれが外国に住んで見出す最初のものは、外の世界よりも実はこのような「私」ではないだろうか。しかし、もしこうした「私」を見出したならば、その「私」とは、たとえいかに矮小な存在ではあっても、外国のことなった言語圏の歴史とその生活体系の総体に優に匹敵しているのであり、拮抗している存在だ、とも言うことができるのである。われわれはこのようにして、外国の体験の一つ一つがわれわれの内部を掘り下げ、一個の「私」を突きぬけてかぎりなく字間の彼方にひろがる世界を開示してくれるのだということを理解する。「私」とは一個の「私」である以上に「私」の属する言語圏の歴史や生活体系そのものであり、伝統であるとも言うことができる。換言すれば「私」はヨーロッパならヨーロッパの内部に入りこんでゆくことができる。そしてこの行為が、あらためて、はじめてのように見出された「私」の内部に下降するようにと促すのである。 饗庭孝男「想像力の考古学」

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    学校の宿題で、『言葉という装置』という文章を要約する宿題が出ました。 自分なりに要約してみたのですが、あと50字前後短くしたいんです。 もとの文章がないため答えにくいとは思いますが、削れる部分を教えてくださるとありがたいです。 *.....*.....*.....*.....*.....*.....*.....*.....*.....*.... わたしたちは、日常生活で言葉をそれとして意識することはめったにない。「ことば」そのものを意識するときがあるとすれば、それは不慣れな外国語を話そうというときであろう。このような意識と言葉の関係は、身体と道具の関係にたとえられる。わたしたちは、職人や演奏家が道具を思いのままにあやつる姿を見て賛嘆する。このとき道具は人間の身体の延長として身体性を獲得している。言葉を話すようになるのも、言葉を身体化しているからである。それに対して、外国語はことばそのものの存在をわたしたちに意識させる。「装置」はわたしたちが身体化できない外部の力でありつづける。道具はわたしたちを解放するが、装置はわたしたちを拘束する。 *.....*.....*.....*.....*.....*.....*.....*.....*.....*....

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