• ベストアンサー

子供と大人の差異がもっともあること

心理的に、子供と大人の差異が最も広がっていることはなんでしょうか? もちろん個々人さまざまですが、大きくまとめてしまって、総体として考えるとして、どういうことがいえるか、大人になったその人間はどういう価値を持っているのかという感じです。 私個人的には、大人と子供のもっとも大きな差異は、「人間がよくわかってくる」というところにあるのではないかと。子供には、それらを要求される駆け引き交渉はできませんよね。学力ならそこそこ同程度のものが獲得できる気もしますが、この「人間的」な認識の醸成には、まさに「醸成」されるしかないものなんじゃないかと考えますが、どうなんでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • hyakkinman
  • ベストアンサー率16% (738/4428)
回答No.1

「欲望」に勝てる「理性」が、身についていること。 「他者への思いやり」などの、「人間力」が、身についていること。 が、「大人の条件」かと思うのですが・・・。 やはり、「経験」や「他者とのふれあい」による「心の醸成」が、必要であると考えます。 今の、「記憶力だけを競う教育体制」では、「大人」は作れないような気がします。 「醸成」させるのは、私たち「大人」の役目のはずなのですが・・・ 人を育てられない「おこちゃま大人」が、増えてしまった気がします。

garcon2000
質問者

お礼

そうですね。やはり、茨の道とか鍛錬とか、通過しないでなんとなく大きく老けちまったやつが多いんでしょうね。

その他の回答 (5)

  • ucok
  • ベストアンサー率37% (4288/11421)
回答No.6

#2ですがお礼を拝見しました。そうですね。特に#2欄の回答と矛盾はしていないと思います。余談ですが、ここは議論の場ではないので、お礼欄の使い方に注意しないと、せいかくのご質問が削除されかねません。

  • harepanda
  • ベストアンサー率30% (760/2474)
回答No.5

子供のほうが先入観にとらわれず、自由に発想することだと思います。 ますます必要とされる知識レベルが向上し、産業や学問の細分化が進んでいる中では、大人が子供の時と同じように、偏見にとらわれず公平に物事を判断することは難しくなっていきます。 哲学者のヘーゲルは、だいたい、こんなことを言っています。 「理性的なもの、それは現実に有効なものであり、現実に有効なもの、それは理性的なものである。あらゆる哲学は、(偏見に)とらわれない意識と同じで、この確信から出発する」。 ひらったくいうと、「理論と現実は必ず一致する。理論と現実は違うなどという人は、偏見にとらわれているだけだ」。 私の生きていくうえでのモットーのひとつです。残念ながら、マルクス主義者がこの文章の意味を、思いっきり勘違いしており、「へーゲルは現実の誤った国家を理想視した保守反動だ」という誤解をばらまいてしまったのですが。

garcon2000
質問者

お礼

発想する大人も子供もいるし、発想しないのもまた然りだと思いますね。年齢によるものではないのでは。確かに、偏見というものからは自由かもしれませんが、発想となるとまた話は違う。

noname#78753
noname#78753
回答No.4

「心理学的に」ということでしたら、ピアジェの発達理論の中であげられている「保存の概念」の有無と、「抽象的思考」の可能不可能だと思います。 ピアジェの理論は、心理をやる上で一番はじめに習う初歩的な理論ですが、「子どもと大人は根本的に世界の認知の仕方が生物として違う」ということを教えてくれるおもしろい理論だと思います。 もうご存知かもしれませんし、私の拙い説明で誤解を生むと申し訳ないので、詳しい説明は控えさせていただきますが…(ご存知でないなら「ピアジェ」や「発達心理学」で調べていただければすぐに詳しい資料があると思います。とくに初歩的な「発達心理学」の本は、大人と子どもの違いを、いろんな理論の立場から説明してあるのでわかりやすいと思います)。 参考になれば幸いです☆

garcon2000
質問者

お礼

よくわかりません。解説していただかないと。

  • nisekant
  • ベストアンサー率11% (13/112)
回答No.3

回答ではありません かなり怒りを覚えたので……大人は人間を分かっていません。

garcon2000
質問者

お礼

子供も大人をわかっていません。

  • ucok
  • ベストアンサー率37% (4288/11421)
回答No.2

子供のほうが総じて直観力に優れていると思います。大人より思春期、思春期より幼児、幼児より赤ちゃんのほうが、感覚だけで物事を敏感に感じ取る傾向があると思います。例えば、赤ちゃんがワケもなく泣いていると、実は周囲の人の不安を感じ取っていたりするし、中高生が教師や親の誠実さを感じ取る力もすごいです。動物的とでもいいましょうか。 一方で、大人になればなるほど、いわゆる空気を読めるようになってくると思います。それまでは直感にしたがって泣いたり叫んだりしていたのを、「ここは叫ぶところではないな」とか「泣くとマズイ自体になりそうだな」というのが経験からもわかってくるし、感覚的にも研ぎ澄まされてきて、それと同時に自分をコントロールできるようになるので、理性ある行動に結びついていくのだと思います。 「人間がよくわかってくる」というのも否定しません。それまでは勘だけで人を判断していたのが、経験や理性から判断できるようになります。ただ、一方でそれは「偏見」と紙一重にもなってきます。つまり、自分の経験値に驕ってしまい、相手の表面だけを見て、本質を見ようとしなくなるのです。中高年に近づけば近づくほど「偏見」は強くなりがちですよね。なので、今度は、大人として意識的に、自分の偏見をコントロールしていく必要が出てきます。面白いことに、老人の域に達すると、偏見が消えていく人が私の周りでは多いです。赤ちゃん返りなのか、それとも社会的責任が減る分、身構えなくて済むようになるのか??

garcon2000
質問者

お礼

そうでしょうか?そんなに大人の直感は鈍りますか。直感と多忙はまた違うのではないでしょうか。誠実を感じ取る力、それはいつの年代にもあるような気がします。その処理量が多くなってしまうので、反応時間がかかってしまうだけではないでしょうかね。空気を読むということと、直感に優れるということは、かなり連動していると思いますね。もちろんほめられたことじゃないです(付和雷同は特に) 老人になると、処理量が少なくなっていくから、あるいは、処理するのに用いる選択肢を少なくしていくから素直になれるように見えるだけではないでしょうか?

関連するQ&A

  • 「大人っぽいね」と言われるのが辛い

    大学生です 長文ですが、相談に乗っていただければ幸いです。 子供の頃から親族や周囲の大人たちに「大人っぽいね」「落ち着いているね」と言われ、その度にその人の前では、相手に喜ばれる・褒められる態度を取ってきました。そうして行動しているうちに、同年代との付き合いが苦手になり、高校も耐えられず中退し、常に年上の人間がいる環境にのみ居場所を求めてきました。こうすれば褒められるという態度がなんとなくわかるので、居心地が良かったからです。 しかしこういった生活を続けてきたせいか、自分の悩み(弱いところ)を相談することができません。なんというか、自分は周りから完璧さを求められていて、それができない(弱い・不完全)自分は価値がないと見なされるのではないかという恐れがあります。とは言え、学校を中退する時などに意を決して話してみたものの、「君は同年代より大人っぽいから、馴染めないんだろうね」とか、「君なら大丈夫だと思うよ」と言われます。 そして20歳を過ぎた今、高校と同様に大学に馴染めず、引きこもりになりかけながらも学校に通っています。そこでどうにも出来ず、今まで通り知人に相談したら、「もう子供じゃないんだから」とか、「もう大人なんだから、ある程度の我慢や立ち回り方を覚えないと」と言われます。 もう訳がわかりません。成人前は「大人っぽいから大丈夫だよ(自分で解決できるよ)」といわれ、成人したら「大人なんだから自分でやれ」といわれます。大人っぽいってなんですか。大人ってなんですか。自分は大人も子供もなく普通に生きていたのに、まるで模範のように生きなければならないかのように言われます。 今現在自分にわかるのは、僕の思っていた(彼らの言ってきた)大人とは、冷静に問題を対処できることではなく、単に人の顔色を伺うのが上手いだけの人間だということです。「大人っぽいから」と弱みを見せることを許されず、「大人だから」と弱みを見せることを許されず、もうどうすればいいかわかりません。ちなみに親も兄弟も「お前なら大丈夫だよ」とか「最悪大学辞めちゃえば」とか、全然話を聞いてくれません。 カウンセラーに相談しても、ただ自分の悩みや鬱憤を肯定してくれるだけで、ネットに書いてあるような安易な解決策を2.3提示してくるだけ。もう誰にどう相談すればいいか分からず、こちらに書き込みました。自分の弱さをそのまま受け入れてほしい、理解してほしい時はどうすればいいのでしょうか。甘えなのは重々承知しています。だけどもう周りの誰も信用することができず、どうすればいいかわかりません。

  • 大人と子供の混じった自分の在り方。

    19歳女です。 私は何か目標があればそれに向かって全力で頑張れるタイプです。 例えばテストの点数で80点以上取る。そのような具体的な結果が目標だと 何が何でも粘って勝ち取るまで諦めないです。 その反面、ゴール後はそこを終着点として落ち着いてしまい、どのように どこへ向かって頑張ればいいのか分からず途方に暮れます。 勉学中心に予定や計画立て、基本何事もそうなってしまいがちです。 一度やる!と決めたらあとは一直線。しかしその一度やる、というのに踏み出せない。 私は兄弟で末っ子として育ちました。 頼る事もキライじゃなく、お世話はされる方が好きで甘える事も好きです。 その分だれてしまいがちなのがネックですが。(返事を曖昧に返して、断るのが苦手です) 親に大切に育てられたなあ、とは大人になるにつれてひしひしと感じます。 とてもありがたいです。 しかし自立心というものでしょうか、冒険もしたくなります。 例えば周りの人は夜通しで遊んだり友達同士で旅行行ったり アルバイトを入れて予定をぎゅうぎゅうにして疲れてても楽しそうです。 深夜徘徊は危ない、若者の運転は危険だ、自分の予定の融通が利かないバイトなんかしなくていい。 正論です。子供っぽいかもしれません。気付いてます。 でも…良いな、私もしてみたい。という気持ちがあります。 大人の心は「なんだ、痛い目に遭いたいのか。悪い事故にでも巻き込まれて周りの人に迷惑を掛けたくないならするな。」と叫び 子供の心は「いつまでも暖かい巣に居ては外の世界が見えない。新鮮な空気を、景色を、今までの価値観をひっくり返すようなものを観に行きたい」と駄々捏ねるのが胸の中で対立しています。 質問は、この気持ちの矛盾に決着をつけたいのです。どうすればいいのでしょうか。 何度も自問自答しました。何度もしました。結局主観的なこの脳みそでは答えは出ませんでした。 今解決したい理由は、今までこんなことが何度もあったからです。 新しい習い事、サークル、初めて興味が出たけど挑戦するか迷う時…。 きっと納得のいく形を作らないと、これからもずっと 始めの一歩を踏み出せないまま 少しの甘えにかじりついて過ごしてしまうからです。 これは誰でも通る道なのでしょうか。これから成人を迎える年になったというのに 二十歳になっても何ら変わらない子供が大人になったまんまになってしまいます。 詰まる話、危ない事なのか、いけない事なのか、そもそも人それぞれの価値観だからこそ 自分の思った通りの決断の道を進むのか、だからこそ親の価値観を尊重して自分を抑え込むのか。 どうすればいいとか答えが無いものなのかもしれませんが、 どうかご自身の思う"答え"や想いを教えてください。 そして、大人と子供の狭間に今突っ立っている自分だからこそ ひとつ気が付いたことがあります。 有名な言葉、少年よ大志を抱け。と言われるように いわゆる世間の"大人"達は子供たちに「夢を描いて。夢をかなえてね」 と将来への希望を膨らまさせます。 そう膨らます割には、少し大きくなった子供の夢は 現実的に考えてみたら…ピアニストの夢はちょっと難しいかもね。 沢山勉強しなきゃいけないんだよ。大変なんだよ。挙句の果てには 「その夢を諦めなさい」と言われる人も少なくないと思います。 子供の”夢”も”期待”も膨らますだけふくらませておいて 困った顔してちょっと無理なんじゃないとさらっと言ってその風船を割るのは 何故でしょうか。 どうせ壊される夢なら与えなければいいと思います。 何度も傷つきながら、何故人間は少しの可能性に、期待に希望を寄せてしまうのでしょうか。 今まで何度も小さな期待をしてきました。明日は授業参観来てくれるかな。今度の休日一緒に出掛けられるの楽しみだな。 そして案の定 仕事が入った、色々やる事あるしあなたも宿題あるんじゃないの…。 小さな期待は大人の2秒の言葉で儚く砕けます。いっぱい希望が潰されてしまっては どうしようもないやるせなさに襲われ、子供はべそべそ泣いて…の繰り返し。 私はまだ子供の時間の方が長い人生です。大人の心情が分からないからこんな意見しか言えません。 しかしこれで本当に良いのか?流す意味のある涙やそっと一人でしまい込む諦めの気持ちなのか? 分からない。 特に暗いニュースばかり流されるこのご時世、これからの私たちは何をすればいいのか。 かっこいい人たちの背中がたくさんみたいです。 (これも甘えでしょうかね…じゃあお前がなれ!と言うがなり声が聞こえてきます) 考え出したら止まらない事ばかりです。頭の中がぐちゃぐちゃにもつれていきます。 こちらも答えがあるとは思えませんので この話はあくまでご自身の”意見”を教えてください。 みなさんがどんな考えを持っているのか知りたいです。 まとまらない気持ちで書いてしまったので感傷的でままなっていない文章もあると思いますが、 お時間あるときに どうぞよろしくお願いします。

  • 子供は同じ事を何度やってもあきない仕組みについて

    お世話になっております。 子どもと大人の心理について気になる事があったため、質問させて下さい。 【質問内容】 どのような理由で、子どもは何度同じ事(行動)をやってもあきないのに対し、大人だと逆にあきてしまうのでしょうか?(可能であれば、どの心理学に該当しているかを併せて教えて頂けると有難いです) 私の考えですと「経験」「価値観」「性格」「周りの環境」への関わりや、その物事に対する欲求・快感が関係しているのではないかと思いました。 以上、御回答よろしくお願い申し上げます。

  • 道徳心がないのは大人の責任。

    はじめまして。  先日何かのテレビで、『10代の人間は道徳心がない』みたいなテーマで、10代と思われる人たちが討論をしていました。  その番組を最後まで見ていないので、どういう結末にたどり着いたのか分からないのですが、それを見ていてちょっと思ったことがあります。  10代とかいうくくり方をすること自体かなり乱暴なことだと思うのですが、若い人たちに道徳心がないというのは半分以上は大人の責任だと思います。  何を持って『道徳心がある・ない』を判断するのかは難しいところですが、礼儀や作法ができていないと嘆く前に自分たちと同世代の人たちを見てください。  「われわれの世代はきっちりできている」といえる世代がありますか。  道徳心というか、風紀や、マナーといったものは国によって違うようにもともと本能的に人間が備えているものではないはずです。  子供たちは大人がやっている行動を見て、『あれはやってもよい。これはやってはいけない』と学んでいくものだと思います。    習慣なんて別に変わってもなんとも思いませんが、いつまでたっても変わってはいけないものってたくさんあるはずです。それを変えてしまったのは、そういう風な意図をしたものではないとしても、大人たちだと思います。  だから、『今の子達は』と眉をひそめる行動は絶対に間違っていると思うのですが、どうでしょうか。いろいろな意見を聞かせてほしいです。お願いします。

  • 大人の女性について

    今年で27歳になるのですが、外見も中身もとても子供で年相応に見られず悩んでいます。 先日10歳年上の異性の友人から注意を受けました。 『考え方が甘過ぎるし、中身も子供過ぎる』と。 私は女性としてと言うよりも、人間的にぶりっこをしてしまう部分や意識的にアホなふり、出来ないふりをしてしまう部分があり以前から改めなくてはと考えていました。 具体的な言動、行動を言うとキャピキャピしていて語尾が上がる、『わーい』と言う言葉を使ったり、嬉しい時に跳び跳ねたりです。 それ故友人からは『俺は○○がどう言う子なのか分かってるけど、もし初対面の人が○○の言動、行動を見て俺に「あの人ってちょっとバカっぽいですよね」って言って来たら、納得してしまう部分がある。』『悪く言えばチャラい。軽く見えるし、真剣な話をしてもちゃんと分かってるのかって不信になる。』と言われ、凄くショックでした。 改めなくてはと思いつつ改善されてこなかったのは自分への甘さもありますが、それが私の色であり良さであり、長所なのだと思っていた事や、そうじゃない自分には価値がない好かれないのではと思っていた事、関わる人間全てに対して上記に書いたような言動、行動を取るわけではなかったからです。 対等な友人の前などでテンションによってそうなるぐらい。 友人からの指摘を受けて、今は大人の女性になろう自分を変えようと努力しています。 ですがこれまでそうじゃないコミュニケーションの取り方しかして来なかったせいか、意識しているのですが中々上手くいきません。 取り敢えずキャピキャピしそうになったら黙るを心がけてみたのですが、『どうしたの?今日元気ないね?』と逆に心配されてしまいました。 考えれば考える程大人の女性とはどう言う人でどう立ち振る舞えば良いのか、自分がどう変わって行けばよいのか、また他人とどう接すれば良いのかもわからなくなってしまいました。 皆さんが思う大人で素敵な女性とはどう言う人ですか? こう言う質問をする事自体が子供で甘いと言われてしまえばそれまでですが、どなたかアドレス下されば幸いです。 (外見に関しては中身が変化すれば自然に変わって行くものと思っていますので、あまり気にしていません。)

  • 貧乏根性の親の感覚との差異

    貧乏根性の親の感覚との差異 33歳の未婚女性です。 私の家系はいろいろと複雑で父方の兄弟の系統は昔、借金の肩代わりをしてしまい、 いつも家庭内がギスギスした関係だったそうです。 父が母と結婚して私が産まれてからも父は毎晩のようにお酒を大量に飲み泥酔状態でした。 それは子供の頃から大人になるまで記憶にあります。 育った家庭が悪いと意思の弱い人はそれを受け継いでしまうのでしょうか? 親は何かと貧乏根性で贅沢はご法度、お金は使うべきものではないみたいなことを盛んに言っていました。 これは惨めだと思いませんか? 私は絶対こんな生活嫌だと思い、奨学金で大学に行き小企業ですが就職して実績を上げ役職にもなりました。 価値観を変えて環境も変えるって相当パワーと強い意志がないと出来ないですよね? 自分ではそれなりにやってきましたが努力を続けるのは大切だと思いませんか? 来年結婚するので今度産まれてくる子供のためにも絶対に不幸にはしたくないのです。 まだお腹に居るわけではありませんが、結婚したらすぐ子作りする予定なので・・

  • 人の失敗を嘲笑する人って居ますよね。特に子供に

    対して。 記憶にあるのは道路を横断するとき左右の確認をしっかりせずにクラクションを鳴らされて、戻ってしょげてたら他の車に乗ってる大人の男がずっと嘲笑してこちらを見続けてとても不快でした。 それに限らずそんな無神経な、そして子供の気持ちや人権を考えない人間の心理はなんなのでしょうか?

  • 小さい子供の泣き声

    小さい子供の泣き声に苛々しない他人なんているのでしょうか? その子の親・家族でさえも苛々しますよね? 街に出ると、泣き止まない子供に遭遇しますが、どうしてもイライラ~っとしてしまい、キレそうになるくらいで、何でだろう?ととても疑問に思ってしまいました。 子供は泣くことで言葉では上手く伝えられない要求を大人に察してもらおうとしているのですよね? でもそれが大半の大人、自分の親でさえも苛々させるのであれば、逆効果どころじゃなくて、自殺行為なんじゃないかなと。 いつまでも泣き止まないから殺してしまったという事件は後を絶ちませんし、首絞めようかと思ったりノイローゼになったりするのは親なら一度は必ずあるとも聞きます。 だったら子供は、泣くんじゃなくて別の方法で、周りが気持ちよく手を差し伸べたくなるような方法にすればいいのに・・・ 動物の育児って親がノイローゼになるほど大変ではないですよね? 人間の子供だけ、何故こんなに親や周りを追い詰めるようになっているのか、お子さんをお持ちの方などのお考えを聞いてみたいなと思いました・・

  • 子どもといることが楽しくない

    外国人の夫と結婚し、2歳半の女の子を海外で育てています。娘は健康で活発で元気に育ってくれていることだけでも感謝しなければならないと思っているのに、子どもと過ごす時間が楽しく思えず、自分の時間がないことに苦痛を感じ続ける自分に悩んでいます。 私は独身の頃からずっと仕事を持ち、今も週2回仕事を続けています。仕事が好きで、働いていると自分が有用な人間だと感じられ、また努力で結果が出せることにとても充実感を感じます。でも子育ては、当たり前ですが子供の要求に振り回されっぱなしで、しかも延々と同じことの繰り返し、また遊び相手になってもそれがどうしても私にはおもしろいとは思えず、すぐ上の空か苦痛顔になってしまうのです。 私は5歳まで幼稚園にも行かずに母親に育てられましたが、母親には本当に可愛がってもらって、今でも一生で一番楽しかったのはあの頃ではないかと思えるほどいい子ども時代を過ごしました。でも母親に言わせると私は大人っぽい子供で、子供っぽい遊びはあまりしたがらなかったので過ごしやすかったそうです。 幸せだった自分の子ども時代と、子供が苦手な私のような母親を持った娘の現在を比べてしまって、罪悪感でいっぱいです。でもずっと娘にまとわりつかれると窒息しそうになって、どうしようもありません。娘は幸い健康に育っていますが、時々寂しそうな顔をします。それに普通の子と比べて、異様に要求が多く、それも私が欲求不満にさせているのかもしれません。 私のような自己中心的な人間が、それでもなんとか娘のために今から変われること、そのためのアドバイスをいただけたら嬉しいです。よろしくお願いします。

  • 赤ちゃんと大人と動物

    こんにちはー。前回の続きみたいですが。 観察の結果なんですが、 赤ちゃんは何も考えてないし、自然のままに生きています。それは大人の悟りを開いた人と同レベルとおもいます。 赤ちゃんは無我夢中で生きています、常に全力投球です。でも大人で無我夢中になる人や、その時間ときたら、驚くほど短いです。全然無我夢中にならない人も多いです(ぼくのことです)自然のままに生きる=全力投球、という意味では、赤ちゃんは動物や覚者や信仰ある人と同レベルです。つまり、動物もレベル高いなーとぼくは感じます。 動物に癒されるのは、動物のほうが、上の意味で大人よりレベルが高いからです。ぼくが親戚の赤ちゃんに癒されるのも同じですねー。 ただ動物も赤ちゃんと同じで自覚がありません。つまり、良くないほうに流されるときに、自分でとめるということを知らない、という意味です。 赤ちゃんの自立が崩れるのは、愛されないことと人格を尊重されないことですが、それぞれ、女性性の不足と、男性性の不足、という風に対応している、と、これは、まだ想像ですが。赤ちゃんは自立している、というのと同じ意味で、赤ちゃんは完全性、「無」、赤ちゃんには感情がないし自分もない、とおもいます。(無我夢中の人は感情を感じる暇も自分を感じる暇もないことは経験上わかってもらえるでしょうか?、全力最高の集中をしているので、そんなものは入る余地がないのです)。 幸福が満ちているときは、感情も何も入れません。だからこその、赤ちゃん=天使、ではないでしょうか?なんか赤ちゃん赤ちゃんと馬鹿みたいですが、僕の考える指針になっているので。 大多数の大人は、赤ちゃんや動物よりレベルが低いですが、一部の人は、赤ちゃんや動物と同レベル、あるいはそれ以上だ、と感じます。それは、人間だけが、生命の中で非常に強い自由度を与えられているからだ、とおもいます。 それは、大脳の発達によって、感じたり考えたり、という自由を獲得した人間だけに許される自由度の大きさ、変化の度合いの大きさではないかと。つまり、人間は、赤ちゃん動物以下ーーいわゆる鬼畜、にもなれますし、赤ちゃん動物以上ーー悟りや神との共存、にもなりえます。この幅の広さは、まさに大脳の発達した人間だけに許されたものだなーとおもいませんか? 言い換えると、選択と認識が生むアイデンティティーの獲得が、やはり、動物にも赤ちゃんにもない、人だけが持つあるいは人間の大人だけが持つ唯一の特権じゃないかなとおもいます。つまり、成長の途中で獲得する、人格の分裂(本音と建前理想と現実など)を、自己同一化&自他同一化=客観視によって、自分の内面としてあるものから、観察対象として自分本体から切り離し、自分のものではないとする、人格への依存を自分から切り出して放棄する。そうしようと選択をする決意する。それによって、自己の人格と対応する世界を完全なものに変える。これらは、抽象的レベルでは、厳密ではないですが、赤ちゃんや動物の高いレベルに戻る、という言い方もできるとおもいます。キリストが言う、赤ちゃんのようでないと天国の門はくぐれない、あるいは、父母未生以前の本来の面目、というのはこちらの流れだとおもいます。ただ上に言ったように、赤ちゃんは完璧ではありません。自覚がない、という点においてです。神とともにいても、その自覚はありません。自覚がないので、いくら素敵なところにいてもそこからふらふら出て行ってしまう。赤ちゃんはアダムとイブです。 言い換えると、赤ちゃんは、未熟であり、同時に完成されている、という2重の性質を持ちます。大人は自覚により2次的な作り出した人格を対象化することによって、この世で生きる人格を生きるための道具として、新たに取り扱うことができるようになる、という過程は、ほかの動物にも赤ちゃんにもできるとは、とても思えません。これは自由と選択と自覚を許された人間だけが可能な、内面的作業だ、と感じるのですが、どうおもわれますか? だからこそ、赤ちゃんは天使ですが、悟りを開いた人や神を信じる人は、目覚めた人なんだ、とおもいます。ただの(?)天使の人と、天使のアイデンティティーを持つ人の違いです。赤ちゃんには生死がないですが、悟った人は、生死がないことを「知っています。」たぶん。 言い換えると、人はみな赤ちゃんとして愛を胸の中に持って生まれてきますが、生きてる間に、その愛を外部全体に対して告白して死ぬかどうかは、人しだいだなーとおもいます。つまり、赤ちゃんとお母さんを比べてみると、赤ちゃんは世界全体に対して愛を告白してますが、お母さんは残念ながら赤ちゃんに対してのみです。この違いは、赤ちゃんの自立が崩れる理由の一つです。お母さんだけじゃなく赤ちゃんに接するすべての人ですが。想像ですが。よろしくお願いします。