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キリスト教

処刑後のイエス・キリストの遺体を引取って墓に葬ってから、封印しローマ軍の番兵をつけたとありますが、その最初から最後までローマ軍の指揮下に行われたのでしょうか? アリマタヤのヨセフとニコデモが引き取ったという記述がありますが、遺体を墓まで運搬し、封印したのは彼らが単独でしたことなのでしょうか?

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回答No.3

まず、前提として当時のユダヤの情勢を知っておいて下さい。 紀元33年ころのエルサレムはローマ帝国の統治下にありました(属州の一部)。属州に住む者は属州税(軍務に服さない代わりに納める税金)をローマに納める必要がありました。その代わり、ローマの軍隊が駐留して治安を維持していたのです。(紀元前4年までは、ユダヤ全土はユダヤ王国としてローマの同盟国扱い~属国扱いとも言えますが~でした。自前の軍隊を持ち、税金も自国へ納めていました。しかし、ヘロデ大王の死と共にユダヤ王国は廃止され、属州となりました) 属州になると、原則として軍事権と司法権と徴税権はローマの物になります。しかし、幾つかの属州では伝統的慣習を重んじた方がローマの支配に益すると判断された場合に、一部限定で例外が認められるケースがありました。この頃、エルサレムでは宗教的自治権(司法=律法による宗教裁判、と徴税=神殿税の徴収)が認められていたのです。 しかし、死刑の執行権はローマから派遣されていたピラトが握っていました。 >>処刑後のイエス・キリスト(略)ローマ軍の指揮下に行われたのでしょうか? (支配者であるローマが公式に認めた)死刑が執行される場合には、ローマ軍(おそらくcenturion=小隊長、百卒長とか百人隊長と訳されます)が現場で指示していたでしょう。 この場合、ローマ皇帝に対する反逆罪として裁かれていますので、判決は死刑・逃亡されないようにローマ兵が現場を見張る、のは当然です。 死体を墓に収めた後に番兵を置いた、とは「マタイによる福音書」にのみある記述ですが(マタイ27章65~66節)、原文ではローマ兵ではなく墓の番人(英語の聖書ではguardかwatchmenと訳されています。ギリシャ語の聖書ではコーストディーア=見張りとなっています)です。 とは言え、マタイ28章12節では兵士と書かれています(しかし、もしローマ兵なら、天使が現れた後ピラトに真っ先に報告に行くはずですが、祭司たちに報告していますから、正規のローマ兵ではない可能性が高いと思いますが・・・) なので、死刑執行~終了(死亡確認)まではローマが、死体の処理に関してはユダヤ側が、といった流れだと思います。 >>アリマタヤのヨセフと(略)らが単独でしたことなのでしょうか? 十二弟子は裏切ったユダ以外は逃げて潜伏中、死んだばかりのイエスは表向きローマへの反逆者ですから周囲の人も冷淡でしたでしょう。とは言え、アリマタヤのヨセフは、金持ちで社会的地位もある、一言で言えば有力者でした。当然、召使を複数所有しておりますから自分で死体に触る事なく、他の助けを借りずに(=単独で)墓地まで運搬する事は容易だったと思われます。 墓の所有者はアリマタヤのヨセフですから、封印も彼か、彼と親しい祭司が行ったと想像されます。 ところで「アリマタヤ」はエルサレムから40Kmほど離れた場所にある「ユダヤ人の町」の名前です。(wikipediaには書いてありませんが、「ルカによる福音書」の23章51節に「ユダヤ人の町アリマタヤ」と書いてあります)アリマタヤのヨセフが議員になる為には、当然ユダヤ人(=ユダヤ教徒)でなくてはなりませんから、異教の女神の名が冠せられた名乗りでは異教徒扱いとなり、失格してしまいますし、ユダヤ人の町と書かれるのですから厳格にユダヤ教が信奉されていたでしょうね。 この回答を書くに際し、日本語の新共同訳聖書、英語のNew American Standard Bible、ギリシャ語のTischendorf 8th Editionの当該箇所を読み直しました。 ところで、「マタイによる福音書」は元々ユダヤ人に対して書かれています。ギリシャ語で書かれたのは当時の国際語がギリシャ語だったからで、あくまでもユダヤ人向けにユダヤ人が書いたものです。ですからユダヤの風習を知らない者が著者だとは考えにくいですね。 参考になれば幸いです。

kyudousha
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >イエスは表向きローマへの反逆者ですから周囲の人も冷淡でしたでしょう。 >墓の所有者はアリマタヤのヨセフですから、封印も彼か、彼と親しい祭司が行ったと想像されます。 >アリマタヤのヨセフが議員になる為には、当然ユダヤ人(=ユダヤ教徒)でなくてはなりません 以上のことを考えると、アリマタヤのヨセフは当時のユダヤ教徒としては相当型破りなことをした人物とういことになりますね。 こういった人物に「のみ」死体の処理をまかせた当時のユダヤの祭司、ローマ軍は非常な失策をやらかしたことにならないでしょうか。 私はイエス・キリストが本当に復活し、神であったのか、人為的に「神」となった洗脳教育を受けた偉大な教師(狂人)であったのかがここで分かれると思うのです。

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その他の回答 (9)

回答No.10

お礼拝見しました&No.8の補足も読みました。 No.8の補足にあった、サンヘドリンの禁止事項ですが・・・ サンヘドリンは神殿で開催されるのだとすれば、夜間は神殿の扉が閉ざされるので(1)、(2)、(6)は納得です。(5)はニコデモが、それに近い話をヨハネ7:51で語っていますのであり得そうです。(4)は手下を使えば訴える事が可能です。他の禁止事項には若干疑問がありますが、それらはその本を読んだ上で考えますね(質問者さんのご意見ではありませんからね) さて、No.9のお礼で質問者さんのお考えは分かりました。 >アリマタヤのヨセフとニコデモによる情報操作(隠蔽)を民衆(マグダラのマリアら)が「復活」と受け取って広まった なるほど、その推理にはかなり説得力があるかも知れません。 復活後のイエスのエピソードに、両人が全く出てこない(普通なら、お墓サンキュー、とか、香油どうも、とか言ってくれそうです)のも気にかかります。 ただ、復活した、という突拍子も無い事を、マグダラのマリアだけでなく弟子たちも信じるに足る、説得力のある何か(死体が無い、という消極的な物的証拠だけではなく、何かが在ったという積極的な証拠)が知りたい所です。それが無ければ、続々と殉教者が生まれないと思うのですよ。(事実、トマスは復活したイエスを見るまで信じない、と主張してます) これは私見ですが、噂(デマ)は、恐怖に基づくものは証拠を必要としませんが、希望に基づくものは証拠が無いと容易に広まらないと思います。何故なら、恐怖は危険に裏付けられますから、証拠を確認するような悠長な事をしては余計危ないからです。それに対し、希望の方は人間はぬか喜びしたくないので、確認したくなります。喜ぶのは後でも遅くないからです。福音は間違いなく希望に属するので、弟子たちも証拠を求めたのではないでしょうか?しかも確たる証拠を。 さて、長々と述べてしまいましたが、やはり別質問をお立てになる事をお勧めします。この質問は他の質問に埋もれ、哲学カテゴリーの最初のページに表示されないので、他の回答者さんの目に留まり難くなっています。ここを締め切らない限りは(お礼や補足で別の論点が示されれば)時間のある限りお付き合いしますが、広く意見をお求めになった方が、考えの幅は広がると思います。 >整理された内容を質問に転用させていただいて もちろん、結構ですよ。むしろ光栄な事です。他の質問者や回答者の意見から、新しい質問が生まれる知の連鎖は大歓迎です。 老婆心ながら、新質問のタイトルを「キリスト教」としないで下さいね。「イエス復活の真相は?」とか「アリマタヤのヨセフについて」などにしませんと、過去の質問と区別がつきませんので。 >(略)C.Sルイスが言っています ナルニア国物語で有名な、C.S.ルイスですね?「悪魔の手紙」という彼の作品を未読であれば、いつかお読みください。きっと楽しめます。 >(略)感銘を与えるものであると思います。どう思われますか? 何と言っても、二千年近い時を超えてイエスが語った言葉が残っているのは、その言葉に普遍的な「真理」があるからだと思います。人が人である限り、イエスの言葉は人の心に影響を与え続けると思います。 (我々も、イエスの言葉でつながっているのですから・・・そう考えると不思議ではありますね) またもや長文失礼しました。参考になれば幸いです。 P.S.「kyudousha」=求道者、さんでしょうか?アナタの進むべき道が、一日も早く見つかりますように。

kyudousha
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「アリマタヤのヨセフとニコデモによる情報操作(隠蔽)を民衆(マグダラのマリアら)が「復活」と受け取って広まった」 と書きましたが、どうも、最初に「噂」を流したのは監視に当たっていたローマ兵だったようですね。その「噂」が司祭主導でかなり矛盾のある言い回しだったので信憑性の高い「復活」として民衆に浸透したと考えられます。使徒行伝にその辺が載っていたと思います。 「悪魔の手紙」読んでみたいと思います。 ちなみに「日本人に贈る聖書ものがたり」は4巻もあり、イエスの裁判や復活は3、4巻をまたいで書かれています。 「復活」がキリスト教信仰の分水嶺であるとするとこの辺の議論、歴史的考証がもっとなされてしかるべきだと思います。 私は、イエス・キリストが神でなかったとしても、ガンジー、キングなどの解放運動など世界を変える原動力となってきた人物として「宗教」とか「信仰」といったくくりを取り払った上で、もっと注目され議論されるべき人物であり、好奇心を抱いて探求すべきことであると感じています。 ほんとうですね!私たちがこうしてネット上でつながったのもこの人物(神)あってのことですね。 ネット上の議論は忌憚ない意見を得られるので、進むべき道を模索する際にも非常に有益であると思います。そう考えるとここ数十年で劇的に世界は変わりつつあるのだと実感します。 こういったやりとりができたことうれしく思います。 ありがとうございました。

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回答No.9

お礼拝見しました。 >私見ですが(略)流言蜚語のように広まったと(略)特にアリマタヤのヨセフとニコデモ(略) 上記は、別質問になさった方が良いと思います(質問者さんが確信しているなら無用ですが) その場合、民衆から自然発生的に復活伝説が広まったのか、アリマタヤのヨセフとニコデモによる情報操作なのか、は質問者さんの考えとしてどちらが可能性が高いと思うのかも明記されると、実りのあるQ&Aになると思います。 とは言え、折角お礼を頂戴したので、私の意見も述べさせて下さい。 質問者さんが例示された理由の(1)~(5)ですが、私なりに整理すると (1)ユダヤ教上の宗教改革者としてのイエス (2)ローマからの解放者としてのイエス (3)キリスト教の創始者としてのイエス (4)ユダヤ人を救うダビデ王家の再興者としてのイエス (5)現世の利益を提供してくれるイエス だと思います。上記の内(4)は当時の救世主とは、ローマの支配を終わらせてくれる(世=ユダヤ人の住む狭い範囲)の意味しか持たないからです。 アリマタヤのヨセフ(とニコデモ)は当然(1)をメインに期待したと思われます。しかし、もしも、彼らが復活したと嘘を言った場合、来年の過ぎ越しの祭りにイエスが登場しなかったら、彼らの宗教改革(祭司の腐敗を糾弾する事)が頓挫してしまいませんか?とすれば、彼らが積極的に復活したと嘘をつく理由が弱いような気がします。 仮に(2)or(4)を期待するならば、民衆を焚きつけて弔い合戦をさせよう、と考えたならイエスが死んだままでなくては都合が悪いです。かと言って、復活したのなら、民衆を率いるのはイエスでなくてはなりません。復活したと嘘をついたなら、困るのはヨセフ(とニコデモ)です。 (5)は彼ら裕福な人には無縁ですが、貧しい人々が希望をこめて復活を噂したとしても、証拠がなければ誰も信じてくれません。復活したのなら、パンをまた分けてくれるはずですし、病気を癒してくれるはずです。 ドコでイエスさんはパンを配っているんだ?病気を治してくれるんだ?と噂を流した人に詰め寄るのではないでしょうか?結果、嘘だと判明する可能性が高いでしょう。 そして、(3)は敬虔なユダヤ教徒として受け入れ難いものです。事実イエスも復活前には「私はイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタイ15:24)、とユダヤ人の救済が先決だという立場です。(ユダヤ教徒なんですから当然ですよね)ですから、復活した、とエルサレムの住人が言い出す可能性も低いと考えます。 (3)は正にキリスト教の核を成す思想ですから、アリマタヤのヨセフやニコデモはそこまで望んでいた訳ではないのです、彼らはユダヤ教徒なのですから。 アリマタヤのヨセフとニコデモは、真剣に神の国の到来を待ち望み、神の教えを守ることによって救われたいと考えていたでしょう。その彼らが、自分の尊敬する師の死体を隠蔽して「復活した」と偽りを死ぬまで言い続ける、事に意味があったのでしょうか? 後世の我々はキリスト教を知っていますから、嘘をついてでも新宗教を立ち上げる意味も理解できますが、当時ではローマからすれば犯罪者を教祖にする事は危険な行為だと思われます。 それに、復活という奇跡はペテロですら信じていなかった節があります(マタイ16:21~23)から、直接教えを受けていない民衆は余計信じ難い奇跡だと思います。 総合して、どうせ嘘をつくのなら、もっとマシな嘘をつくのではないか?というのが私の感想です。 しかしながら、質問者さんの意見は興味深い考察なので、別質問で広く意見を募る方がよろしいかと思います。 長文失礼しました。

kyudousha
質問者

お礼

非常に理路整然とした真摯なご回答ありがとうございます。 また、質問方法のアドバイスいただきありがとうございます。 >質問者さんの意見は興味深い考察なので、別質問で広く意見を募る方がよろしいかと思います。 (1)~(5)の回答者さんの整理された内容を質問に転用させていただいてよろしいでしょうか?(でも、私が書くと長くなりがちで、どういった質問文にしたらよいか苦悩中です・・・。) >民衆から自然発生的に復活伝説が広まったのか、アリマタヤのヨセフとニコデモによる情報操作なのか 私は、アリマタヤのヨセフとニコデモによる情報操作(隠蔽)を民衆(マグダラのマリアら)が「復活」と受け取って広まったと考えます。番をしていたローマ兵(墓の警備を失敗したため死刑になる可能性があった)に知恵をつけてパリサイ人に擁護させたことがかえって復活の宣伝になってしまったこと(使徒行伝)も策略と考えだしたらキリがないです。 >(3)は正にキリスト教の核を成す思想ですから、アリマタヤのヨセフやニコデモはそこまで望んでいた訳ではないのです、彼らはユダヤ教徒なのですから。 ユダヤ教徒で律法や預言書に通じ、イエスと接触があり、感化されていた彼らがそれを望む可能性を示唆する部分は聖書にも出てきますし、彼らが置かれていた状況などからも、彼らの義憤や危機感がうかがいしれます、また、イエスが神の子であったら本当にすばらしいだろうと思うまでに至っていれば、彼の生前の言葉に添うように行動したのではないでしょうか?変わり果てた遺体を見てどう感じるでしょうか? >どうせ嘘をつくのなら、もっとマシな嘘をつくのではないか? 彼らは嘘をつくのではなく、隠蔽工作をしただけで、あとは「神の子」について信仰を告白しただけといえませんか。 この両名はもはや普通の「ユダヤ教徒」という範疇には収まらなくなっていたと考えられます。No8に補足をつけさせていただきましたのでご一読ください。 イエス・キリストが神の子ではなく偉大な教師であるなどとするならば、イエス・キリストが狂人と定義されてしまうというようなことをC.Sルイスが言っています。しかし、そうだとしても、彼の言動はなおも人々に感銘を与えるものであると思います。どう思われますか?

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回答No.8

お礼拝見しました。 繰り返しになりますが、四つの福音書ではそれぞれ マタイ27:58、マルコ15:43~45、、ルカ23:52、ヨハネ19:38、と 全ての箇所でアリマタヤのヨセフが、ピラトに死体の下げ渡しを願っているところからも、死刑執行終了まではローマ、という推論を導き出しました。 >こういった人物に「のみ」死体の処理をまかせた当時のユダヤの祭司、ローマ軍は非常な失策をやらかしたことにならないでしょうか。 「当時」の人の行動は、現代に生きる我々から見て合理性を欠くように見える場合があります。 しかし、それは我々が歴史という知識を得ているからで、当時の人にとっては正しい行為である事は珍しくありません。 まず、三十路の貧相な大工を十字架に磔にしたのは何故でしょうか?もちろん殺害する為ですね。ローマや祭司長たちは、親切にも預言を成就させるために十字架を用意したのではありません。 後世の我々は、イエス・キリストが復活した事を知っています(あるいは信じています)が、当時の人としては死人が復活する事は想定外の出来事です。 弟子たちが、取り戻そうとするなら息のある間、すなわち死刑が終了する前でなければ意味がない、とローマは考え磔刑の執行中は兵隊で見張っておりました。 が、死んだ後は無力な死体なのですから、これを監視する行為に当時の人が合理性を感じないのは当然です。 死体はあくまでも死体ですから、それを誰が引き取ろうと関係ない、と当時の人が考えても無理ないことではありませんか? 我々は世界に10億を超える信徒がいる現在のキリスト教を知っているから、当時のローマが失策を犯したと考えることが可能ですが、その時に生きた人からすれば、巨人でも竜でもない人間の死体を厳重に見張ると主張する方が変でしょう。 珍説を述べる人の中には、当時の公文書にイエスの名が無いのは後世に創作された架空の人物だからだ、と主張する人がいますが、これも当時の事を考えていないからです。公文書に残す価値が無いと、当時の人が考えれば当然記録されませんからね。 繰り返しますが、当時のイエスは三十路の大工であって、王や貴族でもなく、将軍や大祭司などの公職についていた訳でもありません。 当時の人には、彼の死刑が世界に大影響を与えると予想できるはずが無いのですから、公文書に名前がある方が変ですよね。 (余談ですが、「ピラトに関するものは資料が残っているが、イエスの裁判に関する記録が無い」と主張する人が、ピラトは裁判なしに人を処刑した、とも言っているのですが・・・裁判なしに処刑する人は裁判記録を残さないんじゃない?何を言いたいのだろう?) さて、当時の風習について「裁判は夜行われない」と他の回答者さんがお書きです。実際に四福音書では マタイでは「夜が明けると、・・・イエスを殺そうと相談した。」27章1節 マルコでは「夜が明けると・・・最高法院全体で相談した後」15章1節 ルカでは「夜が明けると・・・イエスを最高法院に連れ出して」22章66節 と、正式な裁きは夜が明けてから行われていますね。 (夜だと別人を誤認逮捕してる可能性がありますから、照明の乏しい古代では裁きが明るい時間に行われる必要はあるでしょう) ただし、成立年代が最も遅いヨハネのみ「人々は、イエスを・・・官邸に連れて行った。明け方であった。」18章28節 と、夜明け前にアンナス(大祭司のしゅうと)→大祭司と二箇所引き回しています。 さて、これらを総合して考えると「復活した」と弟子が言いふらす行為は、嘘の場合はリスクのみが大きいと思います。ローマにすれば、殺したはずの男が堂々と歩いていては困りますし、祭司たちも再度捕らえようとするはずです。もちろん、言いふらす弟子たちを真っ先に捕らえるでしょう。教団としての力はこの時どん底ですから、後継者になりたがる酔狂な人もいないでしょう。 と、すれば何故そんな危険な行為をし続ける必要があるのでしょうか? 私は、そこに何かとてつもない意志の力を感じるのですが、果たして質問者さんは如何に? 考えるヒントになれば幸いです。

kyudousha
質問者

お礼

>危険な行為=「復活した」と言いふらす行為の原動力 として考えるのは、私見ですが、 (1)当時の偽善的な司祭(宗教家)、神殿に対する反感 (2)ローマ帝国の支配下におかれていることへの不満 (3)階級や性別、貧富の差、民族、犯した罪に関わらず与えられる救いの提示 (4)救世主再臨への期待 (5)女性や貧困層を中心としたイエス・キリストの言動への支持 などです。 (1)は安息日の問題や神殿が商売道具に使われていることなどへの不満などでしょうか、(2)は熱心党(過激派)などがユダヤ人民族国家の建国を目指していたことなどから、(3)は当時イエス・キリストが積極的に接した階層が求めていたから、(4)生前のイエス・キリストの発言や預言書の内容から、(5)は(3)と共通するかもしれませんが、イエスとその弟子達は慈善事業のようなことも行っていたから。 以上のようなことから当時の勢力に反発したか、排斥された勢力の意志が働いて、弟子が言いふらさずとも流言蜚語のように広まったと十分考えられます。また、それを当時の司祭達は恐れていたとの記述も聖書にあります。ですから、このような革命というか改革的なことを起こそうとする不穏な動きが当時あったのではないでしょうか?というかあったと聖書に書いてあるとも言えませんか? それらの情勢を良く知り、改革に賛同し、積極的に関与(せざるをえない立場に置かれた)できたのはアリマタヤのヨセフとニコデモであり、さらに加えるとするとイエスを支持する女性達(マグダラのマリアら)ではなかったかと。弟子達は政治的な面と、恵み(許しによる罪からの解放)への理解(実感?)が不足していたことや、面が割れていることから隠れていたのではないでしょうか。 特にアリマタヤのヨセフとニコデモは死体を隠蔽してでも、「復活」させるように見せる意味を見出した。 このように私は考えるのです。

kyudousha
質問者

補足

(当時のサンヘドリンについて) サンヘドリン(当時の国会・最高裁判所、(1)サドカイ派、(2)パリサイ派、律法学者らが参加、そのうち(1)と(2)が多数派) (イエス裁判(サンヘドリン裁判)について) 口伝律法の規定違反が繰り返される異常な裁判であった。 違反事例 (1)裁きの殿堂(神殿)でのみ行われなければならない 実際はカヤパ官邸で行われた (2)真夜中から夜明け前にかけて行ってはならない (3)公開ではない秘密裁判を行ってはならない (4)裁判官が訴追人になることは許されない (5)自白のみを証拠として人を有罪にはできない (6)判決を言い渡すのは昼間だけである (7)死刑相当罪の裁判は審議と判決を同日に行ってはいけない (8)死刑の評決は若い判事から順に行い、年長の判事の影響を抑える (9)全会一致の有罪判決は無効である (10)冒とく罪は、実際に神の名前が発音されたときのみ成立する (アリマタヤのヨセフとニコデモ) 上記のサンヘドリン裁判に両名とも親イエスとして招集されていなかった。後にイエス信仰を表明したためにユダヤ人社会から追放された。その後両名は没落し、ニコデモは極貧の中、病床につき逝去。アリマタヤのヨセフは消息不明となった。(これが聖杯伝説に結びついたが荒唐無稽な話であるとされる。) (埋葬のための遺体の引渡し) ローマ法上、埋葬のための遺体の引渡しは恩赦と考えられており、ピラトはイエスの無罪を確信していたので、この許可を与えたものと思われる。 以上は「日本人に贈る聖書物語」より引用(もちろん著者中川氏の研究・考察による部分も多いと考えられるが信憑性は高いのではないでしょうか) (ニコデモについて) ニコデモはイエスとの接触を律法学者、サンヘドリン議員としての立場上公にはできず、夜にイエスを訪れている。(ヨハネ3章)。また、ヨハネ7章では他のパリサイ人に対してイエスを擁護の立場で批判。香料を持参し埋葬処理に立ち会った。(ヨハネ19章) (アリマタヤのヨセフ) ニコデモと同じくサンヘドリンの議員であり、裕福な有力者であった。 神の国を強く待ち望んでおり、ひそかにイエスの弟子となっていた。だが、当初、他の議員を恐れ、公に信仰を表明することは控えていた。彼がイエスの遺体の引取を行ったことは四福音書に記載がある。また、遺体を埋葬した墓は彼が所有していた墓であった。 ここからは私見になりますが、以上のことを考えると、イエスに傾倒したためにサンヘドリンからの追放、排斥を受け、ユダヤ教社会から追放された人物が生前の彼の意思を実現させるべく遺体をなきものにし、「復活」をさせた。  司法府、立法府としてのサンヘドリンの暴走に対して危惧・嫌悪の念を抱いていた彼らにとってはイエスが死を賭して人の罪を贖おうとしたように、彼らも命を賭して当時の議員達を批判することに加担し、イエスの生前の教えが広まり、残りつづけることをのぞんだのではないでしょうか?  復活しないにしても、かれらにとってイエスの死は「罪の死」を象徴するだけで十分であったのではないでしょうか。しかし、遺体を前にした二人が生前のイエス・キリストの生き様、言動に心動かされて遺体を隠蔽する行動をとる可能性は十分あると考えられます。

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回答No.7

No.2です。 >当時のユダヤ教社会で、もはや聖職者とは見なされなくなったと考えられるのではないでしょうか? あの民族の名前というか肩書きのつけ方がいまいちわかっていない私ですが、、、、 日本の神道とユダヤ教は風習というか規定において、よく似ているんですね。 日本の風習に喪に服すってのがありますよね。 家で死者が出た場合、一定の期間 神社に行ってはいけないですよね。 何故なら喪に服している期間は穢れの期間だから。 ユダヤ教における過ぎ越しの祭りの起源の民話と同じようなものが、日本の民話にもある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%B0%91%E5%B0%86%E6%9D%A5 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8C%85%E3%81%AE%E8%BC%AA で、喪に服している期間にあるマリアがトコトコト外を歩いているという描写が聖書にありますが、喪に服している女が一人でその期間に外を歩くなんて、当時の風習からしてありえないと不思議に思います。 同じように、過ぎ越しの祭りの前日に死体に触れるということもありえない。 死体に触れてしまうと、過ぎ越しの祭りに参加できなくなってしまう。 ヨセフが議員だったとしても、ユダヤ教徒であれば、風習を重視し、イエスの遺体を運ぶ作業に関わらないと思うんですよ。 そういうユダヤの風習をユダヤ人が知らないはずが無い。 ということは、後世に聖書に加筆した人が、ユダヤの風習を知らなかったとしか思えない。 当時の風習で、誰が遺体に触れられたのか。 女性とかそういう人たちだったようです。 良きサマリアの友人に登場するサマリア人も、恐らく日本のエタとして蔑まれた人々と同じように差別されていたんじゃないかと。 もし、イエスの遺体の運搬を過ぎ越しの祭りの前日にできたとすれば、ヨセフは議員じゃない。 そして彼は過ぎ越しの祭りの参加できない。 弔いの職業の人と議員という職業は分業しており兼業じゃないと思う。 サマリアは女神の名前からとったと思うんですね。 だからアリマタヤのヨセフは、もしかしたら、議員じゃなくサマリア人だったかもしれない。 と分解して考えたわけです。 聖書にはイエスを逮捕するときの場面で、ローマ兵はイエスの顔を知らなかったとなっていますよね。 それほど彼は顔をローマに知られておらず、一体何者かもローマ側は知らなかったってわけですよね。 で、ポンテオ・ピラトスは反ユダヤ主義だったので、<過ぎ越しの祭りが近いので、ユダヤ人の士気が高まっており、一発触発の危険があるから、ピラトはイエスに罪は無いと思ったが、議員の言いなりになるしかなかった> というのはありえない。 彼はローマにたてつく疑いがある者を捕まえて裁判無しに処刑していたことで有名な人物。 及び腰じゃなかったんですね。 言いなりどころか 暴動を抑えようとしたどころか、逆にユダヤ人を挑発しまくっていた人物だった。 その男が何故、議員や祭司の言いなりになって、罪が無い人を処刑するということになるのか。 ローマの国教になったことで、キリスト教側のローマに対する後世のリップサービス。 「ローマが悪いんじゃない ユダヤ人の議員と祭司が悪かった」と工作しちゃった。 ひどい話です。 これが元でユダヤ人に対する差別が引き怒り、20世紀には大虐殺が起こったわけですよね。 架空の物語のせいで、罪もない人が大量に殺されることになった。 しかも、ピラトはイエスに罪が無いなど思う裁判など開いていない。 ピラトに関するものは資料が残っていますが、イエスの裁判に関する記録が全く無い。 しかも当時裁判は夜やらない。 史実と神話が違う。 困ったもんです。 この落書きのせいで、あまり新約聖書は信用できなくなってしまうとしたら、落書きを消せばいいと思うんですね。 最初に落書きを消す箇所はイエスの裁判のところだと思います。 編集しなおしですね。

kyudousha
質問者

お礼

>罪もない人が大量に殺されることになった。 ポグロムとかホロコーストがこの辺に端を発しており、相当数の人が殺されていることは本当に恐ろしいことだと思います。

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noname#80116
noname#80116
回答No.6

 No.1です。 ★ イエスの遺体がなくなったことの信憑性が現れているとおっしゃられていますが、引き取って埋葬したこの両名の人物が親イエスであるということが私には非常に引っかかってきます。(以下省略) ☆ うぅーん。わたしの感覚では 信憑性が高くなる場合も 低くなる場合も どちらにしても 表現の問題として処理しなければ 解釈が――イエスの伝えようとしたことにまで―― 達しないようになってしまわないかとおそれます。  じっさい そのように史実如何を問題にして イエス物語あるいはキリスト信仰のこととして とらえようとしない向きもあるように思います。  史実の解明は 先行する問題であることに変わりはないのですが。  この問題は kyudoushaさんも含めて ほかの方々の究明にお任せしたいいと思います。逃げの姿勢で 申し訳ないですが。

kyudousha
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 イエスが命を賭して伝えようとしたことが素晴らしい物であり、ものすごいインパクトを与え、世界を変えて来たこと(ガンジーやキング牧師の働きなど)が、例え死体が何者かによって隠蔽され、復活したかのように見せかけたという事実があったところで、変わりはしないと思います。

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noname#49694
noname#49694
回答No.5

すみません。ちょっと質問を勘違いしてました。  アリマタヤのヨセフとニコデモですね。  ニコデモはヨハネ3章で主の弟子となった者と考えられますが、厳密にはあまり信仰が強い者だったとはいえません。もともとユダヤ教の上で熱心な人気教師であって、ほとんどイエスの側についていない者として認知されていたといってよいでしょう。  アリマタヤのヨセフはヨハネ19章によるとイエスの弟子でしたが、隠れた弟子であったとあり、裕福さなどの信用から、特に怪しまれなかったといっていいでしょう。  ヨハネ19章の記述によれば、ニコデモとヨセフの二人でユダヤ人の埋葬の習慣で葬ったとあります。ですから、彼らが責任をもったといえます。でもそれはローマの監視下であったことは明らかです。  マタイ27章の記述によれば、イエスの葬りの時、マグダラのマリアと、別のマリアの二人が立ち会っています。そこから約一日の時間が与えられた後、祭司長とパリサイ人がそれではやばいということで、ピラトに直談判。「復活する」とか言っていたから、そんなあほな噂を流布されてはまずいぞということで、すぐに監視をつけるようにいいます。  当時のローマ行政は、あまりイエスの死に賛成していたとはいえません。なぜならイエス自身がそんな罪人ではなかったからであり、ピラトもとまどっている姿が記述されています。宗教的圧力だったと見たほうがいいでしょう。それで今回も宗教的圧力で、監視をつけることにしたわけですね。  ですから、葬りはまかされて勝手に二人でやっていたことですが、厳密にはすぐさま監視におかれるということでしょう。でも私が思うにまったく野放しだったとは思いません。

kyudousha
質問者

お礼

重ねて回答ありがとうございます。 >ローマの監視下であったことは明らかです。 これは全工程にわたるのでしょうか? >葬りはまかされて勝手に二人でやっていたことですが、厳密にはすぐさま監視におかれるということでしょう。でも私が思うにまったく野放しだったとは思いません。 ということは、表立っては親イエスではない、旧約聖書(預言書)に通じた「宗教的圧力」やローマ行政をかいくぐって埋葬を行える二人が処理をおこなったということになりますね。

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noname#49694
noname#49694
回答No.4

 いやいやちょっと間違っていると思いますよ。  処刑から葬りまで、すべてローマの行政がやったことです。遺体を引き取ったという事実はどこにもありませんし、引き取れなかったのです。  弟子たち自身がおたずね者だったですし、そんなだいそれたことはできません。  ローマが番兵をつけたことを聖書の記述がつじつまあわせに勝手に付けたという人がいますが、これも誤読。聖書の記述は逆です。ローマ行政がイエスの弟子たちや信者たちが勝手に復活したというように騒がせないために、遺体を完全に葬って管理しようとしたわけです。というように書かれています。  その後も引き取ったのではありません。  聖書によれば、ある日突然地震とか災害みたいなものが起こり、番兵どもが恐ろしくなり、逃げてしまいます。そこにマグダラのマリアが来るのですが、なぜか遺体が消えている・・・・あれ?という話です。  ふと振り向くとそこにイエスがなぜかいる。その後、マリアは喜んで弟子達のところに報告にいくのですが、当初ほとんどの弟子らは「そんなあほなことあるか」といってバカにします(書いていませんが、彼らが行動して墓に行かなかったことからそれは推論できます、まあ当然かもしれません)。  そのあと、イエスは二人の弟子の前にあらわれ、二人が喜んで見たこと聞いたことを弟子全員に報告することではじめて彼らは信用します。その後、イエスがそこに登場するのです。ここが十字架以後ではじめてのイエスとの再会です。  すでにいったように弟子らはおたずね者でいくらか顔を知られていたものですから、十字架上の刑罰のときも本当に熱心なペテロくらいしか見に来る勇気はありませんでした。しかしペテロでさえも、結局ばれかけた時に「わたしはこんな人知らない」と不信仰になり、自分のふがいなさに大泣きします。  まあだいたいこんなところだったかなと思います。

kyudousha
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >処刑から葬りまで、すべてローマの行政がやったことです。 >ローマが番兵をつけたことを聖書の記述がつじつまあわせに勝手に付けたという人がいますが、これも誤読。聖書の記述は逆です。ローマ行政がイエスの弟子たちや信者たちが勝手に復活したというように騒がせないために、遺体を完全に葬って管理しようとしたわけです。というように書かれています。 以上のようなことであれば、イエス・キリストの復活は相当な信憑性を帯びてくるのではないかと思います。

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  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.2

聖書に登場する名前は、意味を持つと思うんですね。 例えば小説を書くとき、歴史上有名な人の名前を取ってキャラにつけたりしますよね。 それによって何者であるかを暗示的に読者に知らせる。 または謎解きをして、その名前がつけられた必然性を、物語の中で説明したり。 私など小説で姓がコーヘンとかコハイムってキャラが出てくると、「ああ」って思いますから。 で、ヨセフというのはエジプトだとジョセルで、古代では聖職者の名前だったようなんですね。 で、パレスチナに移り住んでも、名づけに制限は加えられていたと思うんですね。 (ヨハネは例外みたいだったようですが) で、イエスを埋葬したヨセフは、福音書によって詳細が違っていますよね。 マタイは「金持ちでイエスの弟子」(マタイ27:57)といい、マルコは「身分の高い議員」(マルコ15:43)、ルカは「神の国を待ち望んでいた」「善良でただしい人」(ルカ23:50-51)、ヨハネは「イエスの弟子でありながらユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」(ヨハネ19:38)人物としている。 (wikiより) 全部かもしれない。 で、<アリマタヤのヨセフ>の意味。 <女神アリ(マリ)に属するヨセフ> 議員 すなわち聖職者で、マリに従う者って意味じゃないかと。 ただし、聖職者であれば、過ぎ越しの祭りが近いので、死体に触れたり弔ったりすることは避けたはずですので、この描写はおかしいですね。 もし イエスが死んでいなければ、運べるのですが、死んでいたらできない。 イエスの顔も知らなかったという描写から、ローマ兵がイエスの墓を守るということはありえないし、ローマに反逆する恐れのあるものは、裁判なしに処刑していたピラトですから、兵士に処刑した男の墓を守らせるなんてことはするはずがない。 つまり、裁判から始まり それ以降の記述は後世の加筆だと思います。 つまり ヨセフもニコデモも実在しておらず、小説上の架空の人物。 加筆した人が、ユダヤの風習を知っていれば、こんなミスは犯さなかったでしょうね。 非ユダヤ人がユダヤ教について触れるから、こんなミスを犯すことになったんだと思います。 聖書に落書きすなーーって ねぇ。

kyudousha
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >聖職者であれば、過ぎ越しの祭りが近いので、死体に触れたり弔ったりすることは避けたはずですので、この描写はおかしいですね。 当時のユダヤ教社会で、もはや聖職者とは見なされなくなったと考えられるのではないでしょうか?

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noname#80116
noname#80116
回答No.1

 ここは 描写の問題だと考えてよいと思います。  そのようにしっかりと見張りが立てられたりしたとすれば あとで イエスの遺体がなくなったということの信憑性が 現われます。その程度にとっておいてよいのではないでしょうか。  イエスが消えたというのですから その描写をどうしようかと考えたはづです。(もちろん 史実の解明が 先ですが ゆきづまったときにも そういう考え方になるだろうという問題です)。  ここは 表現の問題ということで 全体の問題へと進んだほうがよいと思います。

kyudousha
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 イエスの遺体がなくなったことの信憑性が現れているとおっしゃられていますが、引き取って埋葬したこの両名の人物が親イエスであるということが私には非常に引っかかってきます。 仮にこれが、当時の裁判を行った祭司やローマ帝国が厳重な管理下のもとに行ったのであれば、かなりの信憑性というか客観性が出てくると思うのですが・・・。 ある本を読んだのですが、この二人のどちらか、もしくは両名は親イエスの議員であり、そのためにイエス裁判に召集されなかったとあります。 これが聖書に記載されているのか、どこから調べたことなのか不明です。 しかし、本当だとしたらかなり怪しい人物であると思うのです。 聖書知識が豊富であり、親イエスであり、議員であるにもかかわらず、裁判に招集されなかったということは、村八分みたいになったということではないでしょうか。とすると、イエスが生前言っていたような復活と預言の成就を人為的に手助けするにふさわしい二人ではなかったかと・・・。

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