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キリスト教

frisk_blue_loveの回答

回答No.8

お礼拝見しました。 繰り返しになりますが、四つの福音書ではそれぞれ マタイ27:58、マルコ15:43~45、、ルカ23:52、ヨハネ19:38、と 全ての箇所でアリマタヤのヨセフが、ピラトに死体の下げ渡しを願っているところからも、死刑執行終了まではローマ、という推論を導き出しました。 >こういった人物に「のみ」死体の処理をまかせた当時のユダヤの祭司、ローマ軍は非常な失策をやらかしたことにならないでしょうか。 「当時」の人の行動は、現代に生きる我々から見て合理性を欠くように見える場合があります。 しかし、それは我々が歴史という知識を得ているからで、当時の人にとっては正しい行為である事は珍しくありません。 まず、三十路の貧相な大工を十字架に磔にしたのは何故でしょうか?もちろん殺害する為ですね。ローマや祭司長たちは、親切にも預言を成就させるために十字架を用意したのではありません。 後世の我々は、イエス・キリストが復活した事を知っています(あるいは信じています)が、当時の人としては死人が復活する事は想定外の出来事です。 弟子たちが、取り戻そうとするなら息のある間、すなわち死刑が終了する前でなければ意味がない、とローマは考え磔刑の執行中は兵隊で見張っておりました。 が、死んだ後は無力な死体なのですから、これを監視する行為に当時の人が合理性を感じないのは当然です。 死体はあくまでも死体ですから、それを誰が引き取ろうと関係ない、と当時の人が考えても無理ないことではありませんか? 我々は世界に10億を超える信徒がいる現在のキリスト教を知っているから、当時のローマが失策を犯したと考えることが可能ですが、その時に生きた人からすれば、巨人でも竜でもない人間の死体を厳重に見張ると主張する方が変でしょう。 珍説を述べる人の中には、当時の公文書にイエスの名が無いのは後世に創作された架空の人物だからだ、と主張する人がいますが、これも当時の事を考えていないからです。公文書に残す価値が無いと、当時の人が考えれば当然記録されませんからね。 繰り返しますが、当時のイエスは三十路の大工であって、王や貴族でもなく、将軍や大祭司などの公職についていた訳でもありません。 当時の人には、彼の死刑が世界に大影響を与えると予想できるはずが無いのですから、公文書に名前がある方が変ですよね。 (余談ですが、「ピラトに関するものは資料が残っているが、イエスの裁判に関する記録が無い」と主張する人が、ピラトは裁判なしに人を処刑した、とも言っているのですが・・・裁判なしに処刑する人は裁判記録を残さないんじゃない?何を言いたいのだろう?) さて、当時の風習について「裁判は夜行われない」と他の回答者さんがお書きです。実際に四福音書では マタイでは「夜が明けると、・・・イエスを殺そうと相談した。」27章1節 マルコでは「夜が明けると・・・最高法院全体で相談した後」15章1節 ルカでは「夜が明けると・・・イエスを最高法院に連れ出して」22章66節 と、正式な裁きは夜が明けてから行われていますね。 (夜だと別人を誤認逮捕してる可能性がありますから、照明の乏しい古代では裁きが明るい時間に行われる必要はあるでしょう) ただし、成立年代が最も遅いヨハネのみ「人々は、イエスを・・・官邸に連れて行った。明け方であった。」18章28節 と、夜明け前にアンナス(大祭司のしゅうと)→大祭司と二箇所引き回しています。 さて、これらを総合して考えると「復活した」と弟子が言いふらす行為は、嘘の場合はリスクのみが大きいと思います。ローマにすれば、殺したはずの男が堂々と歩いていては困りますし、祭司たちも再度捕らえようとするはずです。もちろん、言いふらす弟子たちを真っ先に捕らえるでしょう。教団としての力はこの時どん底ですから、後継者になりたがる酔狂な人もいないでしょう。 と、すれば何故そんな危険な行為をし続ける必要があるのでしょうか? 私は、そこに何かとてつもない意志の力を感じるのですが、果たして質問者さんは如何に? 考えるヒントになれば幸いです。

kyudousha
質問者

お礼

>危険な行為=「復活した」と言いふらす行為の原動力 として考えるのは、私見ですが、 (1)当時の偽善的な司祭(宗教家)、神殿に対する反感 (2)ローマ帝国の支配下におかれていることへの不満 (3)階級や性別、貧富の差、民族、犯した罪に関わらず与えられる救いの提示 (4)救世主再臨への期待 (5)女性や貧困層を中心としたイエス・キリストの言動への支持 などです。 (1)は安息日の問題や神殿が商売道具に使われていることなどへの不満などでしょうか、(2)は熱心党(過激派)などがユダヤ人民族国家の建国を目指していたことなどから、(3)は当時イエス・キリストが積極的に接した階層が求めていたから、(4)生前のイエス・キリストの発言や預言書の内容から、(5)は(3)と共通するかもしれませんが、イエスとその弟子達は慈善事業のようなことも行っていたから。 以上のようなことから当時の勢力に反発したか、排斥された勢力の意志が働いて、弟子が言いふらさずとも流言蜚語のように広まったと十分考えられます。また、それを当時の司祭達は恐れていたとの記述も聖書にあります。ですから、このような革命というか改革的なことを起こそうとする不穏な動きが当時あったのではないでしょうか?というかあったと聖書に書いてあるとも言えませんか? それらの情勢を良く知り、改革に賛同し、積極的に関与(せざるをえない立場に置かれた)できたのはアリマタヤのヨセフとニコデモであり、さらに加えるとするとイエスを支持する女性達(マグダラのマリアら)ではなかったかと。弟子達は政治的な面と、恵み(許しによる罪からの解放)への理解(実感?)が不足していたことや、面が割れていることから隠れていたのではないでしょうか。 特にアリマタヤのヨセフとニコデモは死体を隠蔽してでも、「復活」させるように見せる意味を見出した。 このように私は考えるのです。

kyudousha
質問者

補足

(当時のサンヘドリンについて) サンヘドリン(当時の国会・最高裁判所、(1)サドカイ派、(2)パリサイ派、律法学者らが参加、そのうち(1)と(2)が多数派) (イエス裁判(サンヘドリン裁判)について) 口伝律法の規定違反が繰り返される異常な裁判であった。 違反事例 (1)裁きの殿堂(神殿)でのみ行われなければならない 実際はカヤパ官邸で行われた (2)真夜中から夜明け前にかけて行ってはならない (3)公開ではない秘密裁判を行ってはならない (4)裁判官が訴追人になることは許されない (5)自白のみを証拠として人を有罪にはできない (6)判決を言い渡すのは昼間だけである (7)死刑相当罪の裁判は審議と判決を同日に行ってはいけない (8)死刑の評決は若い判事から順に行い、年長の判事の影響を抑える (9)全会一致の有罪判決は無効である (10)冒とく罪は、実際に神の名前が発音されたときのみ成立する (アリマタヤのヨセフとニコデモ) 上記のサンヘドリン裁判に両名とも親イエスとして招集されていなかった。後にイエス信仰を表明したためにユダヤ人社会から追放された。その後両名は没落し、ニコデモは極貧の中、病床につき逝去。アリマタヤのヨセフは消息不明となった。(これが聖杯伝説に結びついたが荒唐無稽な話であるとされる。) (埋葬のための遺体の引渡し) ローマ法上、埋葬のための遺体の引渡しは恩赦と考えられており、ピラトはイエスの無罪を確信していたので、この許可を与えたものと思われる。 以上は「日本人に贈る聖書物語」より引用(もちろん著者中川氏の研究・考察による部分も多いと考えられるが信憑性は高いのではないでしょうか) (ニコデモについて) ニコデモはイエスとの接触を律法学者、サンヘドリン議員としての立場上公にはできず、夜にイエスを訪れている。(ヨハネ3章)。また、ヨハネ7章では他のパリサイ人に対してイエスを擁護の立場で批判。香料を持参し埋葬処理に立ち会った。(ヨハネ19章) (アリマタヤのヨセフ) ニコデモと同じくサンヘドリンの議員であり、裕福な有力者であった。 神の国を強く待ち望んでおり、ひそかにイエスの弟子となっていた。だが、当初、他の議員を恐れ、公に信仰を表明することは控えていた。彼がイエスの遺体の引取を行ったことは四福音書に記載がある。また、遺体を埋葬した墓は彼が所有していた墓であった。 ここからは私見になりますが、以上のことを考えると、イエスに傾倒したためにサンヘドリンからの追放、排斥を受け、ユダヤ教社会から追放された人物が生前の彼の意思を実現させるべく遺体をなきものにし、「復活」をさせた。  司法府、立法府としてのサンヘドリンの暴走に対して危惧・嫌悪の念を抱いていた彼らにとってはイエスが死を賭して人の罪を贖おうとしたように、彼らも命を賭して当時の議員達を批判することに加担し、イエスの生前の教えが広まり、残りつづけることをのぞんだのではないでしょうか?  復活しないにしても、かれらにとってイエスの死は「罪の死」を象徴するだけで十分であったのではないでしょうか。しかし、遺体を前にした二人が生前のイエス・キリストの生き様、言動に心動かされて遺体を隠蔽する行動をとる可能性は十分あると考えられます。

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