• 締切済み

神っているの?当然いないよねー。

 哲学家の皆さまに質問です。僕は超無神論者です。  めっちゃ自分の中に閉じこもっているDEEPな方のご意見が聞きたい、今はそんな気分です。  僕は絶対、神さまはいないと思う。僕の神様はどーしてもつらいときだけ存在します。苦しいときの神頼みですね。それ以上ではなくそれ以下ではない。  皆さまの回答はできるかぎり読みますが、あまりに読みづらいのは勘弁してください。僕は本当に超個性的な方を待ってます、どんな考え方しているのかちょっとでも知りたいです。

  • richan
  • お礼率45% (187/409)

みんなの回答

noname#1496
noname#1496
回答No.12

     <質問者の主たる関心は?>  質問に答えるに際しては、質問者の主たる関心を念頭に置いて答えるのが最良かもしれません。  たとえば、この質問の提起者、richan様のお名前をTOP画面で検索すれば、richan様の関心の所在が明らかになると思います。  私も、まず、そうした作業をしてから、richan様に関する情報を入手し、そのうえで、ふさわしい言葉で自分の考えを開陳すべきでした。  私の言葉は、richan様向けではなかったことを遺憾に思っています。  今後は質問の提起者の関心事を一応調べたうえで、必要に応じて、御回答しようと考えております。

richan
質問者

お礼

いえいえ。すいませんでした。 僕もただの気まぐれで聞いていますので

noname#2287
noname#2287
回答No.11

あなたは、日本人ですよね? 日本の社会環境で普通に育ったんならの話を以下に (普通とは、ずっと監禁されて成人年齢になった;アメリカの例;とか;特定の思想信教のコミュニティで外部情報は一切与えられず成人年齢に:とか;動物に育てられたとか;などの例です。) だったら、あなたの言うとおり「苦しい時の神様」がいるだけでしょう。人生で何回あるかというピンチの時に思わず願う「どうか救って、助けて下さい」的なものとして。 『…今にもコンスタンチノープルが陥落しようという時に【スプーンの上に天使が何人とまれるか?】と論議に熱中していた、堅固な教会の外では農民が略奪・虐殺を受けてる最中にだ、…』 『神道では、八百万という様に荒ぶれる神、酔っ払う神など無数の神がいる。しかし、亡くなった人が全て神になれる訳でも無い。それでは神で溢れかえって人口を遥かに超えた満員電車状態になってしまう。』 『…定義出来ないもの、それがヒンドゥー教だ。インドの民以外に理解は不可能だし、ましてや【神】の問答など誤解を招くのみだ…』 『あなたの主張する哲学用語での【神】を認めはしよう。絶対的・極限的存在の【概念としての神】は、抽象思考として確かに存在する。だが、そこに信仰が生まれる隙間があるのだ。【宗教的神】と【哲学概念の神】が部分集合が生まれれば、無神論という君は【立派な宗教的神の信者】にもなるだろう。』 ※結局あなたと同様に、私も「どうか助けて!」と願う感情に「言葉のあや」として「かみさま!」という時には存在するが、言葉としてのみだ、西洋・外国の神と文字として同じだが慣用句にすぎず、「ああ、髪さま!」でも一向に構わない。(信仰の自由を認める宗派の方、どうか怒らないで!そちらの立場でいえば「迷える子羊【orガダラの豚】」なんです) P.S. 最後に。もし「神様助けて!」と願った結果、私が本当に「神の存在を信じる事。実在を実感出来る事」が私自身に顕現すれば、その時初めて【神】の信仰者サイドにまわるでしょう! P.S. 空中浮遊が出来たから何だ!断食出来るから何だ!ハエだって空中浮遊するし、もっと複雑に自在に飛び回り天井にとまる事も出来るぞ!もっとも原始的生物の「ヤツメウナギ」は、河口から遡上前に自分の腸を消化して、繁殖まで断食どころか「消化器官を自ら食べてしまい生きる為の殺生の方法を自ら絶つんだぞ!」悔しかったら、空を飛び天井に止まって手足を擦り自分の消化器官を食べてみろ!出来たら、信者になってやろう! 

  • ranx
  • ベストアンサー率24% (357/1463)
回答No.10

この大宇宙の絶妙な構成を見るとき、その設計者が居なかったと考えるのは、私には 到底できることではありません。そのような考えは、あまりにも不自然すぎます。 ただし、以下の問題は分離しておく必要があります。 ・既存の宗教は「設計者」の意図を直接反映したものか。 ・「設計者」は「目的」をもって設計したのか。 ・「設計者」は人間に何かを命令しているのか。 ・「設計者」は人間の思考や行動に直接関与するか。 なおざりにしていい問題だとも思いませんし、私の考えは必ずしも否定的ではありませんが、 とりあえず質問に直接答えるものではないので割愛します。必要でしたら補足して下さい。

noname#2013
noname#2013
回答No.9

イエスが、十字架にかけられたとき 「神よ、神よ、なぜ私を見捨てるのですか」 と、二回も神の名を呼んでいるのですね。 これは、イエスでさえ神の存在を疑った、と言うことだと聞きました。ならば、私たちが神の存在を信じられなくとも、当然のことなのかもしれません。 私個人としては、宗教は人生の指針だと思っています。 無神論と、無宗教は分けて考えられないでしょうか。

  • chihoko
  • ベストアンサー率13% (14/106)
回答No.8

●とても 堂々とした設問で 気持ちがいいですね。  神が実際にいるかいないかは わからないことで わたしにとっては  どうでもいいことです。  大切なのは スタンスです。  神はいると信じている→生き方をまちがえる。  (いるかいないかもわからないのに わからない神を いるとして生きるから)  神はいないと信じている→生き方をまちがえる。  (いるかいないかもわからないのに わからない神を いないとして生きるから)  わからないことは わからないことと認識して生きるのが 正しく生きる処方です。  なにごとも バランスです。  ちなみにわたしは事業を展開するときは 必ず神社の神主さんに おはらいを  お願いしています。2万円くらいしか包みませんが  2万円であのパフォーマンスを味わえるのは とてもありがたいことだと  感じています。  尚 この問題には ビレ・アウグスト監督の作品(映画)「愛の風景」を  鑑賞することを おすすめします。神にまつわる人間の領域のふがいなさを  斬新な視点で示してくれています。あの子供が子供を川に捨てるシーンは  涙がとまりませんでした。嗚咽しました・・・。

noname#1496
noname#1496
回答No.7

(1)対象が存在するか否かというのは一般に回答が困難な問題。たとえば2002年4月1日午前5時7分にrichanという人間が提起した質問というものが実在するか、という問題を考えてみる。 (2)上掲の質問を少なくともcogitoは読んだ。そういう意味では、2002年4月1日午前5時7分にrichanという人間が提起した質問というものは実在したと考えられる。 (3)しかしたとえば、このOKWebの存在を知らない、あるいはネットをやらない数十億の人間にとって、2002年4月1日午前5時7分にrichanという人間が提起した質問というものは実在するのか否か・・・ここをrichanはどう認識するかが実は大きい。 (4)ある対象は存在を認識されて初めて存在すると言えるのかどうか。認識されなくとも存在すると言えるのかどうか。これも大きな問題。 (5)たとえば、richanにとっては、リトアニア共和国の首都ビリュニスの市長というのは存在するか? (6)上記(5)にたいするrichanの考えをお聞きしないことには、神の存在についての話しは進まない。ただ、ここのマナーとして、議論、論争は避けるべきだと考える。 (7)ちなみに「神は人間の想像力がつくりだした産物」と断定する者もいる。 (8)さらに、ちなみに、聖書には「みだりに神の名を口にしてはならない」とも記されている。 (9)最後に、神学者の言説と牧会者の言説のいずれに真實が存在するか、という課題を提示して、おわりにしたい。 (10)Venez a mois, vous tous qui peinez sous le poids du fardeau, et moi je vous donnerai le repos.(Matthieu 12:28)

richan
質問者

お礼

僕は、リトアニア共和国の首都ビリュニスの市長に関して、何にも知識はありませんが… ちょっと僕にはよく分からないです

  • karinntou
  • ベストアンサー率36% (27/75)
回答No.6

richanさんは、無神論者なので「神はいない」と思っているそうですが、あなたの思う神とはどういうものでしょうか? 私は哲学的(数学的?)に「いないと証明できないのでいる」と思っています。 まあ、UFOの存在を信じるとか、宇宙人はいると同列になちゃうかもしれませんが・・・。 唯一無二の神というか絶対的な力をもった神はいるかもしれない存在ですが、日本人的(?)に「八百万の神はいる!」と思ってます。 私がいう神とはなにかというと、超自然でしょうか。たとえば、地球が生きていること。生物が生存するために適していたこと。偶然かもしれないけれど、それだけじゃないような気がするのです。 「運命を信じるか」という考え方に似ているかもしれません。 これも経済学の言葉ですが「神の見えざる手」があると思います。 私は、無神論者ではないけれど、無信仰者ですね。 信仰は、人には必要なことなのかもしれません。 だから、いつの世にも様々な神がいたのだと思います。 richanさんが「苦しいときの神頼み」なのに無神論者なのは、無宗教者だからでは? 宗教には良い宗教と悪い宗教があると思うのです。 どちらも本人にとっては良い宗教なのでしょうが、周りに与える影響が良いか悪いかで違ってくると思うのです。 でも、本当に良いと信じているとか、周りが「悪いと思うのが間違っている」と思っているとかで意味ないかもですが。 「どうしてその神を信じられるの?」と思うことが多々あります。 ちなみに京極夏彦の本読んだことありますか? 鉄鼠の檻だったか(忘れたので適当です)に宗教の分類というか、詐欺か詐欺でないかというのが書いてあって結構なるほどと思いましたよ。 なんか話がずれた上に長くなってすみません。

richan
質問者

お礼

京極夏彦の本ほ読んだことがありません。興味が出まくったら読んでみようと思います。ありがとうございました。 超自然ですか~。なるほどー。ありがとうございました。

  • odd-art
  • ベストアンサー率9% (31/325)
回答No.5

 キリスト教やイスラム教で立てる天地創造の神ゴッドやアラーは、予言者と称されるキリストやマホメットが教典に説示しただけのことで、現実にこの地上に姿を現わしたことはありません。  天理教の天理王命や金光教の天地金乃神なども、教祖がある日思いついたように言い出したもので、この世に現われたことはありません。 また神社の中には、天満宮や明治神宮などのように菅原道真とか明治天皇などの歴史上の人物を祭っているところもありますが、これらは偉人を敬慕する感情や時の政治的配慮などによって、人間を神にまで祭り上げてしまっただけのことで、神本来の働きをもっているわけではないのです。  本来、神とは原始時代の自然崇拝の産物であり、宇宙に存在するさまざまな自然の作用には、それぞれ神秘的な生命すなわち神が宿っているという思想に端を発しています。  したがって、真実の神とは、ひとつの人格や個性を指すものではありませんし、神社などに祭られて礼拝の対象となるものでもありません。あくまでもすべての生き物を守り育くむことに神の意義があるのです。この神の力が強ければ人々は平和で豊かに暮せるわけですが、仏法においては、神の作用は正しい法の功徳を原動力とし、これを法味といい、諸天諸神が正法を味わうとき、仏の威光と法の力を得て善神として人間を守り、社会を護る力を発揮すると説いています。  如何でしょうか?

richan
質問者

お礼

なるほどー。おもしろいですね。ありがとうございました。

  • fileA
  • ベストアンサー率25% (1/4)
回答No.4

 釈迦の話を読んでいますと、彼は richan 以上の無神論者ですね。現在の仏教はそのあたりを誤解しているように思います。  わたしの考えは、神問題は定義の問題だと思うのです。こんな神はいないけど、こんな神は絶対いる、とかね。だからそのときの事情で定義を変えていくと、神はいたり居なかったり、忙しいことになってしまいます。  とまあ、身も蓋もない話になってしまって、申し訳ないです。  

richan
質問者

お礼

いえいえ、とんでもないです。同感です。素敵です。ありがとうございました

  • hiromuy
  • ベストアンサー率27% (103/370)
回答No.3

私は、神が存在するかしないかは、個人がそれぞれで決めることだと思います。 richanさんにとっての「神」とは、苦しいときだけ存在するそうですが、それは他人が否定出来るものではないし、またrichanさんも、他人に「神」などいないと、考えを押しつけることも出来ないと思います。 私としては、神は心の中で作り上げるもので、人によって居たり居なかったりするのではないかと思います。 居る居ないを主張するのは問題ありませんが、考え方を無理に押しつけてしまうと、無宗教であっても下手な宗教になってしまいます。

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  •  《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在・なかんづく人間という存在に先行するものは あるか?  2. ない。あるかどうか 人間には 分からない。分かるか分からないかが分からない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと》は カミという言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としてのあり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身であると。  6. 世界をつくったチカラがあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無神論である。  8. このような《自然神 / 創造神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分からないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによって(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉で〔特には人間が〕引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの――特に有神論の場合における――神とそのおのれの内面において しばしば向き合うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動態として―― 信仰とよばれる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界ないし世の中の〔しばしばかなしい〕あり方に沿って むしろ対立しこの神を否定しようとする場合もある。この種の神との関係は むろん 無神論となる。これは・これも 《無い神とわれとの関係》を内容とする信仰である。  (無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》と証明しなければならない)。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ理由も必然性もない。風車に向かって突撃するようなものである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・またおのおのわが心なる《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足りている。(と推測される)。  これを問います。ご教授ください。

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