• 締切済み

神っているの?当然いないよねー。

 哲学家の皆さまに質問です。僕は超無神論者です。  めっちゃ自分の中に閉じこもっているDEEPな方のご意見が聞きたい、今はそんな気分です。  僕は絶対、神さまはいないと思う。僕の神様はどーしてもつらいときだけ存在します。苦しいときの神頼みですね。それ以上ではなくそれ以下ではない。  皆さまの回答はできるかぎり読みますが、あまりに読みづらいのは勘弁してください。僕は本当に超個性的な方を待ってます、どんな考え方しているのかちょっとでも知りたいです。

  • richan
  • お礼率45% (187/409)

みんなの回答

  • kyuubi
  • ベストアンサー率26% (4/15)
回答No.42

いっぱい回答されてるので私も答えたくなりました。 神様ですか。いるんじゃないですか? 人によって、何を神の対象とするのかでイメージや役割は変化しますが私はいると思います。 自然に神を見れば、恐ろしいから崇めて怒りを鎮めてもらおうとします。 日本の神様もやっぱり恐いからお祭りするんでしょうし。平将門とか・・・ あとは絶対的な存在であるものを神とする考え。 法や規律、秩序なども我々に教えたのは神だという宗教もある。 ではなぜ、人は神が必要なのか? 生きて行くうえでの方向性を向けてくれる神がいれば不安はなくなりますね。 その不安をいつまでも忘れていたいから、人は神を頼るんでしょう。 神に願っている間はある意味この世界から解放されている時ですし、これが仏教で言う解脱なのかはわかりませんが・・・ まあ神で無くとも神に変わるものは絶対世界にいますでしょう。 指導者であったり、大統領であったり、カリスマ性を持つ人であったりですね。 人は偶像がいるんでしょうね。でも、イスラムは確か偶像崇拝は禁止してたり、 面白いものです。 私は、神仏や宇宙人、幽霊や妖怪も信じています。いるとおもいます。 でも、マスメディアの言う事は疑っております。 こんなもんでしょうか・・・

richan
質問者

お礼

みなさま回答ありがとうございます。ここでひとまずまとめてお礼を言わさせていただきます。 あんまり深く考えながら読んでいるわけではないので、 真意は理解してないかもしれませんが、とりあえず全部読まさせていただいております。 感想といたしましては、思ったよりも異常な回答が無くてちょっと残念って感じですね。 とにかくご回答ありがとうございます。

回答No.41

「いない」とおっしゃる、「頼み」となるその「神」とはどの神のことでしょうか。 絶対にいないはずの神をいないと言えることはできえません。もちろん頼みとすることも。 絶対にいないのならそれを「神」と名付けることもできえません。 絶対いないと思われるなら、当然「神」と名指すこともできえません。 おっしゃったその言葉にいないはずの神はすでにあるのではないのですか? 正にそれ以上ではなくそれ以下ではない。 存在が存在する、という形式があるのは何ででしょうか。 「神」と言ってみんな同じようなものを想像でき得るのはどうしてでしょうか。 「善」という言葉で「悪」を表象できえないのはどうしてでしょうか。 「神」という言葉を言わなくても、何かがそこにあるような気がしませんか? 私はそのように考え進めていくと「神」という言葉でなくとも、その言葉をあてはめたくなるある何かを感知します。 もちろん当然宗教的な信仰の対象として信じるのでもなく、困った時に頼るのでもなく、信じないのでもなく。

  • frogg
  • ベストアンサー率28% (7/25)
回答No.40

迦 微  The mean of existence・・・ It makes various and is pure・・・ It is made transparent And all colors are included It agrees to a time And the knot of the last of the name Of being eternal is solved.  信仰は自由ですが、神は、存在しない。  ゴッドは、宇宙には、いません。  人格神、これは、祈りを保任するもので  信仰の対象でしょう。    

  • nyozegamon
  • ベストアンサー率45% (895/1969)
回答No.39

神は存在します。 神は宇宙の法則であります。 数学で言うところの未知数Xでもあります。 未知数であるがゆえに、あらゆる可能性を包括しています。 0から∞(無限大)まで全てが神。宇宙には神の意志が充満しています。

  • t-toru
  • ベストアンサー率0% (0/9)
回答No.38

たぶん、神の存在というのは人間が作った知恵だと思います。

  • kigineco
  • ベストアンサー率28% (30/105)
回答No.37

「質問者への」という注意書きがありましたので、 この場では相応しくないのかもしれませんが、 「人即神というのは理解出来ません」という odd-artさんの問いかけに対して────。 本来の質問を「人と神」という二者に限った趣旨だと理解していたものですから、 言葉足らずだったのかもしれませんね。 結論的にいえば、人即神であり、猫即神であり、花即神であり、 樹木即神ある。 つまり、天台でいわれているような「山川草木悉皆成仏」が、 お釈迦さんが我々に伝えたかったことなのだと、私は思っています。 そして、「だから慈しみなさい(もちろん自身と自他のすべてに)」と 教えたかったのだと思いますよ。 「お釈迦様も言っておられる」という指摘は、たしかにそうかもしれません。 なぜなら、お釈迦さんが直接に書き残したものは何もありませんから。 残っているのは、すべてお弟子さんたちの、お弟子さんたちの解釈による、 お弟子さんたちなりの表現をしたもの、つまり「経文」だけです。 そこには、仰っているような神(仏)も出てきます。 それらは、あくまでも無知なる我々でもわかりやすく理解できるように、 お弟子さん自らが考案された便宜上の存在だと思います。 でも、数多ある経典、経文、そのなかに出てくる多くの神(仏)が共通して 言わんとしていることは何だろうか。 それは、先ほど述べたことであると、私は勝手に思っています。 odd-artさんには、「私が勝手に思っていること」のひと言で ご勘弁願えないでしょうか。 本来の質問者を横に押し退けての問答は、禁じられておりますゆえ。

  • fpc70
  • ベストアンサー率17% (3/17)
回答No.36

あなたが神かもしれませんな。笑。 ここにいる回答者全てが違った種類の神かもしれません。笑。 実在がわかんないんだから。

  • odd-art
  • ベストアンサー率9% (31/325)
回答No.35

>お釈迦様だって、そう言っておられるじゃないですか。  人は、神などと言っておられる経文を知りません。  kiginecoさん、良かったら、教えて下さい!  釈尊は、諸天善神として、帝釈等の神を説かれていますが、人即神というのは、理解出来ません。  ヒンズー教ならまだしも、仏教においては、疑問視される説ですよ。

  • kigineco
  • ベストアンサー率28% (30/105)
回答No.34

神さまはちゃんといますよ。 だって、質問しているrichanさん自身が神さまなんだから。 ここで回答しておられる皆さんも、それぞれ神さまです。 もちろん、私だって神さまです。 お釈迦様だって、そう言っておられるじゃないですか。 でも、人はみんな、神さまはどこか違うところにいると思ったり、いや、そんなもんはいないと言ったりしている。 神頼みをすれば、かなうんですよ。 神頼みをするということは、「なんとしても○○をしたい!」と自分で強く願っているからですよね。だから、桑原和夫じゃないけど、「ああ、神さま~」となる。 「なんとしても! なんとしても!」と強く願っていれば、人間って不思議なもので、思考が、身体が、その実現を果たそう、果たそうと動いていく。勝手にどんどん動いて、果たせるかな、思いが実現する。そう、神頼みが効いたわけですよ。 神さまがかなえてくれたんですよ。私という神さまが、私に対してかなえてくれたんですよ。 もし、思いが実現できなかったら、それは神頼みのしようが足りなかっただけ。つまり、自分自身が強く思い、強く持続して願っていなかっただけのこと。 貧乏神も同じかな。自分で勝手に貧乏になるようにしていて、貧乏になっているだけなんだから、貧乏神、それは自分自身なんですよね。 白隠禅師という禅宗のお坊さんが言っておられます。 「衆生近きを知らずして、遠く求むるはかなさよ」 「たとえば水のなかにいて、渇を叫ぶが如くなり」 ちと的外れかな……。

  • midgard
  • ベストアンサー率0% (0/0)
回答No.33

神様は人間の創った「何でもできるスーパーマン」この人信じてればそのうち良いことあるよ。っていうことから創った人。

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  •  《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在・なかんづく人間という存在に先行するものは あるか?  2. ない。あるかどうか 人間には 分からない。分かるか分からないかが分からない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと》は カミという言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としてのあり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身であると。  6. 世界をつくったチカラがあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無神論である。  8. このような《自然神 / 創造神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分からないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによって(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉で〔特には人間が〕引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの――特に有神論の場合における――神とそのおのれの内面において しばしば向き合うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動態として―― 信仰とよばれる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界ないし世の中の〔しばしばかなしい〕あり方に沿って むしろ対立しこの神を否定しようとする場合もある。この種の神との関係は むろん 無神論となる。これは・これも 《無い神とわれとの関係》を内容とする信仰である。  (無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》と証明しなければならない)。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ理由も必然性もない。風車に向かって突撃するようなものである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・またおのおのわが心なる《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足りている。(と推測される)。  これを問います。ご教授ください。

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