• ベストアンサー

般若心経における悟りとは何でしょう

neil_2112の回答

  • neil_2112
  • ベストアンサー率73% (196/268)
回答No.10

いろいろな受け止め方があると思いますが、ここでは般若心経の代わりに、「金剛般若経」という同じ系統の経典をご紹介して説明します。「空」の説き方が定型化する以前の経典で、般若心経よりもこちらのほうが、「空」を何とか正面から表現しようと努力している分、中身が少しわかりやすいと思うからです。 どんな宗教でも善行を積むことを目的のひとつにおいています。大乗仏教ももちろん例外ではありませんし、ひとに何かを与えるといったこともその善行に含まれます。ただ、その善行をおこなうにあたって、初期の大乗経典の作者たちは、こんなことを考えたのです。 「善を善だと認識して行っているうちは、本当の善とは言えないのではないか」 例えば、何かをひとに与える時に、私たちは見返りを意識しがちです。意識していないつもりでも、例えば高いか安いかという交換価値を判断したうえで行っていますし、ひとの目にうつる自己像や自尊心だとか、いろいろな思いをめぐらした結果として、いわゆる「善行」を行っています。実際には、純粋な贈与と呼べるような行為はなかなか実践できないわけです。 初期の大乗仏教に属する人たちは、こういったことを一種の思想的な汚染だと考えました。そして、どうしても人間を飲み込もうとするこの汚染から免れようとする人を、菩薩と呼んだのです。 結果、金剛般若経は、最初のうちは「何かにとらわれて施しをしてはならない」、「跡を残そうとして施しをしてはならない」などと説きました。やがてその教えは、「菩薩は菩薩ではない。このゆえに菩薩である」といった表現をとるようになっていきます。純粋な善をおこなうためには、善の意識を離れなければならない。だから、善をおこなう菩薩は、善の意識を離れて初めて本当の菩薩となる、というのです。 「善」の意識を離れるということは、単に「何が善いことか」を考えない、というだけでは済みません。「善」が「悪」に対立する概念として生まれてくる以上、「善」について考えないということは、「悪」の意識も離れることに他ならないからです。「善と悪」という、ものごとを二分して価値づける私たちのものの見方が根本的に問われることになります。さらに仏教は、「善悪」だけでなくて、「正邪」、「美醜」といったわけ方で世界を見ること全体(こういう見方を仏教では「分別」といいます)を放棄することを理想とするようになっていったのです。 こういった理想を実現しようと思えば、究極的には当然、「自分」と「他人」という分類にたっている、私たちの生活自体が問題とならざるをえません。なぜなら、「自他」を分けたうえで、その自分の利益や快楽、体面などを知らず知らず求めてしまっていることが、分別の根底ちかくにあるものだからです。こうして、金剛般若経では、「自分という思い」や「自己という感覚」を完全に離れた人を究極の理想像として、悟った人、つまり「如来」と呼んだのです。 その如来も、金剛般若経の言葉を借りれば、「如来は如来ではない。このゆえに如来である」と表現されます。なぜなら、悟った人には「悟ったという意識もない」し、「悟ったとされる自己もない」からです。そもそも「悟り」というものも、「悟りと迷い」という分別の結果として意識に上るものでしかありませんから、この経典は、「如来の悟りといわれるようなものも存在しない」とまで説くことになります。悟りとは何か、という疑問にこだわると悟れない、というのではなくて、悟りそのものがもともとないのだ、というのです。 「空」というのは、ものごとに実体がない、という思想で、やがては言語そのものへの批判に向かいますが、まずはこういう「理想の人間像」を描いて理解するのでなければ、単なる認識論として上滑りしてしまいます。対立する概念をおしあてて世界を見ること、それは私たちの普通の生活のあり方ですが、それが仏教の理想とする人間像の形成にとっては障害となる、そのことを明らかにするためにこそ、「空」という思想が説かれたのです。 ですから、「空」というものは別にどこかにある実体的なものではないし、もちろん悟りの中身でもありません。理想的人間がいろいろな執着をとりはらって、日々をあるがままにふるまうさまをなんとか説明しようとした言葉に過ぎない、といってもいいのではないでしょうか。 しかし、ものごとを実体的にみることが人の常ですから、「空」を悟りの中身としてまつりあげたり、ドグマとしての「空」にこだわってしまう、という危険な落とし穴が常に存在します。執着を離れるための「空」が、逆に執着の対象になってしまうのです。 「空」を説く初期の経典は、ですから、「空の教えは偉大な薬だが、逆にこれに執着して病気になってしまうと治しようがない」(『大智度論』)だとか、「空亦復空」(空もまたまた空である、『大般若経』)などと、そこにとらわれる危険性を繰りかえし説いています。「空」に執着する思いもまた、常に解体する努力をしないといけないのです。 答えになったかどうかわかりませんが、般若心経でも事情は同じです。「空」という言葉に迷わされてあまり観念的な認識論におちこんだり、「これだけが正しい解釈だ」という一種のドグマにひきずられたりしては、本末転倒といわれかねません。仏教は人間の営みから始まってそこに帰るものですから、経典から求められる人間像を大きな枠でつかもうとすることが大事ではないかと思います。 ※雑駁に書きましたので、わかりにくいところがあれば補足に応じさせてもらうつもりです

wreath
質問者

お礼

丁寧な説明をありがとうございました。とても分かりやすかったです。私なりに解釈すると次のようになりますが、合っているでしょうか。 「火事になって取り残された赤ちゃんを救うために自分が焼け死ぬことも考えず火の中に飛び込む親の愛情」つまり無償の愛ですが、この愛を(この例の)放火して赤ちゃんを殺した相手に対しても持つことができるのが悟りを開いた人。 別の点から。 NHKの「心の時代」を見ていたら、お坊さんが「人に優しくしてあげること」と言っていました。私はこの「してあげる」にとても引っかかります。「優しくすること」と言えばいいのにと思ってしまいます。

関連するQ&A

  • 【仏教】般若心経は教義にあらずとはどういう意味です

    【仏教】般若心経は教義にあらずとはどういう意味ですか?

  • 般若心経について

    般若心経を読んだりするのはそんなにいけないことなんでしょうか? 私の家系は般若心経を読む宗派だったようで、お盆や身内のお葬式などで小さな頃から聞いてきましたし、御坊様や家族と一緒に読経してきました。 その頃は意味など知るはずもなかったですが、お経のリズムといいますか、最後の真言とされる部分が特に好きで暗記して祖母と一緒に読んでいたことがあります。 一度夏休みに、祖母に連れられて写経をしに行ったこともありました。 しかし、最近ネットなどでよく「般若心経は素人が読むといい霊も悪い霊も呼んでしまうので読まない方がいい」というのを見かけます。 でも般若心経の意味を調べてみると(難しい言葉ばかりでちゃんとは理解できなかったのですが)とても素晴らしい意味を持ったお経なのだということが分かりました。 「悪いものを呼び寄せる力がある」と思う心が悪いものを呼び寄せてしまうのだということは分かります。 半分都市伝説みたいなものなのでしょうが・・・ でも、何故そこまで般若心経を悪く言われなければならないのか・・・と思ってしまいます。 みなさまはどのようにお考えですか? よろしければご意見をお聞かせください。

  • 「浄土真宗と般若心経」のベストアンサーを読んで。

    「浄土真宗の教義に反します。」とありました。  教義に反すると、どうなるのですか? 私は大乗仏教の経典の中で、般若心経が一番ありがたいお経だと思っています。浄土真宗の門徒です。「般若心経を捨てろ。」と言う仏様には救って欲しくは無い。

  • 般若心経の効き目について。というか、お経って何だろう。

    先日、思うところがあり霊視に行って来ました。 その際蛇に憑かれていると言われたので、近々祓ってもらおうと思っています。 で、祓うための準備としていくつか申し渡されたことがあるのですが、その中に般若心経を書き写すという作業がありました。 般若心経って、よく法事のときなどに読まされたりするお経ですよね? 軽く調べてみたら般若心経は”悟りをひらくための知恵を説いた教え、その核心”が書いてあるもので、内容としては”何事にもこだわりの無い心、空の境地”を説いたものだとのこと。 ここで疑問。 悟るための方法を説いた文章が何故お祓いや先祖供養に役立つのでしょう? (私が行ってきた霊視の真偽・是非ではなく)お経とは何か、お経の意義、お経の使い道???みたいなものを簡単にわかりやすく教えてください。

  • 般若心経と浄土教

      色即是空空即是色、この世の全ては無であり空であると説く般若心経。  易行易修、念ずることである、ただひたすら念ずれば救われると説く浄土真宗。 この2つ教えを一つの仏教として結び付け一つに統合したい。 どのように考えますか。    

  • 般若心経と瞑想について

    ある時期、毎日般若心経を声に出して唱えていました。 その効果が出て、いつも頭の中は澄み渡っていました。 そして、瞑想状態が30分と続き、魂の心地よさを感じました。 今、事情があり、声に出して読めない環境に住んでいます。 頭の中で声を出さずに、般若心経を唱えてもこのような魂の心地よさを感じたり、瞑想の境地に浸ることができるでしょうか?

  • 般若心経の無苦集滅道について

    どなたか詳しい人がいらっしゃいましたら、教えてください 般若心経の中にある一節 「無苦集滅道」の箇所についてなのですが、 これは一体どのように解釈すれば良いのでしょうか? 苦集滅道が無いということは、苦しみから逃れる方法などないと言っているように思えるのですが、 それだと仏教の基本理念?に反するように思います 悟りの境地に達したならば、そのようなことはどうでも良くなるとかそういう意味かな? 解釈の仕方はひとつではないのかもしれませんが、基本的に仏教ではこの点について、 どういう風に解釈されているのか知りたいです 人それぞれ好きなように解釈すれば良いなどといったあいまいな感じではなく、 できるだけはっきりした返答が聞きたいです 自分の宗派、あるいは自分個人としてはこのように考えているというので、もちろんOKです 他の宗派や他人の意見は気にせず、回答者御自身の意見として述べてください なるべく自信を持ってズバっとお答えしていただけるとありがたいです 仏教について無知な私ですが、どうかご教示くださいませ よろしくお願いいたします

  • 般若心経は間違った経典

    日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老の著書に「般若心経は間違い」があります。特に「空即是色」この言葉の扱いについての指摘が印象に残りますが、般若心経肯定派は、この意見に対してどういう反論がありますか? 色即是空、これは上座部仏教でも言われることで経典にも根拠を求められるそうですが、空即是色、これが事実無根の創作だろうということです。 いろいろな角度からのご意見お待ちしてます。 返事は遅れると思いますが、どうぞ宜しく。

  • 座禅会で般若心経を読経するタイミングは?

    アメリカ在住者女性です。座禅会で般若心経を読経するタイミングについての質問ですが 私が以下に書くことで間違っていることがあっても ご遠慮なくご指摘頂ければ幸いです。 アメリカのメディテーション・座禅の会に参加し始めて一年二ヶ月になります。 この会は どの宗派のメディテーションでも関係なく(日本の禅宗、チベット流 あとは小乗仏教 =theravada が主)メディテーションをしている人なら誰でも参加できる会です。先生やお坊さんは居ません。みんなどこかの集まりの生徒ばかりの集まりです。 先週初めて 会をリードさせて頂く機会があり 簡単なことしかしなかったので何とか責任を果たすことができました。 小乗仏教やチベット流のメディテーションをしている人がリードするときは メディテーションの始めと終わりに小乗仏教やチベットのお経のようなものを唱えるので 禅宗の座禅をする私がリードするときは 般若心経を読経したいのですが 座禅・メディテーション をする ”前” に読経するべきか ”後”にするべきかが わかりません。 日本人は私一人なので アメリカ人の友人たちは 次に私がリードするときに般若心経を読経することを楽しみにしてくれています。 分かる方がいらっしゃtたら 是非教えてください。 又 分かれば 何故かも教えて頂ければ幸いです。 因みに 私は45分間の座禅の間は終始 無理なく結跏趺坐で座り通すまでに最近ようやくなれました。 それで 最近始めて 座禅のリードができるまでになりました。 ご回答の程 何卒よろしくお願いいたします。

  • 般若心経や気を高める方法など教えて下さい

    ↓に質問を出していてtimeupさんに教えていただいた般若心経について(ありがとうございました)webで検索したのですが色々出てきました。間違った唱え方では失礼だと思いますし気持ちを込めて丁寧には心がけますがこれだけは大切なことという教えと他に自分の気を高めていけるような方法もありましたら皆様からアドバイスいただけたら嬉しいです。宜しくお願い致します。