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般若心経と浄土教

  色即是空空即是色、この世の全ては無であり空であると説く般若心経。  易行易修、念ずることである、ただひたすら念ずれば救われると説く浄土真宗。 この2つ教えを一つの仏教として結び付け一つに統合したい。 どのように考えますか。    

みんなの回答

回答No.29

それ(仏教として結びつけて一つに統合する事)は無理だと思います。 仏教は時代を経て、大きくなり過ぎてしまいました。 そもそも、大元は一つであった仏教なのに、宗派の優劣や、どの経が正しいか、それぞれの宗派が自分のやり方を主張する事があるとすれば、その時点で、仏教の寛容さから逆行します。 もし、一つの仏教への回帰を目指す人がいるとすれば、まずは特定の宗派や経の名前を捨て、しがらみをなくすのが先だと思います。 そんな面倒な事は誰もしないので、多分今後も統合される事はないでしょう。それはやむを得ないとも思いますが。 せめて、現在の各宗派の関係者の方が、他の宗派を攻撃したり、自分の宗派が正しい、優れている、みたいな事をおおっぴらに言い出さない事を願っています。 それをやり始めた時点で、その宗派は仏教を名乗る資格すらないと思いますが。 一方で、寛容の精神があるからこそ、般若心経があり、様々な宗派があり、これを認めているという全体としての日本の仏教の世界は、それはそれで仏教のあり方としては自然なような気もします。 要するに、関係者は余計な事を考えず、一般人である我々、世俗の者達が、好きなように宗派を選び、好きなように経を選び、好きなように仏教と向き合えるという状況が保てるのであれば、それはそれで日本は仏教が自然な形で文化に溶け込んでいるとも言えると思います。

回答No.28

 さじを投げました。

utayomi_2011
質問者

お礼

  かくにん!よかった。  

回答No.27

 ★ 生きている内でも念じておれば半分石になれるってことなんだよ。  ☆ そんなことは 趣味嗜好の世界。  ★ 念じておれば  ☆ という人間のハカラヒがあるかぎり 人間の能力の範囲を出ない。  それは 非思考の庭とは 別。  張子の虎ならぬ 絵に描いた餅 いや 要するに偶像の神。  偶像というのは 彫像などのかたちを言うだけではなく 観念の偶像もある。  すなわち それが オシエです。  ★ 生きている内でも念じておれば半分石になれるってことなんだよ。  ☆ と言って行き これをオシエとすることさえ出来る。そしてこれを売りものにするのが シュウキョウ。  シュウキョウと信仰とは 似ても似つかぬもの。  思考の産物と非思考の庭と。  ここんところをよく考えよくとらえるようにしなさい。  経験事象と非経験の場との違いです。  これらふたつの領域のあいだには 超え得ない溝があります。  この溝を しかも 超えて来るのは われわれ人間ではなく 神のほうなのです。  だから 何もしない。あるいは 何をしていてもよい。ただし 人間のすることは すべて経験事象であるからには 信仰ではなくまた それによっては信仰の神には到らない。  空観と親鸞の信仰説とを結びつけたと言いましたが それは したがって  ★ オシエ  ☆ の問題では ありません。補助線を引いてもいいが 補助線が信仰ないしその神本体ではない。  また オシエなる補助線を得て 非思考の庭なる信仰が得られるのではない。補助線などなくても 人によっては 直接にヒラメキがあたえられて アートマンなる霊のハタラキが作動する場合もある。  補助線は 偶像だということを肝に銘じてください。

utayomi_2011
質問者

お礼

  >★ 念じておれば  ☆ という人間のハカラヒがあるかぎり 人間の能力の範囲を出ない。  それは 非思考の庭とは 別。 あらゆるハカラヒを取り除くとは、やはり石になる以外はあり得ない。 念じつつ生きたまま石になることを生き仏といいます。 人間の能力を超えているかどうかは分からない。 ただし非思考の庭についてはハカラヒが生み出した観念であり、そんなものはどこにでも転がっている。  

回答No.26

 死んだら ごみ。  生きている内が花。  石からでも アートマンの霊はハタラキを起こすかも知れません。  空観と親鸞の信仰説とのあいだの関係 これについては すでに答えています。

utayomi_2011
質問者

お礼

  >生きている内が花。 分かってないな。 生きている内でも念じておれば半分石になれるってことなんだよ。  

回答No.25

 《非思考の庭》は 生まれつき自然本性としてそなわったもの。  アートマン(霊我)  =アン‐アートマン(無我)  =ブッダター(仏性)  =タターガタ・ガルバ(如来蔵)  =ルーアハ(神の霊)  =プネウマ(同上)  =スピリトゥス  =たましひ  とそれぞれ呼ばれる《神の霊》が われわれの身と心なる存在にやどる。という想定です。  あとは 神の声の音連れ(=訪れ)にあたって これを受け容れるということ。こういう自覚において 潜在したアートマンが ヒラメキなどをつうじてハタラキを現わす。  何もしなくてもよいの。  (ただし 何をしていても かまわない。)  同じことを二度三度と言わすな!!!!

utayomi_2011
質問者

お礼

>何もしなくてもよいの。 人は何もしなくても、そのうち死んで石になる。 死んで石になるとあの世に逝く。 あの世に逝けば誰しも非思考の庭に住むことになる。 だから非思考の庭に住むには石になればよいと初めからゆうておるではないか。  

回答No.24

 ★(No.22お礼欄) 人間は石になる以外純粋な無や空を知ることは出来ないからである。  ☆ こんなこと 誰が決めた?  真理は――つまり神は―― 人間が何をやろうとどんなことを思おうと たたえようがののしろうが 真理でいつづける。  《石になれば 神のもとにある》ことが出来るなんてことは 決まっていません。  人間が神を規定してはダメ。思考や想像の産物としての神しかできなくなる。    またもとに戻って 錯乱をしはじめたようだ。  おれの所為ではなく おまえの無能ゆえだ。と知りなさい。  無駄なことはやりたかねえや。

utayomi_2011
質問者

お礼

>無駄なことはやりたかねえや。 分からんやつだな。 非思考の庭に住みたいんであれば、石になる以外ないと言ってんだよ。  

回答No.23

>科学を利用しようとする宗教は総じて邪教であることが分かっているからである。 >仏教は信仰であり、信仰にとって科学は別世界である。 >これにて何の問題もありませぬ。 お釈迦様の説く真理は、遍く科学も包含したものです。 他の邪教はいざ知らず、広い意味でお釈迦様を含むインド哲学の説く真理は 西洋科学の先を行くものであり、20世紀になってやっと西洋科学によって 実証されつつあるというのが実態です。 決して別世界ではありません。

utayomi_2011
質問者

お礼

  なぜインドでは仏教を捨て、ヒンズー教に走ったのか一度その理由を考えてみてはどうか。   

回答No.22

 ★ (No.21お礼欄) 純粋な非思考であるためには人間は石にならなければなりません。  ☆ 《純粋》志向 あるいは 《無私》の思想 こういった究極の状態が日本人は好きですねぇ。  それは 現実を見ていないからです。見ようとしていないのです。  《非思考の庭》は なるほど神の名を受け容れるという経験的な意志行為によって〔あたえられつつ〕成る。のですが すべては 信仰にかんするかぎり 人間は何もしないのです。  あるいは してもよいのです。何をやっていてもかまわないのです。  そこへ神のほうから ヒラメキをあたえるためにやって来る。  ★ 人間は石にならなければなりません。  ☆ などということも ありません。仮りに石になっても じつは いいのです。いいのですが ならなければならないということは ないのです。  この自由をあじわってください。

utayomi_2011
質問者

お礼

  人が飯を食ったり、本を読んだり、テレビを観たりラジオを聴いたり、人と話をしたりしている間、つまり人間が生きている限りは純粋な非思考というものはあり得ない。 たとえどのような屁理屈をこねようと非思考の庭を考えているうちは非思考ではないのである。 この世の全ては無であり空であると念ずることはプロセスなのであって結果ではない。 どれほど一生懸命になって念じようと人が純粋な無や空に至ることは決して出来ないからである。 念じるとはひとつの方向を目指すベクトルであり、その行為はプロセスなのであって結果ではない。 人間は石になる以外純粋な無や空を知ることは出来ないからである。  

回答No.21

 ★ (No.20補足欄) ~~~~~~~~~~~~   念ずるとは如何なる場合であれ、この世の全ては無であり、空であるとひたすら念ずることである。  ★ (同上 お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~   だから言ってるでしょ、《義無きを以って義とする》とは《ひたすら念ずる》ってことなんだよ。  同じ意味なんだよ。  一切の疑いを持たず、無条件に、ただひたすら念ずるってことなんだよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 疑問です。  (あ) ★ この世の全ては無であり、空であると・・・  ☆ ・・・思う》。と続くのではありませんか? だとすれば 思考に非ずではなくなる。  (い) ★ 一切の疑いを持たず、  ☆ というのも 《疑いを持たない》と計らっているし 《持たない》ことを確認している。よって 思考に非ずではなくなる。  (う) ★ 無条件に、ただひたすら  ☆ これですらも 思考ないしハカラヒが入って来ます。いっさいの考えや思いや気持ちやを捨てるというハカラヒがあります。  信仰と思考とは 一字違いですが 天と地ほどの違いがあります。

utayomi_2011
質問者

お礼

  >☆ 疑問です。 これは疑問ではなく、捻じ曲げである。 つまり分かりきったことを、捻じ曲げようと頑張ってるのです。   純粋な非思考であるためには人間は石にならなければなりません。    

回答No.20

 ★ (No.18お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~   >けっこう めんどうくさいのです 信仰は。  てっことは非思考ではなく思考ってことだろ。  非思考であればめんどくさいはずはなかろう。  非思考だの思考だのと考えるからめんどくさいのである。  そんなことは考えずに、ただひたすら念ずればよい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そういう意味ではありません。  《非思考》なるコトを 《思考》によって説明すること。これが むつかしいのです。  おのれの主観に 神の声が窓をノックするかのごとく おとづれたとき これをわが心に受け容れること――これが 信仰の初めですが・そしてそこで《非思考の庭》が成るのですが―― これは 主観内面のコトですから それが成ったのならば 自分にとって真実です。  ですが この主観真実を ほかの人たちに経験合理性において納得できるように説明することは また別のことであり それは むつかしい。  そのノックする音連れ(訪れ)を心に受け容れるというのは わたしの経験的な意志行為です。  けれども その受け容れたというのは ひとつに仮りのシルシとして《神》なら神という言葉であり《キリスト》ならキリストという言葉なのですが もうひとつにはそのシルシが示す本体は 《非経験の場》だからです。  信仰とは 《非経験》のものを心に受け容れるという経験行為です。  その結果は わが心なる《非思考に庭》の成立というかたちになります。    早い話が ヒラメキがその庭に起こるということです。  ヒラメキは そのみなもとは 分からない。非経験の場です。それが起きて受け留めたものは 何らかのイメージであったりちょっとした考えであったりする直感(または直観)です。  つまり ヒラメキが 非経験の場と経験世界とを言わばつないでいます。これが 信仰としての非思考の庭に起きる事態です。    《信じる》という言葉で言いますが これは けっきょく《神》を受け容れたということです。  そのあと そのつど受け容れたということを――つまり 非思考の庭のことを――思い出すことはあっても これを《念じたり》あるいは《観念で体系づけたり》することは ありません。必要がないし そうしても出来っこありません。思考に非ずなる庭のことだからです。  色即是空・空即是色という説明は・つまり《空》観は このような非思考の庭(それは ひとが生きているかぎり 動態)のあり方を けっこう分かりやすく語っているのではないでしょうか。  かたち(色)はあるが それが本体そのものではない(つまり空である)。〔色即是空〕。  空だと言っても それを仮りに表わすものがある。かたち(色)をもった言葉としてのシルシである。あるいは ヒラメキとしてのシルシである。〔空即是色〕。  《念ずる》というのは このようにして信仰の動態を生きるとき 主観としてですが かなりうれしいこと・たのしいこと・ありがたいことが与えられたり生じたりするものです。だから そのとき ありがたいなぁという意味で 神を念じることはある。こういう意味です。  神を念じるとき それは アミターバ・ブッダの名で 感謝を述べる場合もあれば ブラフマンなる神よ あなたは讃えられよと言って 感謝する場合もあるでしょう。その人ごとに自分の神の名で たたえることでしょう。これが 強いて言えば 念ずることです。  《ひたすら念ずる》ことは 必要ないと思いますよ。  わたしたちが悩みを打ち明けるその前に 神はすでにそのことを知っているはずですから。  義無きを以って義としてください。

utayomi_2011
質問者

お礼

>《ひたすら念ずる》ことは 必要ないと思いますよ。  わたしたちが悩みを打ち明けるその前に 神はすでにそのことを知っているはずですから。  義無きを以って義としてください。 あんたは物分りの悪い人だね。 だから言ってるでしょ、《義無きを以って義とする》とは《ひたすら念ずる》ってことなんだよ。 同じ意味なんだよ。 一切の疑いを持たず、無条件に、ただひたすら念ずるってことなんだよ。

utayomi_2011
質問者

補足

  > 《念ずる》というのは このようにして信仰の動態を生きるとき 主観としてですが かなりうれしいこと・たのしいこと・ありがたいことが与えられたり生じたりするものです。だから そのとき ありがたいなぁという意味で 神を念じることはある。こういう意味です。 うれしかろうが、たのしかろうが、ありがたかろうが、くるしかろうが、かなしかろうが、そのようなことはどうでもよろしい。 念ずるとは如何なる場合であれ、この世の全ては無であり、空であるとひたすら念ずることである。  

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