• 締切済み

般若心経の効き目について。というか、お経って何だろう。

先日、思うところがあり霊視に行って来ました。 その際蛇に憑かれていると言われたので、近々祓ってもらおうと思っています。 で、祓うための準備としていくつか申し渡されたことがあるのですが、その中に般若心経を書き写すという作業がありました。 般若心経って、よく法事のときなどに読まされたりするお経ですよね? 軽く調べてみたら般若心経は”悟りをひらくための知恵を説いた教え、その核心”が書いてあるもので、内容としては”何事にもこだわりの無い心、空の境地”を説いたものだとのこと。 ここで疑問。 悟るための方法を説いた文章が何故お祓いや先祖供養に役立つのでしょう? (私が行ってきた霊視の真偽・是非ではなく)お経とは何か、お経の意義、お経の使い道???みたいなものを簡単にわかりやすく教えてください。

みんなの回答

  • bechanyo
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回答No.14

人は祈ることによって対象の神仏に同化し、仏に成るからです。 仏は自分の心の奥に元々存在するものであり、 般若心経の書写読誦によってそれが表面に引き出されるわけです。 また、外部に存在する魔というのは憑依される人間の邪念によって引き寄せられるのです。 先祖の迷いも、また人間の迷いも、この邪念によるものです。 お経の書写読誦によって自分の心の中の仏が顔を出し、邪念が追い払われて清められるわけです。 この清められた心を神も仏も先祖もお喜びになります。 しかし、邪念というのは、一度追い払っても繰り返し私たちに纏わりついてきます。 従って私たちは、心の清めというものをその都度繰り返し行わなければいけないということです。 そうしているうちにその人の心境というのが少しずつ高まってくるのです。

回答No.13

弘法大師の「般若心経秘鍵」について書かれた本を読んでください。 お経はその内容を理解することも大事ですが、読誦(読み唱えること)が大事です。 なお般若心経は仏教の精髄を説いたお経であると言われています。 以上、参考までに。

noname#182747
noname#182747
回答No.12

実は私も知り合いの霊能者の方に「般若心経」をあげるように言われました。私の場合こうです。 まず、冒頭の「仏説」をはずして、「摩訶」からはじめてくださいということと、「○○家のご先祖様、どうかご無礼をお許しください。この場を借りて般若心経をあげさせていただきます。」と言ってから読経して下さい。一回でいいですと言われました。私はそれと同時に神棚を家に設置し、先に神棚にお供えと合掌してから(これも手順があります)、上記のような手順で読経していました。何ヶ月か経ってその霊能者の方に「もう成仏されてますよ。」と言われました。それ以降は「あなたが読経したいなと思ったときにしてください。」と言われました。その方曰く、「お経は霊界の方にとって食事です。」とのこと。また、別の霊能者の方に食事というのは?と尋ねたところ、「贈られたもの(この場合お経)はやっぱりありがたくいただいちゃいますよ。そういうことじゃないですかねー。」とおっしゃってました。ぴんとくるようなこないようなという感じですが、ある文献には、地上で最初に生まれた言葉はサンスクリット語らしいと。般若心経はサンスクリット語(梵語)で表現されています。漢字は当て字らしいです。つまり霊界と地上の人間との共通語が実はサンスクリット語であるといことらしいです。生きているときに知らなかった生命とはなんぞやみたいなことを、成仏できていない霊に般若心経で話しかけると共通語だから理解が早く「あーなるほど!」と気づき、こんなとこ(地上)で幽霊やってる場合じゃないよと目覚めさせてしまう効力があるということでしょうか? ちなみにサンスクリット語で自動書記(霊界からのメッセージをその人の意志に関係なく手が自動的に動いて書き綴っていくこと)をしている海外の方もいらっしゃるそうです。お役に立てば幸いです。

回答No.11

No.10さんの書かれているのは、空海が著述した「般若心経秘鍵」という著書による考え方です。日本では「空」が解釈の主流になり、あまり重要視されませんでしたが、ボクもこの考え方のほうが近いように思っていますし、個人的に好きです(笑)。 ちなみに、参考URLをクリックした先に書かれているのでしょうが、「般若心経には仏教の全てのエッセンスが含まれている」と空海は説きます。確かに、その解釈に基づけば、「ひとこと宗派別エッセンス集」的に読むことが出来、大変面白いです。不謹慎ですが(笑) さて、経典の意味的なことは出尽くしているところだろうと思うので、別アングルから(笑) ・読誦(読むこと)の功徳について もちろん「(経典の編纂者にとって)自分の思想はこれだけ功徳満載なんだ」というPRとして(笑)「この経典を読むとこれだけ良いことがあるんだよ」という文句(「流通(るづう)分」といいます)がかかれてある場合が多く、般若心経においても、日本で一般的な翻訳とは別バージョン(つまり中国で何人かの人間が翻訳しているということです)にはその「流通分」があるものも存在します。 PRの部分は除くとして(笑)、「くりかえし読む」事で今まで理解できなかった本質をひとつずつ理解できるかもしれない、というメリットはありますね。 一度読んだだけでは上っ面しかわからない。それを「くりかえし読む」事で少しずつ理解していく…そういう意味でのメリットは確かに存在します。 ・「声に出して読む」必要性 黙読ではなく、「音読」であるほうが、より効果的に脳に吸収される…という実用的な効果はもちろん期待できます。 しかし、それ以上に、「音」は宗教的世界をイメージ的に形成するツールとしての役割を担わされた、という考え方は成立します。 日本ではこの考え方が若干希薄になってしまいました。それでも「声明(しょうみょう)」という学問としてちゃんと仏教の中に「仏教音楽」の科目が成立しています。真言宗や天台宗では特に盛んです。ちゃんと音楽になっています(笑)。シンバルやドラに近い楽器、ハンドベルのような鈴(りん)もあるんですよ。 もちろん、本国インドや中国では重要視されていますし、末期仏教をほぼ忠実に移植したとされるチベットでは、かなりの数の楽器も登場します。 これには二つの側面が存在します。 ひとつは、民衆へのPRのため。 経典そのものを音楽に載せ、更にそのメロディーを「癒し」のベクトルに持っていくことで、信者(あるいは信者になろうとする人)に安心感を与える、あるいは荘厳なイメージを与える…そういう目的は少なからずあったと思います。 もうひとつは、修行者自身の身体的変容をもくろむ「道具」として。 これは最近になって科学的にも実証されています。ある特定の音を聞くことで、あるいは体内から響かせることで、アルファ波を導き出す…的なアレです。 グレゴリオ聖歌にも、日本の読経にも同じように脳波を変化させる要素があるといわれています。 釈迦の仏教がどのようなものであったのかについてはいまでは諸説ありますが、少なくとも釈迦がたどり着いた「境地」が、あるいはそこにたどり着くまでのプロセスが難しすぎることが仏教を縮小させていき、ついにインドでは滅びてしまった間接的な要因であったといわれています。 数ある宗派やその思想が生まれた背景には、「そこにたどり着く」ための実践的かつ「少なくとも釈迦より合理的」な方法が数多く編み出されました。 その中で「音」の要素は欠かせなかったのでしょう。 ・なぜ「読むと徳がある」という記述がされるのか? 上記のことを全部在家の人間(つまり仏教についてくわしく知らない人間に)に説明しようとするのは、無理です(笑)。 少なくとも膨大な時間を必要とするでしょう。 それでは、仏教を信じる人間はほとんどいなくなってしまいます。 そこで「糸口」として「ほら、このお経にはこんなにメリットがあるんだよ」と書くことにしたんです。 で、「読む」とか「聞く」という習慣が出来れば、次第に意味について興味を持ち始める。そうすることで「理解」するきっかけを作った…そういうことだと思います。 ・経典の読誦が「供養に使われる」理由 これは平たく言うと「代読」です。 つまり、「読むことによって功徳がある」のなら、故人に代わって読み、「故人の功徳を増す」という理由付けによります。 お払いも一緒。「憑きもの」があるのだとすれば、それは「成仏できずに迷っている」のであり、少なくとも「成仏できるだけの徳」を持っていないが故に迷っている…という考え方が成立するので、「聞かせてあげる」事で、少なくとも「憑きもの」が成仏できるような環境を作ってあげよう…という事です。 ご要望なので霊視の真偽・是非は問いません(笑)。 ちなみに経典には「読む」「書く」「聞く」の3つの供養の方法があります。基本的には「自分のため」ですが「他人の為」に行うことが可能。これが「布施」です。 普通「法を施す」は僧侶の仕事とされていますが、一般人がやってはいけないという法はない(笑)。 朝夕のおつとめ、というのはこの「在家の人間が故人の徳を増すために行う布施」であると考えることが出来ます。 ・お経って、何? 宗教学的には「釈迦の言葉」、歴史学的には「釈迦の弟子たちが編纂した釈迦の語録」ということになります。 が、きっとそういう話ではないでしょう(笑) 釈迦自身は、何も書き残していません。 しかも「対機説法」といって、人により、その教え方をアレンジしていたと言います。 つまり、弟子10人が、ヘタをするとみんな異なる「教え」を聞いていた。 (おそらくその根底にあるものは一緒だったのでしょうが(笑)) 残念ながら釈迦は「自分と同じ悟りにいたる方法」はその人に合わせて説いていたのですが、「同じように悟りに至る方法を他人に説明できる人」…つまり次世代のリーダーの育成をすることなくこの世を去っています。 なので、釈迦の死後混乱が起こりました。 釈迦の弟子たちが集まって、釈迦の教えを整理した…これが「第一次結集」とよばれ、このときに原始仏教経典が成立したといわれています。更に後、各自独自の解釈を加え始めたので二度目の経典整理が行われます。これが「第二次結集」です。ここまでを「小乗仏教」と呼びます。 ただし、ここまでの過程では「弟子」は自分たちの修行の指針としてのみ経典を利用し、それが一般に説かれることがなかったと言われています。 そこで、現実的な問題が発生してしまいます。 インドでは(世界的に宗教というものはほぼ同じシステムで成り立っていますが)修行者のその考え方や実践のポリシーに賛同した一般人(信者)が、その修行者が滞りなく修行を行うために必要なもの(食、衣服、場所)を提供し、さらにその教えを聞くことで自分たちの知識としていく、という仕組みがすでに成立していました。 「一般人に仏教の教えが説かれない」ということは賛同者が集められないということであり、修行をするための衣・食・住を確保できないということになってしまいます。 それらは、数少ないその「仏教の修行者を保護するグループ」(「大衆部」といわれます)にのしかかり、そのグループも限界を感じ始め、既存の修行者グループに反発するように、仏教の民衆化運動を始めます。 これが「大乗仏教」の始まり。日本に来ているものの大半はこのムーブメントの中で作り出されていったものです。 「釈迦の形式を取るのではなく、釈迦の精神を取る」という動きだった…といわれています。 であるが故に、「釈迦の精神」は、受け止め手によって数々の解釈を生み出します。それが更に地域的に広がり、おのおのの地域で独自の発展をしていった…そういう経緯があります。 したがって、現在の仏教が釈迦本人によるものだということは考えにくく、かつその思想的にも、釈迦本人のものとは枝葉で異なる…宗派対立の根拠になったりします(笑) 話を元に戻しますが、お経を「釈迦本人の云々」という意味合いではなく、釈迦の価値観に誘発されて作り出された哲学であったり、実践であったり…そのように考えると、お経には絶大な意義が存在します。 恐らく釈迦の思想のエッセンスはどの経典にもちゃんと残っていて、そこに実践的な肉付けが(個々の発想の元に)されているのだから、(もちろん選択方法によりますが)その内容を理解し、実践することにはちゃんと価値があるでしょう。 人生のプラスになる、何かが。 それが「生きている人間」に価値を提供するだけではない…という拡大解釈が、「霊視」の処方としての般若心経読誦だったりする…と考えるとわかりやすいかもしれません。 長くなってごめんなさいm(__)m

  • yuhkoh
  • ベストアンサー率48% (350/723)
回答No.10

 般若心経は空が主題ではなく、般若(智慧)が主題です。そして般若心経におけるその般若とは、「ギャテイの咒」、つまり真言です。  普通「般若心経」と呼び習わしていますが、インドの原本には「般若波羅蜜多心(プラジュニャージャパーラミータフリダヤ)」で結ばれ、「経」を意味するスートラムという言葉は記されません。元々、般若心経はフリダヤ(心)であって、経ではないのです。フリダヤはインドでは観念的な“ココロ”でなく、肉体的なるココロ。つまり心臓を意味する言葉です。心臓はまさに開こうとする蓮花の形を表すことより、仏性の象徴とされ、生命のシンボルです。そこより転じて、“瞑想の際に唱える聖なる詞”つまりマントラと同じ意味で用いられます。このマントラとは真言・咒と訳されますが、「般若心」つまり般若波羅蜜多の咒とは、「ギャテイ ギャテイ…ボウジソワカ」の部分であり、これが主題であり、この以外の部分はその修行実践によって得られた境地を述べているのです。そして、この真言を唱えるという瞑想修行の実践により、「一切の苦厄を度する」からこそ、唱え続けられたのです。  つまり、般若心経は古代インドのおける「般若波羅多の咒」に対する信仰が基礎となっており、この真言を繰り返し唱え続けるという瞑想修行の実践者が「観自在菩薩」です。観自在とは観法(瞑想のこと)が自在なる修行者であり、この観法によって最終的には「空」の境地に入られたのです。そしてこの咒を唱える自身こそ「観自在菩薩」でもあるのです。  ちまたの般若心経解説本には心経成立の前提を無視し、「こだわりの心を捨てるお経だ」などという珍説や、仏教語を用いたエッセー集にすぎない物がほとんどです。心経は決して文字面だけで意味内容を学ぶ物でなく、修行実践によって体得する物です。それにより最終的には一切の平等性を認め、愚かな考えに惑わされない境地に立つのですね。であれば、亡くなった人に経を唱えることも、その実践によって死者の真の姿を「仏」と観る。であれば生きているすべての人を、生命を、宇宙を「仏」と観る。まさに成仏が立証されますね。 密教21フォーラムHP「『般若心経』のほんとの意味」 http://www.mikkyo21f.gr.jp/hannya_honto/concept_hannya.html 参考文献 『般若心経秘鍵入門』(大覚寺出版部・村岡 空) http://www.sagagoryu.gr.jp/jpn/shop/hiken01.html 『真釈 般若心経』(宮坂宥洪:角川ソフィア文庫) http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4043760019/qid=1105872506/sr=1-2/ref=sr_1_10_2/249-6352629-1265144 『密教瞑想から読む般若心経―空海・般若心経秘鍵と成就法の世界』(越智惇仁<高野山大学教授>:大法輪閣) http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4804612106/250-3222678-2257853

  • ipa222
  • ベストアンサー率20% (903/4455)
回答No.9

補足すると インド人も中国人も、自国の言語でお経ができているわけです。 インドからお経を持ち帰って、翻訳するのが中国人なのです。 日本人は中国語を妙な日本語読みをするのがほとんどです。 例えば、ラテン語で書かれた聖書を無理矢理ローマ字読みしてありがたがっているようなものですね。 日本の神道や、それ以前の古代宗教は、ご神体は「空」というか、実態が無いのです。娑婆的ではないというか。 お経も意味ではなく、誰が読んでも同じ意味として受け取られるような実態のある文章よりも、謎めいた漢文?調のお経のスタイルがありがたいのでしょう。 本来は、日本語の現代文に翻訳してもいいのです。それを誰も求めていないだけなのです。 法律の文章も同じです。最近はひらがなになってきていますが、やはり娑婆っぽくないカタカナ調は長く愛されてきました。 お経=自らを聖なる精神に近づけるための漢字&サウンドというものです。 大勢の人が長い時間愛し続けてきたということも、その効用を保証しています。

回答No.8

 ご質問にあるとおり、般若の智慧は大乗仏教の空の思想を説いています。が、一般民衆には難しすぎてよくわからない。「何が書いているのかは知らんが、とてつもなくありがたいことが書いてある。何でも悪魔(本来の意味の悪魔は煩悩だと思いますが)に侵されないということらしい」ということで、日々の読誦経典として、ご祈祷の経典として、また身につけるお守りとして民衆にも親しまれてきました。大乗仏教のエッセンスであるゆえに字に書くだけで、声にするだけで、また字を見るだけ、身につけるだけでも不思議な力を持っていると信じられてきたわけです。般若心経や金剛般若経、また真言宗などで読む理趣経(般若理趣経)等の般若経典は日頃読む経典とされています。また大般若経600巻は転読法要でパラパラとめくられているのはテレビか何かで見られたことがあると思います。あれも般若経典ゆえに行われていることと思います。先祖供養でも仏教のエッセンスですから亡者に説いて聞かせるて速やかに六道を離れ、悟りを得る、また極楽に往生できるとされたのではないかと思います。  法華経にも一字を書き写すだけ、持っているだけでも功徳があると書かれています。日蓮上人は南無妙法蓮華経とお題目を唱えることだけで妙法蓮華経=法華経に守られると説かれたわけです。  

noname#107878
noname#107878
回答No.7

 みなさんお詳しいこと、たしかに親しくして頂いていたある高僧からそんなことを聞かされたことがありました。  色即是空、空即是色はともかく、般若心経は比較的分かりやすく覚えやすく、馴染みやすいお経、これを唱えたり写経をすると、とても気持が落ち着いたり、澄み渡った気分に浸ることもできるものです。  そうした人の内面を浄化し、ある意味で精神を強化するといった面で、こうしたことは効果がありそうだし、除霊などといった目的の曖昧さを理由に無下に否定することもないと、わたしは考えます。

回答No.6

般若心経は、般若経という経典グループの中から抽出したお経です。仏教の教えとしては、魅力的な抽出文ですが、退魔の効果などあろうはずがありません。般若心経自身の意味を考えれば、自称霊能者が、般若心経を使い、霊の存在を認め、祓う?事自体が、矛盾しています。 文章で書くと、般若心経の大意が伝わりにくいですが、観世音菩薩が弟子のシャーリプトラに「森羅万象、永遠不滅に存在するものはなく、固定的な実体はない」事を教えています。 先祖供養で詠唱されるのは、儀式的な意味合いが強くなっていますが、好意的に考えれば、先祖の死生を通して、生人が諸行無常な世界の真理を思い巡らす側面もあるとも言えますね。それが意義とも言えるかも知れませんが、無感動に無自覚に唱える事に何の意義もないと思います。 あなたに憑いているという蛇ちゃんが、サンスクリットの漢文訳の羅列である般若心経を聞いて、世界の真理を感得してくれるのなら、写経する意味も大いにあると思いますが。

  • truth77
  • ベストアンサー率37% (85/225)
回答No.5

あと、仏教について捕捉しておきたいと思います。 仏教には、釈迦の教えの根幹を現していると言われる3つの教えがあり、その3つの教えを「三宝印(さんぽういん)」と言います。 釈迦の教えは多くありますが、全ての教えには、その三宝印のどれか1つは含まれていると言われます。 三宝印は、釈迦が直々に説いたものではなく、中国の学者らがまとめて命名したものではあるのですが、実に良く仏教の根幹を示しており、仏教を語るには避けては通れない重要な教えです。 つまり、三宝印とは何であるのか?そして、それぞれの教えの意味するところを説明出来ないならば、その団体は「仏教ではない!」と言い切っても良いのです。(良く言って「異端」、悪く言えば「邪宗・邪教」のたぐいです) マトモな団体では、出家者だけではなく、熱心な檀家(信者)であれば知っていますし、ちゃんと説明も出来るものです。 さて、先方は「蛇に憑かれている」とか、「お祓いをする」とか、「般若心経を書き写せ」とか言っておられる様ですが、一度、この三宝印について質問されてみてはいかがかと思います。

shooter
質問者

お礼

霊視をしてくれた人は、お経のことはよくわからないのだけれど、でもよく効くのだと言ってました~。単なる道具として使ってる感じに聞こえました。だから効力あるのかなぁ?っておもったんですが・・・。内容を理解できないお経に効力は無いっていうのは、確かに当たり前のことですよね~。 波長同通ですか。。。うぅ(>_<) ありがとうございました!

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    縁あって、ここ何回か禅宗(黄檗宗、曹洞宗)の檀家さんの年忌法要やお通夜に参列する機会がありましたが ほとんど観音経(偈)や修証義(曹洞宗)が唱えられ、般若心経をお唱えしているところをあまり聞きません。 たまたまそういうところに居合わせただけでしょうか。 それとも、故人法要では唱えない事になっているのでしょうか。 (専ら如来、菩薩などの仏尊の供養に限るとか) もちろんお寺、ご住職により様々かと思いますが、ご見解をお示し頂ければ幸いです。

  • 般若心経が何を伝えたいのか、どう救われるのか

    未だ良く分かりません。救われたく、般若心経を読みました。以下、自分なりの解釈を纏めました。ほぼ分かりません。長くなると思いますので、この質問の内容である、「つまり何が言いたいのか? これで何が救われるのか?」を分かりやすく、何方か教えて下されば幸いです。 一応、こういうことを伝えたいんじゃないか、という自分なりのものを置いときます 「例えば君が一番悩んでいる辛い苦しいとか、それらも含めて、全部何も動じなくて良いんだよ。感情も思考も、大事なのは「心の中空っぽ」にして、「此処には何にも無い」って、「何も考えない」って考えて、良いも悪いも、「楽しくも悲しくも全部反応しなければ、どうでも良いって捨て去れば、何にも無い、当然悩みだって無い」って、したら迷いなんてないって、心痛むこと、心病むことなんてないようにならないかい? だって、何も無いんだからさ。「君を脅かす物はない」。「君が何も無いって全てを絶つんです」。色んな事頑張らなくて良いんだよ。何にも感じない、何にも考えないって、ロボットって思われるかも知れないけれど、でも、何にも動揺しないし、傷つかないんだよ。無の境地、苦しいもの怖いものなんて「心が感じ無い」静かな世界って、安らぐよね。楽しさも嬉しさもないっていうと怖いかもだけど、そんなんじゃないよ。そうじゃないのさ。謂わば君を苦しめる、考えさせられる「現実」というものに拘りすぎないで。「そういったものを心の中から、全部、無くそう。物凄く遠ざけよう。滅ぼしたって構わない。苦しみは苦しくなくなるし、痛みは痛みじゃなくなるよ。全部掃除して無くなって、綺麗になったなら、何でも救われる、安心できる超然に辿り着けるよ」。魔法の言葉さ、「貴方には何も無い。貴方から何も無くなった」。覚えておいて」 以下、般若心経の解釈です。 この世には本来は何も無い。でも「何かある」と思うのは自分の妄想。本当は何も無い。「何かある」と勝手に思っているのは「自分という心」だけ。それに目鼻耳口などの感覚器官も本当は何も捉えていない。心も感覚器官も本当は何にも無い。 本当に何にも無いんです、最初から永遠に何も無いんです、この世には。何にも無いから生れることも死ぬことも当然成り立たず有り得ないし、何にも無いから汚れもしないし綺麗になることもない。当然増えも減りもしない。 心の動き、何かを感じる感覚、何かへの想い、こうやっていこうかという意志、こうだろうなという認識、それらも無いんです。感覚器官である、眼、耳、鼻、舌、身体、心にさえも実態はない。また、形も、音も、香りも、味も、触覚も、心に感じることさえも、そんなもの何も実態はない。眼にみえる実物世界から意識できる精神世界まで、「でも、ほら、ずっと其処にあるじゃないか」という現実、実態は何一つ無いんです。 (此処から何を伝えているのか分かりません) だから、そもそも迷いなんて無く、無いもんだから「迷いが無くなる」なんて工程も起きはしない。悟らなくたって良いんです。例えば今の「本当の事を何も知らない」でいることから脱しようと、その自分の考えから離れても良いし、それにそんなことしなくても大丈夫、どっちでも良い。「この世には何かが在るんだよ」という執着を捨てるだけ。「じゃあこれから頑張って悟りますよ」という考えにもやらなくて良い、執着してはいけない。老いることも死ぬことも別に、どうでも良い、感心が無い、何にも無いって考える必要も無くなるもんだから、老いと死がつきることもない(此処が分かりません。老いも死もないから、そもそも老いと死の問題が解決するってこともないんだよってことでしょうか?)。「苦しみや、苦しみの原因もない。当然苦しみもないんだから、苦しみから解放される手段もなく、苦しみを制する方法も、そもそも成り立たず、存在しない」。「だから苦しまなくて良いんです。逃れようと頑張らなくても良いんです。だって原因も解決方法も、最初から無いんだもの」。「救いがないとかじゃない、問題なんて最初から無ければ、解決なんてしなくても良いでしょう?」、元々最初から「本当に何もない」のだから、知ることもなく、得ることもない。本当に、何にもなり立たないんです。何かあるとするなら、それは貴方の錯覚です。「貴方の中には、何も無い」。 真実を理解することなんてしなくて良い、涅槃に到達することもしなくていい、悟りを得るなんてしなくて良い。そもそも悟りである「何かから救われよう」と求める人は、日頃「例えば心をざわつかせるようなもの、本当は何にも無いんだよ。だから安らげるな、安らごうか」という安心できる意識の場所に至る知識や、それを実践していて、それを拠り所としているから、前述の「妄想な世界」に拘ることもないので、心にわだかまりがない。(多分、苦しさとか悲しさとかそういうネガティブなもの? 等に)捕らわれることもないし、だから恐れることもない。「全ての迷いから遠く離れているから、心は永遠に安らか」なのです。過去、現在、未来の仏様たちも、そういった安らぎに至る知恵、やり方を実践をすることで、妄想の世界の中から、謂わば本当の本当な「悟り」を得ることができたのです。 だから、その「大いなる安らぎの境地に至る知恵とやり方の実践」こそが、真実の言葉、悟りの言葉、最高の言葉で、一切の苦しみや虚しさを取り除いてくれるのです。じゃあ教えますね、この安らぎの境地に至るための、真実の言葉とは。「歩いて行こうとする人よ、生きていこうとする人よ、どうか、現実、妄想に捕らわれない、「あぁ、此処には何にも無いんだな。それこそ苦しさ悲しさというものさえも」という安らぎの境地へいきなさい。みんなそろって、いきなさい」。

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