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自由を得る経験
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いつもお世話になっております。色々勉強して、自宅サーバーを立ち上げました。 そこで質問なのですが、結構でかいサイト(目安としてサイト全体で一日アクセス10000以上くらいでしょうか?)を自宅サーバーで運営しているという方はいらっしゃいますか? 以前ここで質問して自宅は厳しいよとのご指摘を頂いたのですが、もし自宅で頑張っている方がいらっしゃったら、経験談を聞かせていただけると嬉しいです。案外自宅でいけるものなのでしょうか? 考えうる苦労する点は、電気系の管理でしょうか。ある程度大手のサイトですとサーバーがダウンすると大変だと思います。 利点は当たり前に自由自在ということですかね。 現在専用サーバーを借りようか迷っているので、経験者の方の意見を参考にして今後の方針を決定しようと思っています。 厳しいようでしたら、自宅はテストサーバーにとどめ、専用でいくつもりです。 何卒回答よろしくお願いします。
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- shizkaz
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- もっともっと自由に。もっともっともっと自由に!
(1) マルクスは まちがっている。青年ヘーゲル派の哲学をとり上げて批判するとき (あ) 人間はこれまでいつも自分自身について すなわち 自分がなんであるか またはなんであるべきかについて ま ちがった観念をいだいてきた。 神 規範的人間などについてのかれらの観念にしたがって かれらはかれらの関係をととのえてきた。・・・ (マルクス;エンゲルス:『ドイツ・イデオロギー』 〈序文〉 古在由重訳) のではない とただちに言っているべきであった。 (2) もし こうした歴史的な人間を その歴史的であるということにおいて批難せねばならないとしたなら そこに まちがいは つねにある と言って 批評することから始めていなければならなかった。 (い) 人間はこれまでいつも自分の生活態度について すなわち自分がなんで生活するか またはなんで生きるか について 神 規範的人間などについての観念によって説 明し 自分たちの関係をととのえようと すなわち自己をそ れぞれ弁明しようと してきた。 のであると ただちに説明しかえしているべきであった。 (3) 《観念がまちがっていた》のではない。または 観念がたとえまちがっていたとしても そのことじたいを責めるには及ばない。責めても不十分である。説明の内容 弁明のための観念と理論とは もしいやしくも それによって自分たちの関係をととのえ得てきたのなら 人間の合理性をどこかに持っているであろうし 一般にそれとして妥当なものなのである。 (4) われわれの弁明しようとする欲望が まちがっていたのである。弁明のための根拠 すなわち 生活態度また生きる理由と目的 これらが まちがっているのである。 (5) しかも 歴史経験的であるという人間の条件の限りでは まちがっていても 経験妥当なものでありえた。まちがった観念を持った人を 何が何でも 断頭台に送ればよいというわけにはいかない。 [・・・] * (6) ただ――ただただ―― 弁明の要らない地点に立てばよいのだ。はだかの我れに立ち還ること。 (7) クリスマスツリーのカザリがおのれの《固有の時》にふさわしくないとなれば すみやかにこれを取り除けばよい。樅の木だけになればよい。 (8) われわれは なぜおまえは そこにおまえとして居るのか? などと誰からも検問される謂われはない。 (9) 公理としての自由存在に立つべし。 (10) いっさいの宗教のオシエで着飾ることから自由になろう。 (11) もっと自由に。もっともっと自由に。もっともっともっと自由に。 これを問います。
- ブディズムは ブッダターの提示と親鸞のみだ
○ 神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論 第七章 ブディズムの効用は おそらく親鸞のしめした《信》の理論のみ 1. まづ ほかに ブッダター(仏性)の――非思考の庭にとっての――理論があります。けれどもブッダターがすべての人にやどるというこの想定は すでにブラフマニズムが 《アートマン(霊我)》として打ち出している。 2. あと 《空》観がよく引き合いに出される。けれどもこれは けっきょく相対と絶対との――有限と無限との――区別を言ったまで。ひとは 時間的存在だ――時空間としての世界‐内‐存在である――と明らかにしたまでである。 3. それらのメリットは 親鸞の《非知――非思考の庭――》としての《信》の理論におさめられて行く。 ○ 親鸞: 義無きをもって義とす。:非知としてのアミターバ・ブッダ 【Q:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7894579.html ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~ 経験 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと知った) 非経験 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない) ○ (非知なる非経験の場⇒非思考の庭) ~~~~~ 非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰 ________________________ 思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教 感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観) ________________________ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 4. 非知なる非経験の場は ブラフマニズムにおける神ブラフマンなどのように 全体に対応するひとつの神としておおよそどの民族にあっても持たれている。 A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモ。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如 無梵:空・シューナター・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如 仏:アミターバ / マハーワイローチャナ 仏:如来蔵・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) 4-1. つまり ゴータマ氏は ブラフマニズムの非思考の庭のあり方を踏襲し その霊なる神の名前を裏返したのみである。だから 後世の人たちは ブッダターを立てた。これは アートマンのことである。 ☆ 不要およびマチガイを削り 加えるべき認識を加えるようにしてご教授ください。全体についての自由なご批判をも歓迎します。
- 高校中退の生活
去年高校中退した現在18歳の者です。 その後の生活に不安と不満があります。 今は高認と編入試験(高校)を目指していますが、勉強以外何もしていないという感じで嫌気をさしてきたのです。 バイトでもしようかと考えたのですが、親は春からの編入試験が近いという事で、拒否されました。やるなら(編入試験が)終った後にやれと言われました。 今はどうするべきか悩んでいます。中退してから自由な時間を得た反面自由すぎて困ってます。 バイト以外やるべき事は?と考えていますが、何も思い浮かばず・・バイトやっとけば、何かわかるんじゃないかなと軽い(?)考えなんですが・・;; 殆ど家にいる生活が嫌で、何か外に出て経験するモノがあればいいなと思っているんです。 勉強は貧欲程度にやっとけば、問題ありません。 贅沢悩みだと思いますが、何かアドバイスなどあれば教えて下さい。
- 天使とは?――《はじめにことばがあった》。
( a ) 天使とは 純粋思想であり 純粋なる内なることばのことを言うか? ( b ) そのことばが 人間にかかわるようなものであるなら 堕落しうる。天使も堕落しうる。と。 ( c ) つぎの文句のあいだに天使が位置するか? 1:4から1:5にかけてである。 ◆ (ヨハネによる福音 1:1-5) ~~~ 1:1 はじめに ことばがあった。 ことばは神とともにあった。 ことばは神であった。 1:2 このことばは はじめに神とともにあった。 1:3 すべてのものは ことばによって成った。 成ったもののうち ひとつとして ことばによらないものはなかった。 1:4 このことばに命があった。 この命は人を照らす光りであった。 1:5 光りは闇のなかに輝いている。 闇は光りをとらえなかった。 ~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 《1:4 このことばに命があった。この命は人を照らす光りであった。》というときの《命》もしくは《光り》としては すでにこの経験世界ないし人間の世界のことにも触れて言っていると思われる。《闇》(1:5)と言うなら すでに経験事象である。 言いかえると 次のように位置づけるかたちである。 ( d ) 神をなぜ《ことば》にたとえたかの問題でもあるように考えられることには 次のような位置づけである。 ○ (ことばの階層) ~~~ (α) 神としてのことば (α’) 天使としてのことば (β・γ) 経験事象としての光なることば(ひらめき?) (δ) 人間のことば ~~~~~~~~~~ ( e ) 次の図式によっても説明しうるか? 《ことば》を《ロゴス》と言いかえている。 ○ (ロゴスの階層) ~~~~ スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神 ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________ インスピレーション=ロゴス(β):異言 :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ インスピレーション=ロゴス(γ):預言 :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化 :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい? ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理 ~~~~~~~~~~~~ ( f ) 問題は 天使が 永遠の霊的な存在であるなら どうして神に背き堕落しえたか? である。 被造物ではないが 自由意志を持ち選択という行為をなす存在であるということだろうか? もし堕落したのであれば それが――そのうち特に神のごとくいかなるものの下にも立つまいと決めた者が―― 悪魔であるという規定になる。 おしえてください。
- 神 信仰ならびに宗教についての一般理論
哲学カテが 劣化して来ていませんか。 神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。 神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。 人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。 あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。 1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。 2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。 (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~ 経験事象 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと知ったものごと) 非経験の場(因果関係から自由な場を想定する) 非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。 (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~ 信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観 -------------------------- 考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教 感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 3-1. 《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。 3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。 3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。 4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。 《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。 (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~ =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。 A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空(シューニャター)・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(=有神論) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) / マハーワイローチャナ(大日如来) 仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) G. ユダヤイズム:霊霊一如 霊:ヤハヱ―;(エローホ=神) 霊:われ H. イスラーム:霊霊一如 霊:アッラーフ(イラーハ=神) 霊:われ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。 4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。 よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。 4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。 有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。 4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。 4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。 4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。 4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。 4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。
- 神の国は言葉ではなく 力にある――特殊絶対性仮説
1. ▲ (コリント前書 4:20) 神の国は言葉ではなく力にある ☆ ロゴスではなく デュナミスだと言います。 2. 一般および個別絶対性理論は 理論として(哲学として) 言葉による表現における説明です。 3. 一般絶対性として 神は 非知なる非経験の場として 普遍神であると言います。 3-1. 有る神と無い神とは 互いにまったく同等であること。 3-2. 有る神について 名前がいかに呼ばれていようと やはり互いに同等であること。 4. 個別絶対性として――おのが非思考の庭にあって―― 如何なる名で神を呼ぼうとそのひとの信仰は 絶対自由であること。 4-1. その信仰からみちびいた倫理規範や世界観は しかしながら いかにとうといオシヘと見なされたとしても 人間の言葉で表現された経験思想に属する。ゆえに オシヘは 神として信じる対象ではあり得ないということ。(宗教は 信仰とは別である)。 4-2. 個別絶対性は おのれのいだく神を 唯一の 絶対と見なさないことによって成り立つ。つまり 排他性を排除することにそのいのちがある。さもなければ その自由絶対が ただの思い込みとなる。 4-3. 信仰の相手は 普遍神であるのだから。 5. 特殊絶対性は おのが信仰が――その個別絶対性が―― 言葉にではなくチカラにあると仮説する場合を言う。 6. このチカラとは 霊であり聖霊体験だとも言う。むろん霊とは 神のことである。霊とは 因果関係から自由な場を言う。 7. このチカラは どこから来るか? ――ひとつの仮説として 《ゆだねる》ことから。と提案する。 いかに。
- 不快・苦手になったものを克服する知恵
数ヶ月、数年の間思い悩むくらいの著しい不快な経験をする度に、それを連想させるものを避けるようになってしまいました。著しく不快な経験―もちろん、滅多にありませんが―を得るたびにそれを繰り返すので、世界が狭まり、生活に不自由を感じるようになってきました。例えば、知人に罪はなくても、その知人が不快な経験に関する事柄を連想させる(私の心が勝手にそう連想するだけで、知人たちが意地悪をしているのではありません)ので避けるといったようなこともしばしば起こります。「坊主憎けりゃ袈裟までも」という感情が広範囲な物・事に及んでいるような感じです。この喩えが今の自分の問題を的確に表現しているとしみじみと思います。 こういう耐え難い嫌悪感を克服したいと望んでいます。このような問題には何か具体的な症状の名前があるのか、また、どのような方法が効果的かなど、知識を持っている方、あるいは、同じような症状(?)を克服したという方があれば、知恵を拝借したいと思います。よろしくお願いします。
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- その他(恋愛・人生相談)
- Fumius
- 回答数5
- 経験の無さを面接でよくつつかれます、、、。なんて答えればプラスイメージですか?
販売員の正社員の面接を受けています。 私は服飾の専門学校を今春に卒業しました。中途採用として受けています。未経験者歓迎と書いてあるんですが、面接では毎回かなり販売経験の無さをつつかれます。接客は嫌がられてもお勧めしなきゃいけないんですよ?そうゆう仕事した事無いんですよね?みたいな質問を少し変えて何回も質問して来ます。短期のアルバイトをしてアピールポイントを作ろうにも面接が色々あるのでシフトを組むこともできませんし、、、。アルバイトをしてる暇があるなら早く社員で働きたいです。私は今まで接客のアルバイトを沢山してきて、在学中半年間販売員のあるバイトをしてきましたがそのお店はお客様が自由に選んで販売員からは口を出さないというシステム(?)で、、、得た物は沢山あるんですがアピールポイントとしては受け取ってもらえません。 接客は嫌がられてもお勧めしなきゃいけないんですよ?そうゆう仕事した事無いんですよね?みたいな販売経験の無さをつつかれた時何て答えたらプラスイメージでしょうか?
- 締切済み
- その他(就職・転職・働き方)
- noname#52025
- 回答数4
- 一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説
一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説または宗教の絶対的批判 1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》なる主観を外から否定も肯定も成し得ないというときその神観としての主観を言う。〔(5)に見るごとく 神は 非知ゆえである〕。 2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》なる主観は 外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。 3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けて心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。または 神なる概念の弄びである。宗教は 存在理由が無い。 4. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。 5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。 経験事象 可知 既知(間違いだったと分かることもあるが知ったとする) 未知(いづれ既知になるであろうと推察されている) 不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと) 非経験の場 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) 6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。 【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心 ------------------------- 【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト 【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス 7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。または 霊霊一如である。 A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論) 無梵:空(シューニャター)・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(=有神論) 仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来) / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来) 仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然) 霊:われ(自然本性) G. ユダヤイズム:霊霊一如 霊:ヤハヱ―;(エローホ=神) 霊:われ H. イスラーム:霊霊一如 霊:アッラーフ(イラーハ=神) 霊:われ 8. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神である。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づける無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。 ――これが 一般絶対性である。 9. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐっての説明となる。 10. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。 11. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。また それとして とうとばれる。 12. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。 13. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間にとってゆえ――多様性を持つと見られるとき 特殊絶対性として捉えられる。 14. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観としたのは 宗教のオシヘである。オシヘは すでに思想である。 15. ところが もし宗教がこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くなら いまの絶対性理論の外にある。オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関係もない。神論としてアウトである。 ☆ ご見解をどうぞ。
- 独立と倫理
現在勤務する会社で得た技術と経験を生かし 2年後に独立する予定で準備を進めていますが、 特殊な技能が必要な業種で資格を取るために 5年(1週間の研修後実務経験3年さらに1週間の 研修後実務経験2年を終えて受験資格)かかり ました。その間上記以外の必須研修費や受験費用 など交通費宿泊費も含めかなりの経費がかかって いますが全て会社の負担でした。 魅力ある業種ですが被雇用者ゆえの制限や限界 、また経営陣とのベクトルの違いなども感じ、 もっと自由に思う存分自分の力を発揮できたら と独立する決心をしました。 必要な資金も準備が出来秒読みの段階なのですが 独立すると言う事は今の会社を裏切ることになる のではと、ちょっと後ろめたさがあります。 また会社にどのように話したら良いか、辞めて同 じ業種で起業するとなるとかなりもめるのでは と思います。 このような(お世話になった会社と同じ業種での独立) 行為は倫理上どうなのでしょうか? 何とか円満退社したいのですが良い方法がありまし たらご教授下さいよろしくお願い致します。
- ベストアンサー
- 起業・開業・会社設立
- PC8801
- 回答数2
- 大学受験とバイトの比較について
ぼくは数ヶ月前まで、大学受験をしていました。 無事に推薦で大学が決まり、受験が終わった後は やっと長い戦いが終わったと思いました。 しかし、ぜんぜん戦いは終わってないことに 気づきました。 受験も終わり、好きなことができると考えていましたが、 ぜんぜんでした。 受験も終わったので、バイトをしようと考えていましたが、 探すのもすこい大変だし、働く時間もまったく自由がききません。 上司もすごく嫌な人の可能性もあります。 勉強は、好きな時間に起きて、好きな時間に勉強して休憩して 好きな科目から勉強できました。 バイトとなると、バイト先の都合でバイト先の上司次第で ものすごく大変だと実感しました。 勉強はいくらしてもお金にはなりえません。 勉強とバイトとのギャップに衝撃を受けています。 勉強が終わり自由になったと思っていた自分が情けないです。 勉強をしてきて、仕事とのギャップに衝撃を受けた経験のある人 または、衝撃をいま受けた人はいますか?
- ブディズムは ブッダターの提示と親鸞のみだ
ブディズムの効用は おそらく親鸞のしめした《信》の理論のみ 1. まづ ほかに確かに ブッダター(仏性・如来蔵・自性清浄心)の理論があります。のちに言う《非思考の庭》の問題です。けれどもブッダターがすべての人にやどるというこの想定は すでにブラフマニズムが 《アートマン(霊我)》として打ち出している。 2. あと 《空》観がよく引き合いに出される。けれどもこれは けっきょく相対と絶対との――有限と無限との――区別を言ったまで。ひとは 時間的存在だ――時空間としての世界‐内‐存在である――と明らかにしたまでである。 3. それらのメリットは 親鸞の《非知――非思考の庭――》としての《信》の理論におさめられて行く。 ○ 親鸞: 義無きをもって義とす。:非知としてのアミターバ・ブッダ 【Q:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7894579.html ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~ 経験 可知 既知 未知 不可知(知り得ないと知った定理など) 非経験(経験世界を超えた場を想定) 非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) ○ (非知なる非経験の場⇒非思考の庭) ~~~~~ 非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰 ------------------------ 思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教 感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観) ________________________ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 4. 非知なる非経験の場は ブラフマニズムにおける神ブラフマンなどのように 全体に対応するひとつの神としておおよそどの民族にあっても持たれている。 A. ブラフマニズム:梵我一如 梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神 我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(無神論) 無梵:空・シューナター・ゼロ 無我:アン‐アートマン;ニルワーナ C. ブディズム:仏仏一如(有神論) 仏:アミターバ / マハーワイローチャナ 仏:如来蔵・ブッダター(仏性) D. クリスチアニズム:霊霊一如 霊:神・聖霊 霊:《神の宮なるわれ》 E. (プラトン?):霊霊一如 霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ) 霊:《われ》 F. 《もののあはれを知る》 霊:かみ(自然および超自然) 霊:われ(自然本性) ☆ これらが わが心なる《非思考の庭》における《信》のあり方である。みな同じなのである。ただし思考に非ずとして。 4-1. つまり ゴータマ氏は ブラフマニズムの非思考の庭のあり方を踏襲し その霊なる神の名前を裏返したのみである。だから 後世の人たちは そこにふたたび逆転し名前を変えて ブッダターを立てた。これは アートマンのことである。 ☆ 不要およびマチガイを削り 加えるべき認識を加えるようにしてご教授ください。全体についての自由なご批判をも歓迎します。
- 《信じる》とは 人間にとって どういう行為か?
哲学として定義してくださいませんか? 宗教を信じるだのキリスト教を信じるだのブディズムを――浄土系などを除いて――信じるだのとよく聞きます。おかしい。哲学としてただしてください。 質問者の考えをたたき台にしてもらってもよいです。宗教について触れたところは 情報交換をねがいます。 1. それは 思考に非ず つまり非思考という行為であると。 2. 思考は 経験合理性にもとづき――その反合理性をも人間の境地で引き受けつつ――考えをすすめること。 3. その思考に非ずなら 或る種の賭けという行ないに似ている。無根拠を心に受け容れるということ。 4. そのときのわが心の伸び もしくは――どこへ伸びたのだと言っても分からないから――心の〔窓の〕明けのこと。 5. 非思考と言うからには それは 経験世界を超えて非経験なるナゾを――想定の上で――相手にしている。しかもその無根拠を心に受け容れるという時点では 経験的な行為である。言わばその賭けるという決めにおいて領収証を発行していることになる。 6. 一般に受け容れる相手は 《かみ》と呼ばれている。ちなみにこのとき《無い神》を心に受け容れているなら それは 無神論としての《信じる》である。 7. 無根拠にかかわることゆえに この《信じる》については 良心・信教の自由として その自由が公理と見なされ認められている。 8. 言いかえると 信仰は内面のもんだいである。その中身を――観想や瞑想として――ことばに言い出すことはあるかも知れないが その表現内容は あくまで非経験のナゾを仮りに表わした覚え書きである。 9. この信仰としての覚え書きを わざわざオシエとしていただきそのうえ教義や道徳規範とするやからがいる。組織宗教である。 10. キリスト者やブディスト――有神論であれ無神論であれ――の個人としての信仰を わざわざ人びとにとっての倫理規範としてかかげるやからがいる。ありえない。言葉で表わしたオシエは すでに経験思考の対象であり それ以外ではない。 11. キリスト教や仏教を《信じる》ということはありえない。それらオシエは 《考える》ことであり もし信じるに到ったというのならそれは 《思い込み》のほかのことではない。 12. せいぜい信念・信条として持たれる行動規範であり その場合に社会的に有益でりっぱなことが成し遂げられる場合があるだろうが けっきょくそれは オシエの奥なる個人としての信仰であろうと考えられる。 13. ゆえに組織宗教は ただ群れているだけである。 14. 結社の自由はあるけれども もし組織が個人に信仰を有無を言わさず強要し個人の信仰を組織の権限関係によって左右することがあるとすれば それは個人の信仰の自殺行為であり 違法行為である。 15. 仮りにひとはよわいとすれば そしてそれゆえ群れが必然だと考えるなら 見えざる教会(エクレシア)としての――信教を分離したところの――ムラ(共同体)こそがそれだ。 16. すべての宗教団体は 自主的に解散するのが 人間的なふるまいである。ローマ教会は 欺瞞である。
- サイコパス的な方への穏便な対抗手段がありますか。?
昨今の20~30代の職場同僚或は、上司の方で”サイコパス的”な言動と態度に、苛立たしさと不快な事を、感じる事が多い毎日です。 ⇒例えば、(1)就業規則で、規制なければ自由奔放で暴言を言いたい放題。(2)話題中心でない事と”職場での人気が無い事”で、無関係な人達に、変な”中傷・告げ口”をしたい放題。(3)基本的に、自己中心的発想が強くて、協調性・理性_知性が、感じられず何とも_”感情的に耐えがたい”人”が、周囲におります。 ⇒出来得る限り、不必要な接触機会を避けてはいますが、本音としてサイコパスな方の事につきましては、何とも悩ましいのが、現実です。 ◎サイコパス的な方との”交流経験有無”に関係なく、穏便且つ平和的な対抗手段をアドバイス頂ければ、幸甚です。・・・*一見○○○ハラスメント的な、側面もあるようです。*
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- 派遣元の変更について
派遣先から派遣元変更の命令が有り、勤務開始数日目の事件で、とりあえず承諾せざる得ませんでした。(現派遣元は出入り禁止になり、他社営業を紹介されました。) 私は派遣元と派遣先間のトラブルに巻き込まれたくないし、他社派遣元にも迷惑かけたく有りません。巻き込みたく有りません。 現代派遣スタッフは、派遣元を選ぶ自由もないんでしょうか・・・? 常識的に考えて、私も切られるのが普通じゃないんですか? (ちなみに現派遣元・他社派遣元とも、大手派遣会社です。) 皆様の御意見、聞かせて下さい。 ちなみに現派遣元・他社派遣元共に、私の大切なお客様なんですが・・・こんな意識で派遣やってる私は変ですか? 派遣会社のおかげで私は、色んな企業をランダムに経験出来ている訳なので・・・
- 元彼は何を考えているのでしょうか?
私は元彼と別れて半年ちょっとになります。 別れ方は喧嘩別れではないのですが、別れざるを得ない事情があって別れました。 私としては今後も友人として接していきたいと思えるような人です。 ですが。。。最近久しぶりにメールをすると、「デートしたい」という旨の返信が来て困っています。 久しぶりに会うのはかまわないのですが、プラスαを匂わせてくるのです。 彼はおそらく今も女性には不自由していないはずで、私は(自分で言うのもなんですが)ヒンソなスタイルのため、身体目当てとは思えないのですが。。。。 それとも、男の人は魅力的でないガリガリでも、元彼女ともう一度と思うものなのでしょうか? 経験のある方、ご意見ください。
- ドイツ鉄道(DB)の込み具合について
ドイツ鉄道(DB)の通年を通じての込み具合について教えてください。 来年の4月中旬~5月~6月中旬まで、ドイツ周遊旅行の予定です。 旅行時はユーレイルグローバルパス一等席を利用します。 これまでのドイツ旅行ではICEも含め、 二等席の自由席に座れなかったことはありませんが、予約席が取れなかった経験はあります。 8月(日本のお盆の時期)、DBカウンターで当日発の、 ミュンヘン→マインハイム→フランクフルト空港の二等予約席が満席で、 ミュンヘン→ヴュルツブルク→フランクフルト空港の二等予約席に変更した経験があります。 これまでの旅行の時期は3月、8月でして今回の4月中旬~5月~6月中旬を経験しておりません。 当面の長距離列車の予定は、 4月中旬にハイデルベルク→リューベック、ベルリン→ミュンヘンが決定しております。 ドイツ国内でのカレンダー上の祝祭日の日程は大まかですが把握しております。 (見本市の日程も確認しております。幸い旅程上、回避可能です。) それら以外のドイツでは一般的な休暇が、イースターなどあるとのことですが、詳細は理解しておりません。 長期の祝祭日に重なると、DBも日本で言うGWや年末年始などのように、 JR乗車率200%という状況になり得るものなのでしょうか? 皆様のご経験から注意すべき点などほど含め、ご教示のお願いします。
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- 《絶対》という概念でなぜ共通の理解が得られ難いのか
ふたたびの問いです。 おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたを想い描きつつのぞみを持ちつつ 執拗に問います。 たたき台を示します。 1. ひとは おのれの存在が永遠ではなく有限で相対的であるにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。 1-1. その意味で 《神》ということばも――そして同じく《無い神》も―― 用います。 2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。 2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。ひとり満ち足りている存在。他のいかなるものにも依存しない存在。 3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことば》そして《概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。 3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 言葉として表現されたならそれは 経験世界の内側において用いられています。 4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。一般に梵我一如なる類型。 4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。 5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。 5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。 5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。 6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。 6-1. 《絶対》の――想定じょうの――二重構造: ○ 《非経験の場》を受け容れたわが心なる非思考の庭: : これは 無根拠である。 : これは 信じる(=ただ受け容れる)ものである。 : そもそも《絶対》を受け容れることが出来るかどうか についての疑問すらが起きる。 : 《神》とも《無い神》とも言える。 ○ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》: : すでに《非思考の庭》から《思考の緑野(また感性の 原野)》に移行している。 : 因果関係などの合理的な根拠を科学的に明らかに する場合にすら用いられることがある。《真理》として。 : それは 《絶対》の仮りの像(すがた)である。つまり 《正解としての神本体をめぐって引かれた補助線》なり。 6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に 《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》 を成らせていると想定され そして 《その庭が 活きた信仰として動態であり その過程にあって仮りにでも姿かたちを表わしたと考えられるその現実(精神と身体 または思考の緑野および原生林)の活動》 が捉えられ これらふたつの領域から成る《二重構造》を呈しています。 以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。 なおちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。 ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~ 近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。 ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・ むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。 しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。 絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。 ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞) http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html ~~~~~~~~~~~~~~
- 三位一体なる神は 無宗教である。
三位一体なる神については ヨハネ福音を主なものとして聖書記事からみちびき出した神論です。純然たる神学です。 しかも この神論が経験思想の舞台にかかわり得て 次のような想定じょうの認識になると捉えられます。(図式以下の議論です)。 それによると イエスが指し示した神であることに変わりはありませんが そのキリストの神であることにはとどまっていない。ましてや クリスチアニズムなるオシエや宗教とは 何の関係もなくなっている。ユダヤ民族の神が もはや揚棄されている。と言ってよいと考えます。 これを問います。 つまり まづ ▲ (創世記1:27) 神はご自分にかたどって人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 ☆ という一つの聖書記事から伸びて 次の図式が得られると理解します。(基礎としては アウグスティヌスに拠っています)。 ○ (ひとは カミの似像である。) ~~~~~~~~~ ――ひとと社会の成り立ちについての図式―― 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ) 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神) ↓ ↓ ↓ ↓ ____________________________ スサノヲ市民( S )・・・アマテラス公民( A ) ____________________________ ↓ ↓ ↓ ↓ 身体〔の運動〕・・・・・精神・概念(記憶・・・・・知解・・・・・意志) ・・・・・・・・・・・・・・・・・↓・・・・・・・ (↓・・・・・・・↓・・・・・・・↓) [S者/S圏] 個体・・・・・・・・・・・・家 族 ( 秩序・・・・・労働・・・・・・愛) 社会主体・・・・・・・・自治態勢(自治組織・・〔生産〕・・共同自治) 経済主体・・・・・・・・生産態勢(組織・・・・・・生産・・・・・・・経営 ) 政治主体・・・・・・・・・↓ ・・・・・・・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ [A者/A圏] ・・・・・・・↓・・・・・・ ・↓・・・・・・・・↓・・・・・・・・↓ 社会科学主体・・・・・社会形態(社会組織・・経済活動・・・政治 ) 〃・・・・・・・・・・・・・(国 家 : 司法・・・・・立法・・・・・・・行政 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1. 神を・つまりすでに普遍なる神を 光にたとえるなら こうです。 子の父は 光源であり 父の子は その発耀であり 父と子とのまじわりから発出する聖霊は その明るさ・あたたかさである。 2. ただし 光はただのタトエですから 本体の三位一体には時間的なへだたりはなく 三つの位格は つねに一体である。 3. 神はこの三つの位格(ペルソナ)に分かれるとは言え 無限を二で割っても三で割っても 商はやはり無限であるように 父と子と聖霊とは 互いにひとしく それぞれの個は全体とひとしく 全体はそれぞれの個とひとしい。というものです。 4. そこで 《ひとは 神の似像である》という命題については こうです。: 父なる神は 人間の自然本性にあっては 精神の秩序作用としての《記憶》に 子なる神は 精神が精神するというかのようなハタラキとしての《知解》に 聖霊なる神は 記憶と知解にもとづき生きることの中軸としての《意志》に それぞれ当てはまるというタトエです。 5. 神にあって三つの位格が一体であるかのように 社会にあっても三権分立が 互いに――ただしこの場合は時間的なズレをともなって―― 分業=すなわち協業している。そのようにして 一体ではある。これが 共生のひとつのかたちであるというタトエです。 6. 真理(神)にあっては 時間の間を置くことなく 正解が得られているけれども 人間の経験世界では 時間的なズレをともなって ときに 正解が得られそれが実現されることもあるかも知れない。 7. すなわち 人間にあっては 記憶があいまいであり得 そこから得た情報とそれを加工(思考)するる知解も あやふやであり 記憶と知解とをにらみながら行為する意志も その心(記憶や知解の内容)にさからうことすらあり得る。 8. 人間と社会における小さなミクロコスモスとしての三位一体(三一性)は 時間的な制約を受ける。すなわち 記憶・知解・意志のそれぞれのハタラキが分立し得るような自由度を〔すなわち自由意志によって〕持ってていてそれらのあいだの協業が 時間的なズレと人間の能力の有限さとによって マ(間)の違いを生じやすい。 9. 自由意志は 記憶とそのまた源泉である知覚(感性)の内容を無視してでも そして勝手な知解によってその無視ないし逆らいを正当化しようとしてでも その自由を発揮しようとすることがある。 10. なお この三位一体論もしくはそれの人間観ないし社会理論への応用は それをイエス・キリストは後世に託したと言ってよいものと思います。 11. もっともっとあたらしい理論づけが出て来るかも分かりません。 添削・批判を俟ちます。
