奥州藤原氏の祖・清衡の母とはどんな存在だったのか?

このQ&Aのポイント
  • 奥州藤原氏の祖・藤原清衡の母は、藤原経清の妻だった有加一乃末陪という女性であり、敗戦後に清原武貞に再嫁したとされています。
  • 彼女の再嫁によって清衡が助かった可能性もありますが、その詳細ははっきりとわかっていません。
  • 平安時代の女性の地位や役割については、美醜や戦利品のような捉え方は適切ではなく、その時代の文化や社会背景によって異なる可能性があります。
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奥州藤原氏の祖・清衡の母について

奥州藤原氏の祖、藤原清衡の母は、前9年の役で敗れた藤原経清の妻だった有加一乃末陪という名前の女性なのだそうですが、敗戦後、敵方だった清原武貞に再嫁したようです。そのおかげで「清衡」も助かったのかもしれませんが、また、「同族の安倍頼清の娘も、勝った清原武則の妻となった」というような解説も見られます。 質問なのですが、有加一乃末陪という女性は、少し下品な言い方ですが、男にとって「いい女」だったのでしょうか???それとも、女性というのは、美醜に関わらず……問題発言かも知れませんが、平安時代の頃のことですから、お許しください……「勝ち戦の戦利品」のようなものだったのでしょうか??? ふと、常盤御前のことなんかも想い出して、歴史って、もしかしたら、「女性が創るものなのかも???」なんて考えたりして。

noname#247736
noname#247736
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  • fujic-1990
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回答No.1

> 「勝ち戦の戦利品」のようなものだったのでしょうか???  そういう場合もあったでしょうし、そうでなかった場合もあるでしょう。  私は負けた側を慰撫するための「勝った側の配慮」ではないかと思っています。  日本は、縄文人・弥生人の和合や国譲り神話のごとく、妥協して共存する道を選んできました。  敗者の奥方なり、姫なりを妻に迎えれば、子や姫の兄弟を殺さずにいられます。彼女たちが大切にされ、幸せに暮らしていれば、子や兄弟は遺臣を引き連れて(勝者を)親の仇として付け狙う危険が減るからです。…その点では源の頼朝は「異常」でしたが。  いい女…美醜にかかわらず…だったのは間違いないと思います。いつまでも昔の夫や恋人を忘れられず、「しずやしず」と舞われても困ります。自分になじんでもらわなければなりません。  美醜は関係なく、という例では、新潟県北部に鳥坂城という城があって、一帯は「城氏」が支配していました。鎌倉幕府草創期に氾濫を起こして鎌倉から佐々木盛綱らが大挙押し寄せてきました。  城主の城資盛と叔母の板額(はんがく)御前が奮戦したのですが、この「板額」さんじつに弓の名手で、何人もの東国武士を殺したのですが、「醜女」で有名な女性です。国語辞典にも「顔の醜い女をあざける語」と書かれている(広辞苑)くらいです。  でも、後に勝った側の甲斐の浅利義遠の妻になりました。一説には板額さんは恩賞を辞退して娶るほど美女だった(醜は、火付け盗賊改方の「鬼平」同様に殺された側が罵ってつけた尊称だった)説もありますが、美醜は関係なかったのだろうと思っています。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。いろいろと考えさせられるご回答でした。 そういう場合もあったでしょうし、そうでなかった場合もあるでしょう。……そうですか???私は、「勝てばすべて戦利品、その戦利品の中から、めぼしいものを奪っていくのが勝者の権利だし、行動原理」だと考えていました。  私は負けた側を慰撫するための「勝った側の配慮」ではないかと思っています。……知恵も知識もないぼんくら頭で、古代と現代のいくさと戦争の違いとか、現代の戦争に「勝った側の配慮」というのはあるのだろうか???とか、いろいろと考えをめぐらしてみても奥の深いご回答だと感じました。   日本は、縄文人・弥生人の和合や国譲り神話のごとく、妥協して共存する道を選んできました。……「妥協」???だったのでしょうか???何か違うような気がしますが、自分なりに、考えてみます。 敗者の奥方なり、姫なりを妻に迎えれば、子や姫の兄弟を殺さずにいられます。彼女たちが大切にされ、幸せに暮らしていれば、子や兄弟は遺臣を引き連れて(勝者を)親の仇として付け狙う危険が減るからです。……武田信玄と諏訪御前なんかもこれなんでしょうか??? その点では源の頼朝は「異常」でしたが。……700年の武士政権を確立した人ですから、大変だったのではないか???と想像します。そんな用心深い、思慮深い人でも、馬から落ちて、……??? いつまでも昔の夫や恋人を忘れられず、「しずやしず」と舞われても困ります。……笑笑いかにも。私なら、捨ててしまいますね。もっとも、現代では、私が捨てられなかったことを「妻に感謝」しなければ。笑 美醜は関係なく、という例では、新潟県北部に鳥坂城という城があって、一帯は「城氏」が支配していました。鎌倉幕府草創期に氾濫を起こして鎌倉から佐々木盛綱らが大挙押し寄せてきました。……こんな事件もあったのですか。歴史って奥が深すぎますね。 城主の城資盛と叔母の板額(はんがく)御前が奮戦したのですが、~~国語辞典にも「顔の醜い女をあざける語」と書かれている(広辞苑)くらいです。……女性の豪傑って、日本史に、ほかにも登場しますよね???何かの小説で読んだのだと思いますが、名前を想い出しません。 でも、後に勝った側の甲斐の浅利義遠の妻になりました。一説には板額さんは恩賞を辞退して娶るほど美女だった(醜は、火付け盗賊改方の「鬼平」同様に殺された側が罵ってつけた尊称だった)説もありますが、美醜は関係なかったのだろうと思っています。……蓼食う虫も好き好きですから、そもそも美醜を問題にすることが滑稽なのかもしれませんが、やはり「いい女」だったのではないかと。

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