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藤原道長と奥州藤原氏?

はじめまして。ちょっと疑問があります。 奥州藤原氏は、東北らへんに住んでいたんですよね。でも、藤原道長は京都で摂政をしていたってことは、藤原一族は京都から東北地方まで移り住んだってことですか??徒歩で?!@@ それとも藤原道長と奥州藤原氏は親戚ではないんでしょうか,,, 教えてください。

  • 歴史
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  • koon1600
  • ベストアンサー率51% (200/390)
回答No.2

まず最大に注意しないといけないことは、奥州藤原氏は藤原秀郷の子孫を「自称」していたことです。 つまり、実際に藤原摂関家と血がつながっている証拠はないのです。 これは多くの武家にいえることですが、自分の家を有名な人の後裔にすることで、格式に箔をつけるのです。 戦国に至るまで多くの家系が藤原氏の出であるとなのっています。そうですね・・・後北条家の家臣だけで見てみると・・・まず成田氏(藤原道長後裔)、内藤氏(同後裔)、清水氏(不明、しかし藤原姓を名乗っていた)といった具合に、結構な数が藤原氏後裔を名乗っています。 理由は二つです。 1つ目は後裔を名乗っている家の独自改竄。 当時家系図といっても、あちこちに散逸している一族の家系図をすべてまとめてはいません。そういうわけで「自分たちのさかのぼれる先祖を、ここにくっつけてしまおう」というのが横行しました。 なお、架空の人物が家系図に入っているわけではないため、どこがどう改竄されたのかがわからないのです(そもそも改竄した家、つまり勝手に名乗っている家は、それより前の記録がない)。 2つ目は、藤原氏が売り渡したもの。藤原摂関家は没落して財政難となったのですが、そのため自分たちの戸籍を売り渡して、ばら撒いていたようです。 こちらもどう改竄されたのかはわからないのです。 奥州藤原氏は前者ですね。実際に本当の家系と認識されるのは清衡までです。それ以前は怪しい、というのが現状です。 でも、ある程度家系図がしっかりしていると、そうであると認められるのが世の常。奥州藤原氏もそうです。 なお、実際に藤原氏は日本中に散布しています。理由は律令官制の国主などのせいです。また、嫡男以外は別系列を作るしかないですから、子孫が別家系を作り、またその子孫が別家系を・・・という具合に、どんどん増えたのです。で、もちろん嫡男以外は中央からは遠ざかりますから、端のほうはどんどん遠ざかります。 その中には守、介を拝領してその地に赴いて、そこに土着した人もいました、中には罪人となり僻地に流された人もいました。中には敗戦したのちに落ち延びた人もいました。次男がそのまま土着した例も数多いです。 で、そういった人の実際の子孫か、それを利用して家系をくっつけた家が全国には大量にいるのです。奥州藤原氏もその一つです。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/奥州藤原氏
Diorlove
質問者

お礼

詳しい説明をありがとうございました^^ 素朴な疑問にこんなに答えていただいてうれしいです。 有名な人の名字を名乗りたがる、この時代の特徴を表しているなと思いました。

その他の回答 (5)

  • tachiuo
  • ベストアンサー率32% (92/279)
回答No.6

 奥州藤原氏は、俵藤太こと藤原秀郷(平将門の乱を平定した人物の一人として知られる)の子孫であるとしていますが、この系譜は疑わしく、藤原姓を僭称したとされています。  ところで、「藤原」は「姓」であり「苗字」(なお、「名字」と書くのが歴史的には正しい)ではありません。「歴史」カテゴリーに答える者に、この違いに無知な者が回答を書いているのは残念なことです。「姓」は天皇から与えられた公称であり、「名字」は地名などに由来する私称です。例えば、「豊臣」は姓、「羽柴」や「木下」は名字です。

Diorlove
質問者

お礼

回答ありがとうございました。 いわれてみれば、歴史に出てくる人物は名前がかわっていますもんね。 姓と名字のちがいにそんな理由があったとは気付きませんでした^^ 勉強になりました

  • tiger888
  • ベストアンサー率0% (0/3)
回答No.5

道長に対抗したのかどうか、道長が建てた平等院鳳凰堂そっくりで一回り大きい、無量光院を藤原秀衡が建てています。

Diorlove
質問者

お礼

へーそうなんですか~。真似かもしれませんね。 回答ありがとうございました^^

回答No.4

すでに下の方がおっしゃている通りなのですが。 苗字自体は地名や官位などから取られる事が多いので苗字が同じだから同じ系図とはかぎりません。 また、自らの先祖を高位の人物の苗字を取る事により自らにはくをつける事をしていました。織田信長も最初『藤原氏』を私唱していました。のちに平氏に変えたようですが。また徳川家康ま三河の土豪出身であるにもかかわらず『源氏』と言っていました。 記憶はさだかではありませんが中国などの外国への公文書には『源家康』という文言がでてきたと思います。 さて奥州藤原氏ですが上記のように公称の血統はあまりあてにならないのでどこまで藤原氏と関係があったかは疑問です。ただリンクをみるがぎりギリギリ係累にはいってた可能性はあるようですね。 まあ実証は難しいと思いますが。

参考URL:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F
Diorlove
質問者

お礼

けっこう昔も適当?なんですね~。 現代の日本人も、田中と田中で同じ名字だからといって、同じ系列とは限らないですもんね。 回答ありがとうございました^^

  • alchera
  • ベストアンサー率45% (209/457)
回答No.3

わたしも昔々、同じ疑問を持っていたことがあります。 系図を根気良く追っていくと、道長と奥州藤原氏の関係はわかりますね。#1の方の系図が見やすいと思いますが、わたしも一応挙げておきます。 http://keizusoko.yukihotaru.com/taikei/fujiwaramap.html 細かくて、少し見にくいかもしれませんが……クリックすると細部も表示されますので、根気強くお試しください。 ただし、系図というのは基本的に何系統もあるもので、それぞれ名前が違っていたり、兄弟順が違っていたり、いる筈の人がいなかったりは珍しくありません。わたしが挙げたURLも、これが決定版というわけではありませんので、そこはご留意ください。(どちらかというと、ちょっと王道ではない系図のような気もします) おそらく質問者さまは、時間の流れをイメージしないまま考えておいでなのだと思います。実はけっこう年月が経っているんですよ。 藤原鎌足から始まった藤原氏、時間が経つに従ってどんどん人数が増えていきました。 その中の、権力闘争に行き残った主力組は都で華やかな生活を送りますが、それ以外のほとんどの藤原氏はだんだんと小粒になっていきます。身分社会で、基本的には子は親と同等か少し低い地位、ということが普通だったようなので、身分が低い者が増えるのは当然ですね。 そうなるとだんだん、都では官職を得ることが出来ずに、地方へ出て行く者も現れます。どこかの国(昔の行政区分としての「国」ですね)の下級役人の仕事を得るとか。そういう人の中には、結局都へ帰って来ずに、その土地で土着する場合もあったらしいです。 徒歩で、とか馬で、というより、何世代もかけて、色々な場所を本拠地として移動していったわけですね。新しい土地が手に入ったから引っ越そうか、とか、隣の領主と争って負けたからその土地を離れなければならなくなったとか、様々な場合が考えられます。 奥州藤原氏の場合は、先祖の一人である藤原秀郷が平将門追討の功があったので、なおさら関東近辺に土着化しやすいということがあっただろうと思います。この辺りの史実は、今のところわかっておらず、今後も確定するのはなかなか難しいでしょう。 以下、少しご質問そのものからは外れますが、#2の方のご回答で少し気になったことがあるので書き添えます。 「造興福寺記」という記録があるそうです。それは火災にて大部分焼失してしまった興福寺の再建の記録で、その中に寄進者の名簿があり、「経清 六奥」と記されているそうです。これは恐らく奥州藤原氏としての初代である清衡の父、藤原経清のことで、名前の後の「六奥」は「むつ」と読み、陸奥国のこととされています。 ご存知のように、興福寺は藤原氏の氏寺であり、この「造営料割当者名簿」に載るということは、「五位以上の藤原氏」を示していたようですから、少なくとも経清は、中央の藤原氏からも一族であることを認められていたようです。 また、そこから時代は下って秀衡の時代に、西行が東大寺の塗金料勧進のため、奥州平泉に赴きますが、これも西行と秀衡が一族であるという理由も大きかったとされています。 わたしは西行の出自を疑問視する文章は見た記憶がなく、さらに出家後に高位の人々と交際しているのを考えると、高い身分ではなくともはっきりした出自の人を想像するので、奥州藤原氏が秀郷流である傍証になると思います。 おそらく現時点では自称というよりも、もっと確実視されているのではないでしょうか。 少し面倒な回答になってすみません。参考になれば幸いです。

参考URL:
http://keizusoko.yukihotaru.com/taikei/fujiwaramap.html
Diorlove
質問者

お礼

同じ疑問をもっていたということでうれしいです^^ わかりやすい回答をありがとうございました。上であげていただいた 系図のほうが私は見やすかったですが、(無理やりつなげているのかもしれませんね)藤原氏はかなりいたんだなっていうことがわかりました。ちょっと勉強になってよかったです。

回答No.1

藤原一族ってとんでもなくたくさんいたんですよ。 頂点は摂政・関白として華々しく活躍していましたけど、末端は貴族とも呼べないような暮らしをしていたことでしょう。 道長と奥州藤原氏は系図を見てもかなり離れています。 (参考URLを見てください、道長は右上の「忠平」から更に三代下です) それに時代も離れています。奥州藤原氏が栄えたのは道長からおよそ100年ほど後のことです。京都から一族みんなで東北に行ったわけじゃないですよ、何百人もいる同じ姓のほんの一部が移住しただけです(移住した理由は諸説あります) 移動方法は一応貴族なので馬か駕籠でしょうね。お付の人は徒歩でしょうが。何も不思議なことじゃありませんよ、当時の中流貴族である地方官僚だって都から何年かおきに九州や東北まで移動していましたからね。土佐日記や更級日記を読んでみてください。

参考URL:
http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/bukehuzi.html
Diorlove
質問者

お礼

お早い回答をありがとうございます^^ 藤原氏というと、都での華やかな生活をしている人というイメージがありましたが、系図をみるとかなりの数がいるんですね。。 それにしても、移動はすごい時間かかったんでしょうね~@@

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