邪馬台国の卑弥呼とは?

このQ&Aのポイント
  • 邪馬台国は、中国側に記述がありながら、日本側には未だ記述が見つからない存在です。当時の朝廷や権力者の関与は考えにくく、卑弥呼自体は偽物が作りあげた架空の人物と言われています。
  • 「魏志倭人伝」においても邪馬台国について触れられていますが、所在地は変えられており、辿り着かないようにしていると考えられます。これは攻め込まれた時に敵に有利な位置を教えないための戦略だと言えます。
  • しかし、邪馬台国についてはまだ解明されていない部分が多く、皆さんの見解も知りたいと思っています。歴史や戦国武将に興味を持っている方々の意見をお聞かせください。
回答を見る
  • ベストアンサー

邪馬台国の卑弥呼とは?

まず中国側に記述があって、日本側に未だ記述が見つからない。   この点を考えると、当時の朝廷や権力者とは考えにくい。すなわち朝廷を語った偽物。では「卑弥呼」とは一体誰の事か。  それは偽物が作りあげた架空の人物。いや、もっと正確に言うと「天照大御神」をモデルに、作りあげた人物。    「魏志倭人伝」に邪馬台国が書いてあるけど、これは似たような国があると思う。 しかし所在地の方は、少し変えてあり、辿り着かないようにしてある。 わざわざ大国に詳しく教えない。 逆に、もし攻め込まれたら、討ち取りやすい場所を教えます。今も昔も、その点は変わらないだろう。現に「孫子の兵法」で確証済み。       と自分は思うけど、皆さんの見解とかも知りたいです。  あっただの歴史好きなおっさんです。特に戦国武将など好きかな~(^-^)

  • 歴史
  • 回答数10
  • ありがとう数11

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • 31192525
  • ベストアンサー率20% (687/3432)
回答No.6

bigroupさん、こんにちは。  かつて大和朝廷に反抗した豪族の中には女酋を首長に置く地域が少なくありませんでした。殊に九州にはそんな痕跡が多く残っています。彼女らは朝廷から「土蜘蛛」と呼ばれていました。  http://lunabura.exblog.jp/16895784/  田油津姫(たぶらつ)または葛築目    http://lunabura.exblog.jp/20570068/  神夏磯姫(かむなそ)  http://blog.goo.ne.jp/nimojero/e/bbb710a7953b9a1f190e197ab11ebf48  八女津媛(やめつ)  本居宣長は筑紫あたりの(?)女酋が国王を僭称し魏に使いを送ったのではないか、という見方をしています。将来邪馬台国が同定されるとしても、祭祀遺構がポツンとあるだけ、ではないかと思っています。

bigroup
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 自分もこの考えに近いかも知れません。反朝廷で大陸から認めてもらうのに、民族が作り上げた人物。 女酋長は居ただろう、けど大陸から認めてもらうのに物足りない。 そこで天照大御神や、壮大な話を参考に 使者に伝え、大陸から認めてもらおうとしたのかな。

その他の回答 (9)

回答No.10

日本の古代史の記録がないのは「記録は死んだ言葉・話した言葉は生きた言葉」との考えがあったからと聞いたことがあります。 言霊ってそうゆう意味なのかなとも思いました。 言葉を記録しだしたのは、「仏教(お経)」伝来のころだという人もいます。 倭国には当時「卑弥呼」がいた国と同じ規模の国が多くあり、戦乱の世の中だったとの仮説があります。(九州・近畿・東北に古代の巨大建造物の複製があると思った。)時代は下りますが、白村江の戦いでは、日本軍の統率がとれず壊滅状態になり、国を統一する機運が高まったのではとの意見もあります。

bigroup
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 当時は戦乱の世の中、まだ一つにまとまっていない状態だと思います。 今も昔も「騙し討ち」や「謀叛」は普通にあったと思います。

回答No.9

まぁ神話の登場人物ですからねw 系図によると天皇の姉ですが 果たして? ヤマトタケルとか聖徳太子みたいな 複数の人物の英雄の話を集めて勇者として作られた人物 的な位置づけではないでしょうか? 卑弥呼はそれの女バージョンとか

bigroup
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 架空の人物かも。 何かロマンを感じますね。

回答No.8

>まず中国側に記述があって、日本側に未だ記述が見つからない。  仕方がありません。当時の日本ではまだ文字が無かったからです。 卑弥呼にしても邪馬台国にしても「卑」とか「邪」をつけるのは 中華思想から来たものです。 卑弥呼とはシャーマンであり巫女であることは明白です。 卑弥呼は日巫女であり邪馬台国は大和国でしょう。 >では「卑弥呼」とは一体誰の事か。 貴方の言われる通り文字はなくともこれほどの人物なら 口伝されるはずです。 日本の歴史書である古事記は口伝されてきたものを 文字であらわしたものです。 日本では西洋と違って、偉大な人物が死ぬと神と して崇められます。 古事記で女性、日、神(女王)を見ていくと天照大神に突き当たります。 天照大神は別名「大日孁貴神」と言います。 このことは古事記に書かれています。 この中で大と貴神は尊敬語で 日孁がいわゆる名前で孁は巫女の組み合わせ字です 日巫女です。

bigroup
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 日本側に文字が無くても、朝廷で大和の国であれば、 後世に、何かしろ伝説、言い伝えが残っても良いのでは?と考えました。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10482/32968)
回答No.7

当時の日本は、未開の部族です。自分たちの言葉はあるものの文字は持っていませんでした。というか、実は日本語に文字はありません。は?お前なにいってるの?といわれそうですが、漢字は中国の文字で、ひらがな、カタカナも漢字を元に作られたので日本語には(オリジナルの)文字がないのです。 「文明国では、出来事を文字に書いて残している」ということを中国から教えられて「じゃあオラっちたちの国も記録に残すべさー。これでオラっちたちも文明国の仲間入りだ」ということで作られたのが「古事記」と「日本書紀」です。ですから古事記以前の日本というのは、まあなんというか、いやそういわずにはいられないのでいいますけれど、乞食みたいなものだったのです。 未開の部族の人に「君たちはどこから来たの?」と聞いても測りの単位がある社会ではないですから「東から3日歩いてきた」くらいの答えしか返ってこないでしょう。邪馬台国と魏の出会いは、今の文明社会とアマゾンの未開の部族との出会いみたいなものですよ。一般的には文明社会側が学術的探究心のような気持ちで記録を残すことでしょう。 「邪馬台」を古代中国語で読むと、「ヤマタォ」という発音になるそうです。私はそれを知って「じゃあ、大和じゃん」と思いました。現代日本語読みにするから話がややこしくなるのですが、現代日本語で「やまたい」と読むのは基本無理があります。考古学者ってわざとそうしているのかどうか分かりませんが、国際的な視点に立って研究することを決してしない人たちです。まあきっとそういう視点が持てる人なら他の分野を研究しているんでしょうね。というわけで、邪馬台国を日本視点だけで考えてもあまり意味はないでしょうね。 卑弥呼=アマテラス説は昔からありますけれど、否定する資料もないものの肯定する資料もないのでなんともいえませんね。というのも、卑弥呼の名前が記録に残っているからといって彼女が当時の邪馬台国での歴史的カリスマだったとは限らないからです。先代の巫女のほうが当時の日本人にはカリスマだったかもしれません。 よくブッダやイエスやムハンマドなんかを架空の人物とする説が出たりしますが、架空の存在ってそこまで人々に強烈に記憶には残らないんですよ。少なくともモデルとなる人物が存在しないとね。戦国時代の話でいうと、「日本人奴隷がヨーロッパに売られた」というフェイクニュースがあります。これは私が調べたところではおそらく徳富蘇峰がでっち上げたフェイクニュースだと思うのですが(調べると全て徳富蘇峰が書いたものに当たるが、徳富蘇峰が何を読んでそれを書いたのかの資料が全く出てこない)、ネットで真実であるかのように話す人たちも少なからずいるものの、それが「事実」として認識されるには至りません。必ず私みたいな「それ、フェイクやで」って言い出す人が出てくるのです。 もちろん、伝説は伝説ですよ。でも存命中の人物でも「ファウルチップを打ったらボールが焦げる臭いがマウンドまでした」なんていう伝説をお持ちの方もいますからね・笑。 >現に「孫子の兵法」で確証済み。 日本に孫子の兵法が伝わったのはおそらく平安時代だろうといわれています。私が知る限りで孫子にまつわる日本のエピソードで一番古いのが、前九年の役のときの源義家に対して「好漢惜しむらくは兵法を知らず」といった人がいて、そのときに源義家が学んだ兵法が孫子だったといわれています。 また現代に伝わる孫子の兵法は、あの曹操が編纂させたものを原本としているそうです。つまり曹操版孫子が最古の孫子の兵法になるということですね。 古代日本史においては畿内と九州ばかりが注目されますが、私はキーになる国は出雲であると思っています。古代日本で最もテクノロジーが進んでいたのは間違いなく出雲だったはずで、その「最大の工業国」がなぜ歴史の表舞台から消されてしまったのか非常に興味深いですね。

bigroup
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 う~ん、発音から大和ですか。当時は日本に文字が無くても「古事記」や「日本書紀」の時代に、伝説や言い伝えなどで登場しても良いのではと思いました。(笑) それと「孫子の兵法」は伝わって無いのは知っています。 自分が言いたかったのは、今も大昔も、相手を騙して「騙し討ち」するなど歴史上、日常茶飯事的な事を言いたかったです。謀叛とかも当時からあったと思います。言葉足りなくてすいません。   あっそれと出雲の話も気になりますね。

回答No.5

 はじめまして。  私はそのころ、日本は小さな国の乱立状態だったと考えています。その中のどれかのお姫様のことを「卑弥呼」と表記したんでしょう。  意外と考慮されてないな、と思うのは「魏志倭人伝」を書いた人物がいい加減なやつで、大陸から東にあたる島々を回った記録をちゃんとつけてない、という可能性です。  近隣の国の名前として、漢字は忘れましたが、当時の発音で読むと「ホカタ」という発音になる国名が記載されているんだそうです。そして当時の大陸には「ハ」と発音する文字はなかったそうで。これを以て九州説の根拠としている人がいましたが、倭人伝を書いた人物が「あ、そうそう、ホカタってところも通ったなあ。どっかに入れておかなくちゃ」と、適当なことを書いた可能性だってあると思うんです。  当時の日本は小国がたくさんあるだけでしたから、その小国にしてみれば大国から大軍勢が押し寄せることは恐ろしかったでしょう。しかし当時豊かな大国の人間だった「倭人伝」の記録者から見て、日本は大軍勢を渡海させてまで欲しい土地だったでしょうか?山岳国で平地が極端に少なく農業に向かない、家畜として価値のありそうな特段の動物もいない、島国よりさらに東に広い土地があって足がかりにできるわけでもない・・・「どうでもいいや、こんな国」というのが倭人伝を書いた人の正直な気持ちだったかも知れません。  歴史的文書を、歴史的文書であるというだけで正確なものと判断するのは時として間違うと思います。

bigroup
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 当時の記録っていい加減な可能性は絶対ありますよね。しかも日本なんて、そんなに欲しい土地でもない。なるほど現実的な考えで良いと思います。 自分は、戦の駆け引きに偏っているのでしょうね。 いい加減な記録=何か理由がある。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9577)
回答No.4

bigroup さん、こんにちは。 卑弥呼がもらったという「親魏倭王」という金印が出てくると、解明されると思うんですがね。

bigroup
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 金印が出てきたら世紀の大発見ですね。真実は一体・・・。

  • IDii24
  • ベストアンサー率24% (1597/6506)
回答No.3

卑弥呼とは姫巫女の事であり、いろいろな地方に存在があります。ですから一人ではなくたまたま大陸側から見たときに相対した姫巫女の居た場所ということになるでしょう。 邪馬台国が朝廷であったかのかもわかりません。たまたまその地方で栄えていた民族とも考えられますのでその存在に意味があるのかも良く分かりません。

bigroup
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 大陸から見ると日本なんか小国。表現の仕方を一括りにされても、おかしくないです。 民族なら熊襲が有力かも知れませんね。   

回答No.2

 日本に当時の文献がないのは、単に日本に文字が存在していなかったことが理由です。民謡や儀式などは全て口頭伝承でした。だから当時の文献は文字文化であった漢や魏などの歴史書を頼るしかないのです。  卑弥呼が実在の人物だったとして、「魏志」の中で「卑」の字を一国のリーダーの名前に使ったり、「邪」の字を国名に混ぜたりなどしているのは、中華思想を広めるために意図的に書かれたと考えられるのです。さらに邪馬台国の位置が不明であるのも、「皇帝の威光が、東夷(東方に棲む獣)にまで及んでいる」というイメージを創り上げたのです。そのため、差別的な文字を使い、位置や方角は敢えてデタラメに書いたと考えるのが自然のようです。  現在もそうですが、シナでは国が交代するたびに現権力の正当性を誇示するために、旧権力を徹底的に破壊し、関係者は全員殺戮される運命にありました。その時に歴史も新権力を称える形で書かれます。  神道の祝詞から連想すると、太古の時代には、現在の皇室の源流に当たる祖先は九州から発祥したのではないかと思われます。

bigroup
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 史実は、当時の権力者達に変えられていきますね。 自分は九州なので、邪馬台国や卑弥呼が実在したならば 九州であって欲しいです。

  • tzd78886
  • ベストアンサー率15% (2589/17102)
回答No.1

そもそも日本にあったという証拠はないし、研究家たちが勝手に日本だろうと推測しているだけの話。本当のところは分からないし、多分永久にわかることは無いと思う。

bigroup
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 永久にわからないですよね。(笑) こうやって答えが無いものを、考えるって無意味かも知れませんが、なんとなく楽しいです。

関連するQ&A

  • 邪馬台国の女王「卑弥呼」とは何者か?

    魏志倭人伝に登場する邪馬台国の女王「卑弥呼」とは何を意味するのでしょうか。当時の日本に邪馬台国という小国があって、その領袖は女性であり、「卑弥呼」という名前だったと、素直に読むべきでしょうか。それとも、一部の歴史家が言う様に、邪馬台国とは初期の大和朝廷のことであって、女王というのは当時の中国人の誤解であり、当時の日本人が領袖を「日御子(ひのみこ、ひみこ)」と呼んでいた。それを中国人が聞いて「卑弥呼」の文字をあてた。「日御子」は後世になって「天皇」と呼ばれるようになった、と考えるのが正しいのでしょうか。

  • 邪馬台国の謎について

    考古学には素人ですが、興味があっていろいろな文献を読んだりしています。考古学の最大の謎は邪馬台国が畿内にあったか北九州にあったかの議論だと思いますが、私はどっちにあったにしても、もう一つ同じ時代に同じ規模の集落(クニ)があり、同時に栄えていたと思うのです。そうしてそのどっちかがいわゆる邪馬台国で、もう一方は別の国だったと思います。 そもそも当時の倭国にかんする記述は魏志倭人伝の2千文字しかなく、それ以外の記録は一切ありません。もしこの魏志倭人伝すらなかったら、「邪馬台国」の存在自自体が分からなかったことになります。同様に、記録には残らなかったが実在した国は多数あったはずで、仮に邪馬台国が北九州だとしたら畿内の纏向遺跡や箸墓古墳は別の同じ規模の国王が住んでいた場所で、邪馬台国が機内だったら北九州は別の王が住んでいた巨大集落だったということだと思います。 要するに記録が1つしかないから畿内か北九州かの一元論になってしまい、実際にはいろんな大規模集落があちこちにあり、それぞれに倭国の王とおぼしき人物がいたんだろうと思います。 けっして当時の倭王が卑弥呼だけだったとは思えません。 従って魏志倭人伝だけを根拠にして邪馬台国がどこにあったのかを議論すること自体ナンセンスで、そこは倭国全体の中心地点だった証明にはならないと思います。 邪馬台国論争はいつの時代でもいろんな学者がいろんな意見を戦わせていますが、私としては上記のように思います。 いろんなご意見をいただければ幸いです。

  • 邪馬台国について

    前々から思ってた事ですが、 「邪馬台国」は「やまたいこく」と呼ぶのではなく 「やまと(大和)の国」=大和政権、 「卑弥呼」は「ひみこ」ではなく、漢文的に「ひめ(姫)と呼ばれていた」 =女帝の1人とは考えられないのでしょうか? 「魏志倭人伝」で地理や年代の記述が合わないと言われてますが、 中国はまだ三国騒乱の時代で、どこまで辺境の日本の事を 構っていられたか分りませんし、 当時の中国人にとって行った事もない日本の地理が どこまで正確だったのかも分りません。 邪馬台国がその後の大和政権に繋がったと考えるのはナンセンスなのでしょうか?

  • 邪馬台国は何処(いずこ)

    永遠のテーマで今まで何回も質問されてるでしょうけど・・・お付き合い下さい。 最近、邪馬台国に興味を持ちまして、いろいろな文献を読み漁りました。 邪馬台国の場所は、正直、何処でもいいのですが、やっぱり「ここにあった」と知りたいですよね。 畿内説と九州説・・・最近は魏志倭人伝に頼らず、墳墓の発見で畿内説が定着してるそうですが、私的にはどう考えてもやっぱり「九州中北部説(福岡の久留米市~みやま市辺り)」ではないかと思います。 魏志倭人伝の解釈の違いでいろいろな意見があると思いますが、土地の地名を考えてもやっぱり九州しか考えられません。(やっぱり方角とかは、旅するに当時重要なキーポイントなので間違えるはずがないと思います) ただこれは私の推測ですが、当時、邪馬台国は九州の中北部にあり、大陸との貿易である程度、発達した文明(といえるかどうか)があった。 それとは別に機内には、邪馬台国よりは若干、文明が遅れているが、強大な国家(ヤマト政権)があった。 ただ、邪馬台国は、大陸と近いこともあり、魏国との付き合いが深く、ヤマト政権は遠い国なので、魏国とそれほどの交流は無かった。 しかし皆が言うほど邪馬台国は「大国」ではなく、卑弥呼というシャーマンが象徴である国に過ぎなかった。(魏国人にはそれが珍しく見えたので、興味本位で記載しただけ) そのうちヤマト政権が強国化し、征西して、僅か数日で邪馬台国を滅ぼし、日本を統一した。 魏国は、その後、ヤマト政権を正式な日本の国家として承認した。 ただしヤマト政権は、魏国に媚びることなく(ある意味野蛮)一国家として同等の立場で貿易をした。 ちょっとドラマチックですが、素人考えの私の推論です。 つまり邪馬台国と今日の朝廷は別国家で、全く繋がりが無いと思います。 畿内説は無理やり、邪馬台国=ヤマト政権(読み方の雰囲気は似てますけど)としている感じです。 ただ邪馬台国という名称は、僅か2000文字の魏志倭人伝で書かれているだけなので、当時その国の人が自国を邪馬台国と呼んでいたのどうかも疑わしいですね。 実際、九州には(大和、ヤマト、山門)という地名が本当に沢山あるのが分かりました。 う~ん、九州は出先で本国中枢はという畿内という感じもロマンがありますが、やはり、距離が遠いですし、畿内ならもっと具体的な文献が沢山出てきても良いと思いますが・・・ もしかしたら卑弥呼は、最前線の女司令官?(おっと畿内説に寄ってきている)・・・ 皆さま、どう思いますか??? ただ魏志倭人伝に出てくる地名と今日、九州にある地名が似通っているし、総合的に判断すると九州に邪馬台国はあったと思うのですが・・・ 皆さま、ご指南、勉強させてください

  • 邪馬台国はどこ?卑弥呼は誰?結婚?天岩戸は?

    事情がありどうしても以下のことが知りたいのです。 信憑性のある情報をお持ちの方、歴史・神話に詳しい方、分かりやすい言葉で根拠を添えて教えていただけると助かります! ●邪馬台国はどこだったか? 九州説、近畿説とありますが、どこが一番有力なんでしょう。 ●卑弥呼は誰だったか? 天照大御神、神功皇后、倭姫神、市杵島姫神など、沢山説がありすぎてわけわからなくなりました。 誰が一番有力なんでしょう? ●素戔鳴尊と卑弥呼は結婚したのか? 結婚後、宗像三女神をもうけ(剣からでは?)、出雲の八重垣神社にその絵があるというのは本当なんでしょうか? ●天岩戸は宮崎県高千穂?三重県伊勢? 古事記で書かれている天岩戸は、いったいどっちなんでしょうか?

  • 邪馬台国と魏志倭人伝について

    テレビや雑誌などで見かける邪馬台国がどこにあったかという論争で 昔から気になっていることなのですが、 そもそも魏志倭人伝に書かれた内容そのもの信憑性について あまり聞いたり見たことがありません。 史書とは言え、 書き手もしくは母国の主観が当然あるでしょうし、 かつ政治的意図も入っていると思うのです。 それを教条主義的に捉えられているようにしか見えないのですが、 当時の政治状況や正史の扱い、他の列伝についてあまり言及せず、 現代日本では魏志倭人伝の記述をそのまま正しいものとして 邪馬台国論争を述べているのが多いと思うのですが何故でしょうか?

  • 卑弥呼が日本の歴史書に詳しく記されていない理由は?

    以下のような目の醒める興味深い投稿を見つけました。あなたはどう思いますか? 卑弥呼が日本の歴史書に詳しく記されていない理由は卑弥呼が日本では嫌われた売国奴だったからです。 実は卑弥呼に関連する事は記紀の中に記されていますが、それは日本書記の神功皇后のなかで魏に貢物をした時に関連した記事が出てくるだけで当時の記紀の作者らは魏志倭人伝の存在も内容も知り読んでいながら、全く興味を示さずに調べようともせずに、神功皇后の事だけ書いています。 つまり記紀を執筆した人々は完全に卑弥呼を無視しているのです。 しかも彼らは卑弥呼が存在していた事さえ知っています。 それなのにどうして卑弥呼の名前さえ書こうともせずに無視して軽視したのでしょうか? それは卑弥呼が当時は売国奴であり、魏に支援を頼んだところで売国奴として、親族の卑弥弓呼に処分(殺害)されたことに原因があります。 卑弥呼の最後を見てみれば一目瞭然です。 卑弥呼の行動については日本の記紀では数行で済ませていますし、他の文献でも卑弥呼はほとんど無視されています。この事から卑弥呼は日本にとっては重要な存在でなかったことを示しています。 それでは卑弥呼が書かれている魏志倭人伝をもう一度見てみましょう。 倭女王卑弥呼与狗奴国王卑弥弓呼素不和 狗奴国の卑弥弓呼と卑弥呼の仲が悪く、しかも男子王の卑弥弓呼の地位は高く卑弥呼もおいそれと手出しできなかった事が魏志倭人伝に書いています。 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状 遣塞曹椽史張政等因齎詔書黄幢 拝仮難升米為檄告諭之卑弥呼以死 魏志倭人伝にも書かれているように卑弥呼が魏に援軍を頼んだところでこの男子王である卑弥弓呼に殺されたとみるのが妥当だと思います。 その原因もこの男子王の卑弥弓呼に軍事面では全く敵わないから外国に援軍を頼むという今でも昔でも恥知らずともいえるべき売国奴行為です。 卑弥呼は同じ日本人からも見捨てられて、、魏に内通した売国奴として卑弥弓呼(卑弥呼王)に殺されたのでしょうね。 しかし卑弥呼と卑弥弓呼(卑弥呼王)はどうみても夫婦か血縁的に非常に近い関係ですね。 当時は兄弟でも肉親でも時として反目して戦争で殺しあっていました。 魏志倭人伝をよく見ると卑弥呼は軍事面においてはこの男子王の卑弥弓呼に全く敵わずに援軍の要請を魏に出していることがわかります。その中で卑弥呼は魏を説得させるために明らかに嘘をついています。 だから話がおかしなことになるのです。 金印の原因となった貢物のついても、お金はあるが、軍事力がない卑弥呼のバックグラウンドを垣間見る事が出来ますね。 さて狗奴国の卑弥弓呼ですが、卑弥呼と名前が非常に近い事、また卑弥弓呼とは卑弥呼王と推測できるが故にこの人物も間違いなく皇族であり、卑弥呼とほぼ対等な立場の人間だったと思われます。 卑弥弓呼(卑弥呼王)と卑弥呼は文字通り兄弟若しくは親戚。はたまた夫婦であったと考えられます。 だから狗奴国の卑弥弓呼も邪馬台国の政治に関与できる人間と見た方がいいでしょう。 実際に卑弥弓呼は男子王を擁立しようとしています。 と言う事は狗奴国の卑弥弓呼は邪馬台国の政治に口を出せる立場であった事がうかがえますね。 魏志倭人伝でも狗奴国の卑弥弓呼は殺されたとは書いてありません。 むしろ邪馬台国の後継者問題に口をはさんで争いを起こしているのです。 それでも殺されていないことが伺えます。 これは卑弥弓呼は卑弥呼と仲は悪かったが、邪馬台国において非常に高い地位にあった事を示しています。 結局はこの卑弥呼と言う女は対立する卑弥弓呼を殺ろして日本を乗っ取るために魏に援軍を頼んだものの、それがすぐに発覚して殺されたとみるべきでしょう。 卑弥呼(詐欺師)の貢物や金印の目的も魏志倭人伝に書いてありますし、死因も書いてあります。 じゃあ、卑弥呼とは誰だったのでしょうか? 最近の最も有力な説の倭迹迹日百襲媛命ですが、この人の場合には最後には陰部に棒が刺さって死んでいます。(これは最後には売国奴と死んだことを表しています) 魏志倭人伝の卑弥呼の場合にも悲惨な死を迎えましたから、合致していますね。 日本の記紀によると神功皇后の時代に卑弥呼がいたと記されています。 注意したいのは記紀では神功皇后が卑弥呼だとは一言も言っていないのです。 該当するのはおそらく仲哀天皇の残りの二人のお妃でしょう。 もしくは神功皇后に仕えていた侍女あたりでしょう。 本居宣長は山門(ヤマト)の田油津姫を候補に挙げていますが、知ったか戦後の現代人の考える卑弥呼像より、こちらの方がはるかに正しいと私は思います。 ともかく売国奴として死んだ卑弥呼はその後に忌み嫌われて日本史の舞台からは抹消されたと考えるのが筋でしょう。 記紀の内容は嘘ではなく真実も多く含まれると思われます。 魏志倭人伝の内容も邪馬台国の位置や方向がでたらめな事を考慮するとこれもまた半分は眉唾物であり、記紀と同じくらいの正確さしかないと思われます。

  • 邪馬台国に関する私論

    考古学については素人ですが、邪馬台国問題に関心があり、いろんな本で個人的に研究してます。そこで自分なりの考えを披露してみますので、考古学的な考え方におかしいかどうかアドバイスが欲しいです。 長文になりますが、我慢して読んでいただけると幸いです。 まず結論からいうと、邪馬台国は北九州にあったと思うのです。理由は2つあって、一つは近畿地方だとすると魏志倭人伝の記述の仕方が不自然だからです。倭人伝によるとまず帯方郡から出発して狗邪韓国→対馬国→一支国→末慮国→伊都国→奴国と非常に細かくしかもかなり正確に記載されています。距離的にも数キロから数十キロおきにこまめに記述されてます。ところがその先が奴国→投馬国へが「南へ水行二十日」とあり、投馬国→邪馬台国が「南へ水行十日、陸行一月」ときわめておおざっぱで、それだけの長距離または長期間移動したのであれば、当然その間にもたくさんの島や小国があったはすです。それが一切無視されていきなり奴国から邪馬台国の間に投馬国しか記述がないのはいかにも不自然です。帯方郡から奴国(九州北部)まではこまめに書いてあるのに、そこから近畿地方までいきなり数百キロ飛ぶのはおかしいと思います。なぜ九州北部から近畿地方まで一気に記述が飛んでしまうのでしょう。なぜその間にあったはずの国々についての記述がないのでしょう。 それともう一つ疑問なのは、これは単純に私の感覚的な思いですが、人間は目に見える範囲でしか行動できないと思うのです。今は地図もあるしスマホもあるので知らない土地に苦も無く行けて、ナビシステムがあれば苦も無く目的地に行けます。しかし弥生時代のろくな航海術も移動手段もない時代に、どうやって帯方郡から近畿地方に行ったというのでしょうか。魏志倭人伝に倭国の記述があるということは、誰かがそこまで行って再び帯方郡に帰ってきたということです。帯方郡から海を渡って九州に来て、そこから近畿地方まで行って、また同じ距離を戻るなどということが簡単にできたわけはないと思います。その間の食事や寝床はどうしたのでしょう。また道路だって整備されていたわけではありません。船で瀬戸内海を陸を見ながら航海したとしても、方角的に本当に目的地に向かっているのかどうかも分からず、その先に本当に邪馬台国があるのかも分からないのです。要するに目に見えない目的地に向かって、ただ人からの聞き伝えを信じて移動するなどということは不可能だと思うのです。 そう考えると、むしろ奴国から先の魏志倭人伝の距離に関する記述が間違っていて、邪馬台国はやはり九州にあったと考えるのが自然だと思います。南へ水行十日や二十日というのは水行一日や二日の間違いで、もしかしたら陸行一月というのも一日の間違いかもしれません。そう考えて九州地方に邪馬台国があったと考える方が自然だと思います。もちろん魏志倭人伝の記述が間違っていたというのは単なる推測で根拠はないのですが、それにしても倭人伝に記載のあるとおり方角や距離を進めると日本列島を大きく南にはみだしてしまうことを考えると、やはり魏志倭人伝のどこかに記述の誤りがあったはずなのです。 上記以外にも細かい疑問点はあるのですが、こうした理由から私個人としては邪馬台国九州説を取りたいのです。こうした考察の仕方はおかしいでしょうか。ちゃんとした考古学的な考察ではどのように考えるのが正当なのでしょうか。詳しい方からのアドバイスが欲しいです。 よろしくお願いします。

  • 邪馬台国って、

    やはり、邪馬台国は、 九州地方かと思います。 魏志倭人伝よりルートを 素直に読むと、 不弥国 <福岡県槽屋郡宇美>より、南へ水行20日 当時はもちろん手漕ぎ舟ですから、 相当時間がかかったようです。 が、陸路を歩くよりかかなり早いかと。 現在不明地域の投馬国に到着。 たぶん、日向市辺りかと思います。 そこで休憩し食事をし、 更に南下し水行10日で、 邪馬台国。 (陸路一月というのは、一支国 <壱岐>から、歩いた場合かと。) たぶん邪馬台国の卑弥呼の住む街は 日南市辺りかと 思いますね。 卑弥呼の納めてる国そのものの一周は、400キロ。 卑弥呼が住む街より 南側は、 狗奴国で、邪馬台国と敵対視している国。鹿児島を含む北九州地方かと。 邪馬台国が宮崎市と言う説があるが、 船旅の 距離的に合わなくなる。 また、内陸に邪馬台国があった場合は、他国との情報が遅くなり不利になる。 卑弥呼亡き後は、その跡に家が建ち並ぶとあり、新たに男子を国王としと記述あり。 卑弥呼の住処は たぶん、現在は、日南市の 住宅街の地下に痕跡かあるかと。 昔からある県境は、 やはり、昔ながらの山林地形や、 立ち入り禁止箇所であるいにしえがあるから、その歴史などを参考にすると 良い。歴史上あまりかわらないときが 多い。 ゆえに、南側の国が、邪馬台国を 攻めきれない場所には、 やはり国境には、たくさんの人が 警戒し住んでいたことになるため、 情報収集のため、 やはり卑弥呼の住む街も国境に 海寄りになる。 卑弥呼が女王になったときは、 すでに卑弥呼は年齢的に増していたために、当時寿命は50歳だったため、たぶん40歳代ぐらいだったのかと。ゆえに、身内男子が采配をし 卑弥呼は、行事的な神秘的な 神主巫女みたいな感じでは なかったかと。 どうかな? このような、 説は? 私は九州地方に一回も行ったことが ないけれど、 九州地方に住む方は、地形などわかるから、 邪馬台国の謎って、ロマンありますよね?

  • 邪馬台国(沖縄県~台湾説)

    魏志倭人伝を素直に読むと邪馬台国が沖縄県~台湾に有った! 与那国海底遺跡が邪馬台国であったと言う記事が有りました。 比較的に温暖だったと史料に有ることも気になりますが、そうなると様々な説が有る中で畿内説、九州説はどうなるのでしょうか? また、大和朝廷との関連も気になりますが、どう言う事になるのでしょうか?