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邪馬台国って、

やはり、邪馬台国は、 九州地方かと思います。 魏志倭人伝よりルートを 素直に読むと、 不弥国 <福岡県槽屋郡宇美>より、南へ水行20日 当時はもちろん手漕ぎ舟ですから、 相当時間がかかったようです。 が、陸路を歩くよりかかなり早いかと。 現在不明地域の投馬国に到着。 たぶん、日向市辺りかと思います。 そこで休憩し食事をし、 更に南下し水行10日で、 邪馬台国。 (陸路一月というのは、一支国 <壱岐>から、歩いた場合かと。) たぶん邪馬台国の卑弥呼の住む街は 日南市辺りかと 思いますね。 卑弥呼の納めてる国そのものの一周は、400キロ。 卑弥呼が住む街より 南側は、 狗奴国で、邪馬台国と敵対視している国。鹿児島を含む北九州地方かと。 邪馬台国が宮崎市と言う説があるが、 船旅の 距離的に合わなくなる。 また、内陸に邪馬台国があった場合は、他国との情報が遅くなり不利になる。 卑弥呼亡き後は、その跡に家が建ち並ぶとあり、新たに男子を国王としと記述あり。 卑弥呼の住処は たぶん、現在は、日南市の 住宅街の地下に痕跡かあるかと。 昔からある県境は、 やはり、昔ながらの山林地形や、 立ち入り禁止箇所であるいにしえがあるから、その歴史などを参考にすると 良い。歴史上あまりかわらないときが 多い。 ゆえに、南側の国が、邪馬台国を 攻めきれない場所には、 やはり国境には、たくさんの人が 警戒し住んでいたことになるため、 情報収集のため、 やはり卑弥呼の住む街も国境に 海寄りになる。 卑弥呼が女王になったときは、 すでに卑弥呼は年齢的に増していたために、当時寿命は50歳だったため、たぶん40歳代ぐらいだったのかと。ゆえに、身内男子が采配をし 卑弥呼は、行事的な神秘的な 神主巫女みたいな感じでは なかったかと。 どうかな? このような、 説は? 私は九州地方に一回も行ったことが ないけれど、 九州地方に住む方は、地形などわかるから、 邪馬台国の謎って、ロマンありますよね?

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みんなの回答

  • nagata2017
  • ベストアンサー率33% (6217/18535)
回答No.4

卑弥呼の墓とされている箸墓古墳は、奈良県桜井市にある前方後円墳です。 墳丘の長さは276メートルもあり、出土した特殊壷・器台形埴輪から最古の前方後円墳と目されています。 一方で 邪馬台国は九州とする説が有力なようです。 矛盾している感じがしますね。 もっとも 箸墓古墳は年代測定の結果が卑弥呼の没年に近いことからそういう説が生まれたという背景がありますけど。

runatickdance
質問者

補足

魏志倭人伝には、卑弥呼が亡くなった後の、背景も記述されております。卑弥呼の墓を制作しているとは 記載なく、卑弥呼の亡き後、統一していた諸国が少し荒れたが、 卑弥呼の後継の男の子を立てたら、 安定したと記載があります。 たぶん、奈良県のお墓は、 まったく別の時間にゆとりがある 偉人のお墓かと思います。 近隣の諸国の反乱などあれば、 ゆるやかに、後円墳なと作るゆとりがどこにあるでしょうか? 一刻も早く男子王を擁立させた と記載あるゆえに、 卑弥呼の亡くなった悲しみを そう長く慈しみの時間さえも無かったようです。 たぶん50歳前後でお亡くなりになったかと。 奈良県最古の古墳は、 やはり天皇の先祖ではないかな。 古墳を制作するという行為を 最初にやった主人の悲しみを 後世に残すためにその手法を どこかの国から学び見習い作ったわけですから、九州文化とはかなり 違いますから。 卑弥呼と交流があった年代と 亡くなった年代から しばらく、何一つ交流記事が無く、 または、失ったのか、 1世紀の間が空いて、大和朝廷との 交流が始まりました。 ゆえに、この間に、 邪馬台国は反乱から姿を消し、 たぶん九州地方諸国が、邪馬台国の 支配から外れバラバラになったかと 思われます。 邪馬台国の唯一、南側の敵国が、 勢力を強めた背景もあり、 支配を拡張したかと思います。 漁業豊か、鉄武器と記載があるので、たくさんの舟での侵略も 可能だったのかと。 東側のそれぞれの違う倭人が住む国にも、影響したかと思われます。 その侵略国家こそ大和朝廷の祖先にあたります。 私の憶測だと半世紀かけて、 九州中国四国と、統一し、 近畿地方まで勢力を伸ばし、 良い土壌のある奈良県でその先祖が 没落し最初の後円墳になったのかと。亡くなった地で、改めて 大和朝廷を称したのではないかな? いきなり、 大和朝廷発足とはいきませんから、 争いが長く続いて統一し 大和朝廷となり、 安泰したから、 中国の国に行使を使わしたのかと 思いますね。 これが西日本の歴史ではないかな。 また、長くに朝廷として世代交代してきて、奈良県の平城京を作り上げた背景と、数々の古墳群が、残る。 よって、邪馬台国と大和朝廷は、 まったく別物かと。 それでも唯一、大和朝廷の故郷は北九州であり、やはり 鹿児島ではないかな。 昔から力強く民族の面影がありますし。いつしか大和朝廷は、天皇と呼ばれ、いつの時代にも大切にされてきた。ゆえに日本を最初に統括したのは大和朝廷かと思うからこそ、 その子孫を天皇とし。 ゆえに、奈良県の数々ある後円墳は、今だにきちんと調べられてません。天皇祖先であることから、 なかなか調べられないのかと。

  • 5555www
  • ベストアンサー率50% (139/276)
回答No.3

私は、九州には住んでおりませんし、日本史の専門家でもありませんので、きわめて無責任な回答になりますが、邪馬台国は少し興味を持っていた時期があります。 「どこにあったか?」ということからすれば、他の方のご回答にもあるように、纏向遺跡と箸墓古墳が極めて有力なのだと思います。感覚的には95%以上の確率で現在の奈良地方だと感じます。 ただ、私は、「北九州にあったのではないか?」というかすかな希望と大いなる願望は持っています。(笑) 佐賀県の吉野ケ里遺跡なんかは、規模の問題は別にして条件はそろっていると思います。それに北部九州には「ヤマト」という地名も多いようです。 魏志倭人伝にある邪馬台国に至る距離や方位や行程については、これまでいろいろな専門家が調べてきても分からないのですから、あまりこだわらないでもよいのではないかと思うようになりました。 とすれば、その後の日本史の中心が奈良地方になったとはいえ、やはり、玄関口である北九州地域というのは捨てがたい魅力を感じます。仮に奈良県にあったとしても、倭人伝の中で、一言ぐらい「北部九州に触れてもいいではないか?」という思いもあります。 それに、邪馬台国(卑弥呼)と対立した「狗奴国」というのが気になります。邪馬台国の南に位置していたようです。これを奈良県に置き換えると「狗奴国」なる国が、奈良県の南のどの地域にあったのか想像がつきません。また、その名称からも、もとは奴国(現在の福岡県福岡市・春日市・粕屋郡あたりという説)に存在したと推定する研究者が多い。)の分国であるという説もあるようです。狗(犬)奴国は犬狼信仰を持つ部族の国家である故に名づけられた名称と見る説もあるようです。そして実際に狗吠や犬舞、月星信仰などは南九州で顕著であったようです。 宮崎県に西都原古墳群という遺跡があるそうです。根拠はありませんが、そのあたりが「狗奴国」だったのではないかと空想しています。(笑) 邪馬台国の謎って、ロマンありますよね?……確かにそう思います。この問題は、卑弥呼に賜与されたとされる「親魏倭王」の金印が箸墓古墳から出土しない限り決着はつかないんじゃないかと思いますね。もっとも決着がついたら日本の古代史も、今よりは面白くなくなるかも。愚論で失礼します(笑)

runatickdance
質問者

補足

近畿説が、 多いみたいですね。 邪馬台国から東に2つの大陸があり それぞれに、倭人の別の国が あったと魏志倭人伝には 記載がありました。 北九州には、 確かに大和の名称が、 多く、大和朝廷の先祖ゆかりの地と 言われてます。 日本には、 独特な文化の紀伊半島。 また、出雲大社。 また、奈良県に一局集中してる 古墳群。 大和朝廷4世紀から発展。 邪馬台国は3世紀。 時代が錯誤してて、 また、北九州だけ独特な感じ。 大和朝廷が誕生する以前の 近畿黙示録なるものを 調べないといけないかも しれませんね。 ただ、奈良県は、 古墳群だけの地域みたいに思えます。言わば、墓場地域。 住処は別の場所にあったような。 紀伊半島の独特な歴史も 普通の日本人からかけ離れた 感じが致します。 また、古来の日本地図だったなら、 今とまったく地形が違いますから、 消えた街とかあったかも知れません。 また、日本とはまったく別の国、 沖縄県。北九州の南側の 海の中の小島郡。 もう少し、屋久島辺りも、繋がって広かったような気も致します。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10474/32932)
回答No.2

「邪馬台」を古代中国語の研究者に発音してもらったら「ヤマタォ」と読んだんですよね。私はそれを聞いて「あらー、ヤマトじゃない」と思いました。 奈良県にある纏向遺跡が、邪馬台国の最有力候補とされています。そしてその纏向遺跡のすぐそばにある最古の前方後円墳といわれる箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないかといわれています。 邪馬台国の方角ですが、「意図的に東を南に書き換えた」という説があります。 邪馬台国の使節団が訪れたのは、あの三国志に出てくる魏です。当時は南方に呉があり、魏とは対立の関係にありました。邪馬台国(倭国)の使節団は、邪馬台国が呉と東シナ海を挟んで対岸にある国に見せかけることによって呉を牽制できる存在であると高く売ることができるので、本来は東に向かうところをあえて「南」に書き換えたというのです。 その真偽を確かめることは不可能ですが、私は大いにありえるだろうと思っています。 「纏向遺跡が邪馬台国で箸墓古墳が卑弥呼の墓」ということになると、考古学的な辻褄は合うのかなと思います。今はその説が8~9割くらい有利ですね。 纏向遺跡は古来からあった集落というより、政治的に作られた都市だと考えたほうがしっくりくると思います。今でいうとニューヨークの国連本部みたいな感じですね。 九州地方で何か考古学的な大発見がないと、九州説はなかなか劣勢でしょうね。

runatickdance
質問者

補足

魏志倭人伝には、 邪馬台国が支配していた諸国の 名称が記載されています。 すべて九州地方の諸国になります。 邪馬台国が奈良なら、 関西近畿地方の諸国名が 無いと不思議に思われます。 また、奈良県近県にある 後円墳や遺跡は、 日本はすべて不思議と調べてません。立ち入り禁止だけ。 調べてることすら、忘れているのか?不思議は日本です。 遺跡がたくさんある場所は調べず、 たまたま遺跡が出てきた場所だけ 公表しているだけになります。 まして、近畿地方に行くのに わざわざ、九州地方を歩いて 消化する必要があるだろうか? 意図的に隠したいなら、 邪馬台国の支配諸国すら記載しない かと思います。

  • takochann2
  • ベストアンサー率36% (2013/5548)
回答No.1

近畿に住んでいるが、どこでも良いので早く決着をつけてほしい。複数の豪族の共同の象徴的な首長でしょうから、貧弱な遺跡でどこか意外なところにあるのではと個人的には思っています。

runatickdance
質問者

補足

そうですね。 たぶん、今は廃れた港街辺りが、 邪馬台国だった可能性が高いです。 日向街と日南街の間、辺りに 合ったかと思いますよ。 すぐに舟で移動でき、近隣の物を集めて 貿易まで出来る小さな港街が、 たぶん、今はその賑わいはなく、 住宅街の地下に痕跡があるかと 思います。 記載にも、卑弥呼亡き跡、そこには 住宅が立ち並びとあるし。 卑弥呼の後をまだ幼い男子がまとめ上げるとありますし。 秘めた謎があるから、 これだけ有名な話題になりましたが、場所が特定されていたら、 それはそれで、 女王だったことすら、 驚きですし。ただ卑弥呼が女王になったときは、すでに年配だったらしく、身内の男子が政策をしていたわけで、そこまで詳しく記載ありますし。海外からも女王と知ったから、 珍しくて魏志倭人伝にも記載したのかと思われますし。 女王に会いたい気持ちもあったのかと思いますね。

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