邪馬台国の場所は九州中北部説が有力?

このQ&Aのポイント
  • 邪馬台国の場所について畿内説と九州説がありますが、最近の研究では墳墓の発見から畿内説が有力視されています。しかし、九州中北部説(福岡の久留米市~みやま市辺り)が私的にはより妥当だと思います。
  • 邪馬台国は九州中北部にあり、大陸との貿易を通じて一定の文明が存在していたと考えられています。一方で、大陸との距離が遠かったためヤマト政権との交流は少なかったとされています。
  • 邪馬台国とヤマト政権は別々の国家であり、全く繋がりがなかったと思われます。しかし、邪馬台国の存在は魏志倭人伝に2000文字ほどの記載があるだけであり、実際に当時の人々が自国をそう呼んでいたかどうかは疑わしいとされています。
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邪馬台国は何処(いずこ)

永遠のテーマで今まで何回も質問されてるでしょうけど・・・お付き合い下さい。 最近、邪馬台国に興味を持ちまして、いろいろな文献を読み漁りました。 邪馬台国の場所は、正直、何処でもいいのですが、やっぱり「ここにあった」と知りたいですよね。 畿内説と九州説・・・最近は魏志倭人伝に頼らず、墳墓の発見で畿内説が定着してるそうですが、私的にはどう考えてもやっぱり「九州中北部説(福岡の久留米市~みやま市辺り)」ではないかと思います。 魏志倭人伝の解釈の違いでいろいろな意見があると思いますが、土地の地名を考えてもやっぱり九州しか考えられません。(やっぱり方角とかは、旅するに当時重要なキーポイントなので間違えるはずがないと思います) ただこれは私の推測ですが、当時、邪馬台国は九州の中北部にあり、大陸との貿易である程度、発達した文明(といえるかどうか)があった。 それとは別に機内には、邪馬台国よりは若干、文明が遅れているが、強大な国家(ヤマト政権)があった。 ただ、邪馬台国は、大陸と近いこともあり、魏国との付き合いが深く、ヤマト政権は遠い国なので、魏国とそれほどの交流は無かった。 しかし皆が言うほど邪馬台国は「大国」ではなく、卑弥呼というシャーマンが象徴である国に過ぎなかった。(魏国人にはそれが珍しく見えたので、興味本位で記載しただけ) そのうちヤマト政権が強国化し、征西して、僅か数日で邪馬台国を滅ぼし、日本を統一した。 魏国は、その後、ヤマト政権を正式な日本の国家として承認した。 ただしヤマト政権は、魏国に媚びることなく(ある意味野蛮)一国家として同等の立場で貿易をした。 ちょっとドラマチックですが、素人考えの私の推論です。 つまり邪馬台国と今日の朝廷は別国家で、全く繋がりが無いと思います。 畿内説は無理やり、邪馬台国=ヤマト政権(読み方の雰囲気は似てますけど)としている感じです。 ただ邪馬台国という名称は、僅か2000文字の魏志倭人伝で書かれているだけなので、当時その国の人が自国を邪馬台国と呼んでいたのどうかも疑わしいですね。 実際、九州には(大和、ヤマト、山門)という地名が本当に沢山あるのが分かりました。 う~ん、九州は出先で本国中枢はという畿内という感じもロマンがありますが、やはり、距離が遠いですし、畿内ならもっと具体的な文献が沢山出てきても良いと思いますが・・・ もしかしたら卑弥呼は、最前線の女司令官?(おっと畿内説に寄ってきている)・・・ 皆さま、どう思いますか??? ただ魏志倭人伝に出てくる地名と今日、九州にある地名が似通っているし、総合的に判断すると九州に邪馬台国はあったと思うのですが・・・ 皆さま、ご指南、勉強させてください

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回答No.8

あと、邪馬台国の読みにも書いておきます。 邪馬台の読み方は「ヤマト」です。まんまですね。これ、5世紀ごろの日本の人もちゃんとヤマト国って読んでます。当時の日本の人も、中国の史書である三国志に倭(日本)のことが書いてあり、王が居るところをヤマト国と書かれていることを知っていました。だからヤマト王権は、自分たちの王の居るところをヤマト国と呼ぶようになったんです。 邪馬台国の読みがヤマト国で、畿内ヤマト王権と同じだから邪馬台国は畿内だ、って主張をよく見かけますが、因果が逆なんです。三国志にヤマト国(邪馬台国)と書かれていたから機内の地をヤマトって呼ぶようになったんです。 ちなみにヤマト以外にも、九州の地名を山ほど畿内に付けている事が知られています。調べてみてください、びっくりですよ。これも日本書紀などで、日本(倭)は最初から自分たちが支配してたって主張を通すための、努力の証拠です。 ちなみに今の邪馬台国の一般的なヤマタイの読み方は、ヤマト王権のヤマトと紛らわしいからワザとヤマ”タイ”国って読んだのが定着しちゃったもので、読み始めた人も邪馬台はヤマトと読むことは分かっていました。 でも今の人はヤマタイと読むものだと思い込んでいるんですよね。だから邪馬台はヤマトって読むんだよって言うと、逆にトンデモ説のように思われてしまう、のかもw

19690318
質問者

お礼

へえ~ そうなんですか ほほ~勉強になりました ロマンが膨らみます ありがとうございます

その他の回答 (8)

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15294/33013)
回答No.9

 今までの説は九州説にしろ畿内説にしろ、定住性を根拠にしています。  しかし、昔、一定の土地に定着する生活は、稲作などの農業が導入されてからの話で、今よりずっと動きがあったと思われます。  福岡の近くの志賀島(野生の鹿が多かったのでしょう)から、金印が出たこ事からも九州北部に人が住んでいたようです。  それが、東征の神話にもあるように一部は動いて畿内に第二の人口センターができたのではないかと思います。  http://y-ta.net/gishi-wajinden-1/  http://benedict.co.jp/smalltalk/talk-158/  上記のように無限と言っていいほど多種の場所の比定があり、邪馬台国は、はじめ九州北部にあったが、その一部は東に進んで、国を作ったのではないでしょうか。  そう考えれば、一極集中を逆投影する必要も、定住説にこだわって無益の論争を続ける必要もないと思います。  

19690318
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます なるほどですね 畿内に第二の人口センターですか 確かに今と違って国という概念があやふやな時代でしょうから そのとおりかもしれませんね ありがとうございます

  • sara7
  • ベストアンサー率25% (38/151)
回答No.7

邪馬台国! ある人の本ではなんと「かごっま」の霧島市隼人町「浜ノ市」・・近くの鹿児島神宮に「卑弥呼神社」が ありますが? 浪漫ですね。\(^o^)/

19690318
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます 確かに鹿児島付近や宮崎の説もありますよね 南下したなら、十二分に鹿児島地方の可能性もありますね ありがとうございます

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10396/32705)
回答No.6

「邪馬台」を二世紀の中国語読みすると「ヤマタォ」になるらしいので、割と単純に「じゃあ畿内じゃん」と思っています。個人的には「九州にあって欲しい」とは思っていますが、この中国語読みと「南と東を書き間違えれば万事解決なんだから、東を南と誤って伝わったと考えるのが自然じゃない?」と考えています。吉野ヶ里遺跡なんて、ワクワクしますけどね。

19690318
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます そうなんですね 普通に考えれば確かにヤマトを指している気がします 吉野ヶ里はここぞという感じでしたが実際には違うことが判明してガッカリした記憶があります ありがとうございます

回答No.5

邪馬台国は三国志(魏志倭人伝)に書かれているもので、これを読む限り九州であることは明白ですね。持論になりますが、久留米あたりが邪馬台国です。 三国志に書かれたルートが不明確に感じるのは、梯さんと張さんのルートが異なることが原因です。梯さんは福岡平野ルート、張さんは佐賀平野ルートでした。これらをごっちゃにして書いちゃったのですね。ちなみに佐賀平野ルートは2国ほど少なく邪馬台国に着いたので、いわゆる不彌國以降の距離がどっかから取ってきた日数に変わっています。 三国志に、これほど明確に久留米あたりへの行程が書かれているにもかかわらず、未だに『どこか不明』と言われているのが不思議です。 ヤマト王権の当時の様子は、おおむねその様な感じです。静岡あたりに大人口があったとも聞きますし、畿内と合わせて日本を支配下に置く勢力が誕生したのでしょう。畿内には多くのこのヤマト王権の遺跡が残っていますから、マキムクとかもこれです。 対して邪馬台国ですが、九州の北半分程度の国々だったのですが、南の狗奴國に攻められてます。それで(倭からは3回使者を送っていますが)3回目の時に、力を貸してってお願いしてるわけですね。まぁ魏は無視して手を出さなかったのですが。なのでおそらく、邪馬台国は狗奴國に負けて消滅しています。狗奴國は九州の覇者となり、日本書紀にクマソタケルの討伐の話として出てきます。つまりヤマト王権は狗奴國とは関係があったのですが、邪馬台国とは全く関係を持たなかったので、日本書紀にも出てこないのでしょう。 あと三国志から分かるのは、倭の3回目の使者を送ったのは台与です。卑弥呼ではありません、卑弥呼はすでに死んでたのです。ここを読み間違えて、魏の張さんが着てから卑弥呼が死んだと思っている人が沢山いますが、注意してください。 簡単に、三国志に載ってる年表に合わせて、解説付きで書いておきます。 238年、卑弥呼が魏に使者を送る(倭の1回目の使者)。 240年、魏の梯儁が贈り物をどっさり持って倭に来る。 242~243年、卑弥呼死亡、男王が立つ。 243年、倭の2回目の使者。 245年、倭に贈り物を届けようとするが、太守が死んで延期 243~247年、狗奴國が邪馬台国に攻めてくる 247年、台与が魏に使者を送る、助けて~のやつ(倭の3回目の使者)。(男王じゃ魏から返事がなかったので、また女性を立ててみたのではないかと私は邪推w) 同年(247年)、新しい太守が着任し、2回目の使者に対する贈り物を届ける(張政)。張政は243年の御返しを持ってきただけで、247年の訴えを聞いて倭に来たわけではないことに注意。なのでこの年に、すぐに帰ってます。 張政への言い訳:いや狗奴國に攻められてるって言っても、うちが弱いわけじゃないんよ、ほら男王いたじゃん男王、やつがわっるいやつでさ、で、内輪どうしでちょっともめたんよ、で台与ちゃん立ててやっつけて、だから今は台与ちゃんが王様なんだけど、そうそれで、もうばっさばっさ殺しあっちゃって1000人くらい?死んじゃって、で、うちが弱ってるところに狗奴國が襲ってきたんよ、きたない奴らだよね。だから今だけちょっと助けてくれたら後は大丈夫だから、ね。(狗奴國に普通にやられたとは言えない・・)

19690318
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます 詳しく解説頂き本当にありがとうございます 非常に勉強になりました 久留米付近説ですね 確かに大河である筑後川があれば十分に考えられますね そして畿内にも別勢力・・・ ロマンがありますね~ 追記回答もあり勉強になりました

  • notnot
  • ベストアンサー率47% (4835/10236)
回答No.4

> 墳墓の発見で畿内説が定着してるそうですが、 これは、畿内前提での論なので、畿内説と九州説の優劣にはあまり意味が無いと思います。 「畿内にあったのであれば、卑弥呼の墓はこれじゃないかというものがある」 「九州にあったのであれば、卑弥呼の墓はこれじゃないかというものはまだない」 という事から、「畿内だ」というのは導けません。 > ただ魏志倭人伝に出てくる地名と今日、九州にある地名が似通っているし、 地名を主たる根拠にするのは危険です。

19690318
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます そうですよね 言い方次第ですよね 確かに言われれば魏志倭人伝の信ぴょう性も・・・・・ 実際に邪馬台国に行ってればもっと詳しく書いても良いと思いますもんね ありがとうございます

noname#217725
noname#217725
回答No.3

すでに、かなり専門的に回答しておられる方々がおられて、私が書き加えるのは、 僭越ですが、まだ高校生ぐらいの頃に「まぼろしの邪馬台国」という、宮崎康平さんの 著書を読んで、当時、かなりの論争があったことを記憶しています。 宮崎康平さんが視力障碍者でありながら、自分の足で探し当てた「邪馬台国」、 それが現在の長崎県島原市であるという、宮崎康平さんの生誕地に結論付けられた。 大体そのような内容でしたが、「目の不自由な方は、感覚がするどいのではないか」という 私の勝手な判断で、「邪馬台国」は、九州長崎の島原なんだと信じ込んだものです。 未だに「邪馬台国」が此処だと証明できるものがないのですが、そこにロマンがあると 思っております。

19690318
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます 知ってます~ まぼろしの邪馬台国 私も島原付近はあながち否定できない感じだと思います やっぱり人は大きな川か海辺に集まりますからね 有明海も荒れないですし・・・ ありがとうございます

  • maiko0333
  • ベストアンサー率19% (840/4403)
回答No.2

前にTVでやっていた説を紹介します。 まず、魏志倭人伝であるということです。 日本の歴史書ではないわけです。 「魏」が作った書物であります。 魏は三国志に出てくる「魏呉蜀」の「魏」ですよね。 魏は朝鮮半島北部に位置し、南の呉・蜀と争っていた。 呉・蜀の南に倭があって呉・蜀が挟まれているという説を宣伝すれば 呉・蜀はあわてますよね。 そういう、軍事的に事実を改変された書物であるということです。

19690318
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます 確かに三国の政治絡みの関係もあると聞いたことがあります なるほど、改変されてたら 本当にどこにあるのか迷っちゃいますよね ありがとうございます

回答No.1

近畿か九州かはよくわかりませんし、歴史の文献を見てるわけでもないので、主内容の回答というわけにはいきませんが、少しだけ。 本当に最近のニュースで伊都国王都とされる福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で国内最古級の硯が発見されたとありました。伊都国は魏志倭人伝に出てくるように邪馬台国(卑弥呼)が一大率を置き、「港で贈答する文書や品物の検査を行う」とあるように外交上において大変重要な役割をもっていた所です。またここでは文字の使用がされていたと考えられていました。その裏付けになるのではないかと今回のニュースは騒がれています。 勿論、これだけでは邪馬台国九州説を推す論拠にはなり切れません。ただ、私が素人なりに期待したいのは、当時の朝鮮の方の主導のもと行われていた文筆作業だとしても、文字の使用及び文書の作成が何らかの形で行われていたのなら、当時の記録も、魏志倭人伝という中国側の記録だけではなく、日本独自の記録も僅かばかりでもあったのではないかということです。 それが直接邪馬台国について触れているものかどうかはわかりませんが、仮にそのような文書による記録があったのであれば、もう少し当時の状況を知り得ることができるのかなと思います。

19690318
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます 確かに伊都国は重要な鍵のような気がします あ~日本側の気r区が見つかるといですね でも非常にロマンを感じますね ありがとうございます

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