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邪馬台国はどこ?卑弥呼は誰?結婚?天岩戸は?

事情がありどうしても以下のことが知りたいのです。 信憑性のある情報をお持ちの方、歴史・神話に詳しい方、分かりやすい言葉で根拠を添えて教えていただけると助かります! ●邪馬台国はどこだったか? 九州説、近畿説とありますが、どこが一番有力なんでしょう。 ●卑弥呼は誰だったか? 天照大御神、神功皇后、倭姫神、市杵島姫神など、沢山説がありすぎてわけわからなくなりました。 誰が一番有力なんでしょう? ●素戔鳴尊と卑弥呼は結婚したのか? 結婚後、宗像三女神をもうけ(剣からでは?)、出雲の八重垣神社にその絵があるというのは本当なんでしょうか? ●天岩戸は宮崎県高千穂?三重県伊勢? 古事記で書かれている天岩戸は、いったいどっちなんでしょうか?

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noname#38340
noname#38340
回答No.4

(No.3の続き) 全ての説はあくまでも仮設ですから。作り話かどうかは、判断されるのはあくまで自分自身です。 八重垣神社といえば、こないだテレビ番組で(確かNHKの笑福亭つるべえの田舎を巡る番組だったと思います。)宮司さん自らが解説するところに寄りますと、たしか左、真ん中、右の三つの建物にアマテラス、ツクヨミ、スサノオの三神をまつっているとおっしゃってました。(うろ覚えですので間違っているかも知れません)その絡みで、絵が奉納してあるのかも知れませんね? >●素戔鳴尊と卑弥呼は結婚したのか? 結婚後、宗像三女神をもうけ(剣からでは?)、出雲の八重垣神社にその絵があるというのは本当なんでしょうか? →作り話?・・・ きわめて初期と云うことは、百済人ではありませんよね? もしそうならこのトピックを参照されてください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/白村江の戦い こういう話があります。 垂仁天皇二年 この年、任那の人そなかしちが「国に帰りたい」と言った。 先皇(崇神天皇)の御世に来朝して、まだ帰らなかったのであろうか。彼を厚くもてなされ、赤絹百匹を持たせて任那の王に送られた、ところが新羅の人が途中でこれを奪った。両国の争いはこのとき始まった。 >大和朝廷の極めて初期に、朝鮮半島で起こった大きな戦い(政権争い)に負けて九州へ船で移ってきた部族っていったら、何があてはまるんだろう。。。 以下の質問は、邪馬台国の会で主張されている説を信じてます。 >●邪馬台国はどこだったか? >●卑弥呼は誰だったか? >●天岩戸は宮崎県高千穂?三重県伊勢? ちなみに私も素人です。ていうか専門家の先生方も、 本当のことは分かってないと思います。 情報がもっとたくさん出れば、謎は解明されるかも知れません。 例えば神社や寺から古い古文書が発見されるとか、 新たに古墳が発掘されるとか。 (天皇陵の発掘は未だ原則として認められておりません。 あと近畿地方はあらかた発掘されていますが、 九州地方などは未だ手薄です。吉野ヶ里遺跡級の 大発掘があってもおかしくはありません)

needrei
質問者

お礼

teppy76さん、遅くなりました。再三に渡るご教授に感謝です! wikiの言う白村江の説だとすれば、亡命帰国したのは百済連合軍の日本人だったということですね。 仮説だとしても勉強になります。 ちなみにレベルの低い話ですが、友人が宮崎高千穂の天岩戸神社で、天岩戸を見せてもらうのに宮司さん(若いイケメン)に同行していただいた時、1日に何度も同じ説明をしているせいか、飽き飽きモード全開の態度に幻滅したと言っていました(笑 妄想を膨らますのも楽しいですし、あとは自分の不思議体験という現実をもとに、自分の中で信じるものを見出すしかないですね。 本当にありがとうございました!

その他の回答 (4)

回答No.5

もう、廃版ですけど「邪馬台国はなかった」という本があります。 昔、読んで納得しました。 今はどこかの大学の教授になられた方だったと思います。 ネットの古本で購入したのですけど、忙しくて昔のように読めないでいます。 評価、判断はご自身で。

needrei
質問者

お礼

shige_gegeさん、ありがとうございます、遅くなりました。 私も関係する書籍は何冊か"勢い"で買ったんですが、同じく忙しくて読みきれていません、とほほ。 どれが本当か分からないですし、真実のない世界かもしれないので、調べれば調べるほどド壷にはまってしまうという、ループ状態ですが、これもまたロマン追求じゃないですけど、楽しいです。 ありがとうございました。

noname#38340
noname#38340
回答No.3

メジャーかもしれませんが、参考URLで中国、韓国の古史(魏志倭人伝・後漢書倭伝など)と日本の古史(古事記・日本書紀・先代旧事本記など)と考古学、統計学、言語学、地理などを絡めて理論的に解説されています。(古代天皇在位10年説などは胡散臭いですが、九州と畿内の地名の一致の考察などは偶然では片付けられないと思います。) 邪馬台国の卑弥呼と狗奴国の男王卑弥弓呼との争いが、 天照大神とスサノオとの対立、もしくは海幸彦、山幸彦の喧嘩の話などとして神話化、デフォルメされたのではないかとの説を展開されています。 私の考えでは、南九州の宮崎(高千穂峡、都城、日向)あたりを本拠地にしていた 邪馬台国が勢力を拡大するにつれ、本拠を北九州の糸都国(一大卒)を置き、北九州最大勢力の奴国(後漢書倭伝にAD57年金印を授与したとある、金印は江戸時代に志賀島から出土、佐賀県吉野ヶ里遺跡周辺が本拠地か?)を平定し、葦原の中つ国(出雲から畿内)を平定し、蝦夷、熊襲などの蛮族を平定していったのです。ポイントは、全国統一(実質的に統一したのは大宝律令以降ですが)を天孫族(大和朝廷)だけでしたのではなく、平定した出雲族などの力も借りて平定したものとかんがえられます。それをいかにも神武天皇やヤマトタケルのようなヒーローがいきなり一代でほぼ統一したような話にまとめだろうと思います。(欠史八代の天皇の時代と神話にほとんど書かれていない地域、北陸中部地方の平定が省略されている、この点に関しては神社の由来などを研究したほうがよいかもしれない) あと、狗奴国(熊本南部から西鹿児島)邪馬台国(宮崎南部から東鹿児島)ともにもともと同じ兄弟(熊襲)だったものと思います。 まとめ 57年 後漢、奴国に金印を授与。 倭国大乱 240年 卑弥呼に詔書・印綬。(天照大神) 300年ごろ 神武天皇東征 400年ごろ 三韓征伐 (神宮皇后)

参考URL:
http://yamatai.cside.com/
needrei
質問者

お礼

teppy76さん、詳しくて分かりやすい説明をありがとうございます。このサイト(会)は知りませんでした。今からじっくり読みます。後でまたメッセージいれます。取り急ぎお礼です!

needrei
質問者

補足

teppy76さんの見解と、ご紹介いただいた会の見解から想像すると、 ●邪馬台国はどこだったか? →宮崎(最初の拠点?)~甘木市や夜須町~近畿へ勢力移動 が有力 ●卑弥呼は誰だったか? 誰が一番有力なんでしょう? →天照大御神が有力(この中の見解だと、卑弥呼=神武天皇は年代が合致しない)  何歳まで生きたんでしょうか。年已長大とはやはり35歳ぐらいなんでしょうか。 ●素戔鳴尊と卑弥呼は結婚したのか? 結婚後、宗像三女神をもうけ(剣からでは?)、出雲の八重垣神社にその絵があるというのは本当なんでしょうか? →作り話?・・・ ●天岩戸は宮崎県高千穂?三重県伊勢? →九州が有力であれば天の岩戸神社の天岩戸もある高千穂?(解説では皆既日蝕が2年あった福岡地域と説かれていますが) といった感じになるんでしょうか。 すみません、素人のばかっぽい見解しかできなくて。 ちなみに、、、 大和朝廷の極めて初期に、朝鮮半島で起こった大きな戦い(政権争い)に負けて九州へ船で移ってきた部族っていったら、何があてはまるんだろう。。。 とにかく、このとりとめもない質問に沢山の情報をくださり、相手にしていただき本当にありがとうございます。 事情があって調べているので、うれしい限りです。

  • caesar-x
  • ベストアンサー率48% (101/208)
回答No.2

はっきり言うと、日本の古代史に信憑性は望めません。 文献が限られすぎていて文字による資料がないので どの説も有力であろうとなかろうと、 推測の域を出ることが出来ません。 エジプト古代史のように大量の文字でも出れば別ですが 日本には全くそれが無いので、今後如何に学者が苦労しても 解明される可能性自体がありません。 他人を説得できるような根拠があれば 諸説はふっとんで定説が確立されているわけで、無理なんです。 有名な邪馬台国にしても、魏志倭人伝のいうそれが いったい何を指しているのかすら不明です。 大和朝廷の前身の古代国家なのか、そうでないのか、 判断がつかないわけで、それがつかないと 当然、質問2の答えも出るわけもありません。 また質問1の場所についても同様です。 九州(北九州説と南九州説)と近畿説、吉備説、 いろいろありますが、 それらの土地に何らかの勢力がいたことは墓や遺構で わかるのですが、魏志倭人伝の著者がどれを指していたのか、 どの国を邪馬台国という当て字で呼んだのか、 断定できる証拠は事実上ありません。 銅鏡などの出土分布などでそれを説明するには あきらかに無理があります。 何しろ銅鏡がどういう経緯・意図で分散・副葬されたのか わからないわけで、大量にある場所が邪馬台国だという根拠にはなりません。 奪われたり、どこかに送ったりする可能性もあるわけで、 銅鏡や銅製品が古代社会でどのような価値や存在だったかも イマイチよくわかっておらず、変な場所から大量出土したりして 混乱しているぐらいなので、困難さが想像できるでしょう。 また魏志倭人伝の記述自体の信憑性がそもそも 長年議論されています。 あの著者はほんとうに自分で旅行したのか? 単なる伝聞による記述だとしたらそれが誤報や虚偽の話である 可能性もあるわけです。 邪馬台国が実は日本最大の国家ではない可能性は少なからずあります。 そうすると邪馬台国探しの前提が崩れるわけで 全く何の足がかりもないのと変わりません。 また神話との関連も問題です。 「神武の東征」の意味にはかなり深いものがあり スタートが九州・火の国であるのは確かなのですが、 出雲やその他の出来事と邪馬台国は関係あるのかないのか。 そこら辺は全く謎でしかありません。 今となっては誰も語ってはくれないわけで、 実際、日本の古代史は失われた歴史なのです。 ですからそこら辺の解明不能の謎のために質問3は不明です。 質問4は天孫族に関連する疑問ですが、 そもそも最初に降り立った地が霧島説と阿蘇説があり これは伝説なので、解明はこれも不可能です。 この伝説は日本人が日本列島に渡ってきたという事実の伝説化したものと考えるか、 単なる伝説と考えるかでもかなり変わってきますが、 少なくとも古事記の記述は口述されるうちに地名が 変わったらしいことが伺える不可解な箇所がいくつかあります。 これは多分、日本古代人の居住地域の拡大と移動に関係があるのでしょうが ま、解明はこれも無理ですね。 最初の場所は今は地名も残ってない全く違う場所の可能性もあります。

needrei
質問者

お礼

caesar-xさん、物語の中の実話を、みたいな困った質問にもかかわらず、丁寧な回答に感謝です。 これらも客観的にはおかしな世界ですが、先にも書いた通り、"事情"があり、いろいろ調べていくうちに邪馬台国や古事記・日本書紀に行き着いてしまいました。 真実が分からない世界だからこそ、想像や主観が膨らんで探究心をそそられるのかもしれませんね。 つい最近まで全く興味のなかったことなのに、今は出雲の謎解き本を読んでいるんですから、人は何をきっかけに変わるか分からないですね( ^-^ ) とにかくありがとうございました。

  • flashprim
  • ベストアンサー率23% (51/218)
回答No.1

回答をもらっても何が正しいのか判別できないでしょ? 自分で調べてね。納得するまで。

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