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聖書に関する質問

マルコによる福音書8:35とルカによる福音書17:33には両方とも 自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである といった内容のことが書かれているのですが、マルコの方はイエスに従う者としての教訓として書かれているのに対して、ルカの方は終末に人の子が再臨したときにどうすれば取り残されずに救いにあずかることが出来るか、という意味で書かれています。 これは一体どういうことでしょうか。単に、どちらかが他方の引用として用いられただけなのでしょうか。 それとも全く同じ意味として書かれているのでしょうか。もしそうだとしたら、ちょっとおかしいなと思ってしまいます。人の子の再臨がそれぞれの時代の各個人の内面で起こるということであればまだわかるのですが。 どなたかご回答よろしくお願いします。

noname#234406
noname#234406

みんなの回答

  • bekraf
  • ベストアンサー率42% (16/38)
回答No.12

多分、 『自分の命を救おうとするものは、』 教え或いは利他の精神よりも先に、自分の利益や執着、欲などを優先或いは固執するものは 『それを失い、』 永遠の命(肉体の有無に関係なく)を失い 『それを失うものは、』 (教え或いは利他の精神のため)肉体の生き死にに固執しないで、教え或いは利他の精神に努めるものは 『保つのである』 永遠の命を(肉体の有無に関係なく)保つ ではないでしょうか。

  • veradico
  • ベストアンサー率44% (11/25)
回答No.11

「マルコによる福音書8:35とルカによる福音書17:33について,これはどういうことか。単に、どちらかが他方の引用として用いられただけなのか。」  聖書をよく読んでおられます。今の時代を考えれば,まことに重要なことと思います。 結論をいいますと,前記2つのイエスの言葉は「神の規準と調和しない,自分が今持つ価値基準・精神傾向を捨て,神とイエスの明示された言葉を最重要視する態度を持って行動しなさい」という趣旨です。 ちょっと難しい意味ですね。やや詳しく述べます。 (聖書の言葉は,その記述の背景となる出来事,文脈(これが重要),その言葉を語る意図・目的,同じ趣旨の他の聖句との比較,などを十分に行った上で,神の霊の助けを受けるなら,意味を悟ることができるにちがいありません。) まず,マルコ8:35の件は,その前に,同31節でイエスが,自分は殺され,よみがえる旨を告げたことに対し,32節でペテロが「いさめはじめ(る)」態度に出て(※1),それに対してイエスはペテロの考えを退け,叱責し,それに続いて同35節の言葉「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て…わたしに従ってきなさい。」,「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。」と言われました。 ここで,※1の「いさめはじめた」(日本聖書協会1954年版口語訳)の記述ですが,上記「同じ趣旨の他の聖句との比較」をしてみますと,例えば,マタイ16:22では, 「すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。」(同) 「 ペトロは彼をわきに連れて行き,彼をしかり始めて言った,「主よ,とんでもありません! あなたには決してそんなことは起きないでしょう」。」(電網聖書[概ねアメリカ標準訳]) 「すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 」(新共同訳) 「するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」(新改訳1970) と訳されています。このペテロの態度に対して,イエスは,叱責の言葉を告げ,それに続いて(その文脈で),上記の「自分の命を救おうと思う者はそれを失い…」と語ったのです。 すると,「自分の命を救おうと思う者は」とは,何を言おうとしていると読み取れるでしょうか。もちろん,解釈は自由であるわけですが,価値ある解釈とするには,「真摯に正しく読み取ろうとする人の,だれがみても,そのように解することができる」ものでなければならないでしょう。 そうすると,マルコ8:35の言葉は,どういう意味だと読み取れるでしょうか。イエスは,端的に言えば「自分は神の明示された意志に従って,苦難にあって殺され,死ぬ。そしてよみがえる」というのです。それに対して,ペテロの言葉は,同じく端的に言えば,「そんな考えをしてはいけない!どんな理由があろうと,死んではいけない!」ということでしょう。(当時のペテロが,イエスの語ったことをどの程度把握していたかはともかく,「ペトロは彼をわきに連れて行き,彼をしかり始めて言った」(マタイ16:22)というのですから,ペテロは具体的行動に出たので,言動には責任が伴うでしょう。) では,イエスとペテロのやりとりの主題は何でしょうか。 これは,崇高な問題です。なぜなら,現在のところ,人はすべて死すべき人間として生まれてくるからです。つまり,どんなに生きたとしても,遅くとも寿命が来れば死ぬ,という現状なのです。それに対してイエスは,「命を救おうと思うものは」というのです。この言葉は,「救おうと思う」の部分に重要な意味がある,というべきでしょう。というのは,イエスは,他の時に,怒り立ったユダヤ人たちから,崖端から落とされそうになったり,石をぶつけて殺されそうになったことがあり,その時,だまって殺されるままにはならず,その場を去るなどの妥当な避難行動をとっているからです。(ルカ4:24-30,ヨハネ8:59)このような聖句を読むと,「命を救おうと思うものは」の意味が,すこしずつ明らかになってきます。 上記の,いわば「避難行動」は「命を救おうと」する態度でしょうか。そのように言えなくもないですが,やや趣旨が違うようです。なぜなら,人間一般は,もし敵の攻撃から逃れて,その場は助かったとしても,寿命が来れば死ぬ,という現状からは逃れられず,いずれ死ぬからです。イエスは,自身の使命(神が望んでいること)が果たせなくなるような危害から,その都度逃れているにすぎません。その場の「避難行動」のようなものによって「救い」が得られる,とはいえないでしょう。 イエスは,何を念頭に置いて「命を救(う)」ことについて語ったのでしょうか。 イエスの場合は,罪を持っていないゆえに,一般の死すべき人間とは異なり,死に支配されていません。しかし,聖書によれば,イエスは,全人類が,神の規準にかなった仕方で「命」を得ることを可能にする目的で(マタイ20:28)神から遣わされました。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16) 上記のような聖句は,おおいに参考になるのではないでしょうか。それで,イエスは,人間が創造された当初持っていた「命」,つまり,神のかたちに創造されたときに神から付与された,生き続けるものとしての命(そのことは,善悪を知る木から取って食べると、きっと死ぬであろう[創1:27]の趣旨から明らかです。)のことを主題にしている,と読み取るのは,妥当ではないでしょうか。 長くなりましたが,マルコ8:35の意味を正確に把握するために,何かのお役に立てれば幸いです。 もちろん,ルカ17:33の意味が残っていますが,本投稿も長くなりましたし,もし機会が与えられましたら,お答えできるものと思います。

回答No.10

 ★ (No.9補足欄) イエス再臨のときに人を2つにわけるといっています。マタイ25章の後半で、来臨する人の子が、永遠の刑罰を受ける人と永遠の命に至る人に分けると言っております。  ☆ そうですね。  少し目を別のところにやってみますが エレミヤ書31:31以降の《あたらしい契約》については どうお考えでしょうか?  へブル書8章に そっくりその契約内容のくだりが引かれています。  ( a ) 神はもう人びとの罪を覚えない。忘れる。(ひとはゆるされる)。  ( b ) 神は神を知れと言って人が人におしえることはなくなる。(オシへが要らなくなる)。  といった二つの事柄が約束されているものと思います。  そして もちろんイエス・キリストの登場(つまりは 十字架上に去って行ったこと)によって このエレミヤの預言は 成就された。ということではないのでしょうか?  ですから 乱暴に言いますが 《イエスの再臨》も《羊と山羊とが右と左とに分けられること》も もう済んだことだとわたしは捉えていますが いかがでしょう?  《復活》とはどういう現実か? これが まだ引っかかっていると思います。

回答No.9

 こんにちは。  ヨハネは われわれ人間からすると分かりやすい解釈と見られる表現をしていますね。  ▲ (ヨハネによる福音書/ 12章 25節) 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。  ☆ すなわち《命を保つ》ことについて《永遠のいのちに到る》と――それじしんまだ経験思考では分かりづらいのですが――説明してくれています。  もしこれに従うとすると 部分的に分かることがあるのではないですか?  (あ) オシへの問題なのだろうか? 言いかえると オシへをまもることが 《この世で自分のいのちを憎む それによっていのちを保つ》すなわち《永遠のいのちに到る》ことなのだろうか?  (い) 《自分のいのちを愛する》ことは 《永遠のいのちに到る》ことに――後者の観点に立てば おのづから――ふくまれることではないのか?  (う) 《自分のいのちを憎む・いのちを捨てる》と言っているが それらにしても 《永遠のいのちに到る ことにふくまれる意味での 自分のいのちを愛する》を除外していない。はずだとなる。  (え) 永遠のいのちに到ることは イエス再臨なることとどういう――特には時間的な――関係にあるのでしょう?    イエスは ここでどういうことを言おうとしていたのでしょうね。

noname#234406
質問者

補足

イエス再臨のときに人を2つにわけるといっています。マタイ25章の後半で、来臨する人の子が、永遠の刑罰を受ける人と永遠の命に至る人に分けると言っております。

noname#214841
noname#214841
回答No.8

回答番号7の怪答者plapotiです。マルコ福音書8章38節をコピペしたつもりでしたが、失敗してゐました。adgj13572468さんは聖書を丹念に読んでいらつしやるやうですから、訂正の必要はないかもしれませんけれど。 「神に背いたこの罪深い時代に、わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るときに、その者を恥じる。」

noname#234406
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

noname#214841
noname#214841
回答No.7

回答番号2のアホ、plapotiでございます。補足を拝見いたしました、ありがたうございます。やはり哲学カテゴリは、言葉のやりとりがなければおもしろくありません。回答番号6の方の優れた返答がすでにありますので、私は少しだけ追記します。 御指摘のとほりルカ17章33節は切羽つまつた状況が念頭に置かれてゐます。ノアの日の大洪水と、ロトの日の火と硫黄による滅びと同じ事態が想定されてゐます。 他の福音書の記述も同趣旨であると私は考へます。たとへばマルコ8章35節。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。 」の少しあとには、かう記されてゐます。 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」 (『新共同訳聖書』マルコ8章38節) この状況はまさしくルカ17章33節と同じではありませんか。 大切なのは、日頃の態度であつて、いざといふときだけの御都合主義では、心の中を神は見透かしていらつしやることでせう。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9724/12096)
回答No.6

「補足コメント」を拝見しました。 >マルコ8章35節、マタイ10章39節、16章25節、ヨハネ12章25節でいわれている、どの時代に生きている人にも共通する生きる上での教訓が、ルカ 17:33でいわれている、ある特定の時代に起こる終末期のかなり差し迫った状況においても共通して教訓として心得ておくべき、という意味で同様に「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」が用いられているという解釈でよいのでしょうか・・・。 ⇒失礼ながら、このご質問の文章の意味(何が主語で、何が目的語かなど)がよく理解できませんので、お尋ねへの回答になるかどうか分かりませんが、とりあえず以下のようにお答えします。  順に見てみましょう。 ☆ マタイ伝10.39、およびヨハネ伝12.25 (前便でマタイ伝10.39とすべきをマタイ伝11.39と書いてしまいました。どうも失礼しました。) =「父母に逆らっても、私について来なさい」(この場合の「父母」とは、「古い教え」の象徴でしょう)。 ☆ マタイ伝16.25、およびマルコ伝8.35 =「イエスは死んでキリストとしてよみがえる。あなた方も、あとでよみがえるべく、今の自分を捨てなさい。」 ☆ ルカ伝17.33: =「天変地異などがあって人々が騒いでも、それに煩わされることなく自分自身の考えで行動し、古い戒律(ユダヤ教)に囚われず主体的に新しい教え(イエス)に従いなさい」。  ということで、共通していることは、「古いユダヤ教の律法を捨てて、新しい教えに従うように」といういざないでしょう。換言すれば、「悔い改めよ。信じる者は救われる。」という改心の勧めであると言える、と思います。

noname#234406
質問者

補足

わかりずらくてすみませんでした。Nakay702さんの解釈は理解しました。参考にさせていただきます。

回答No.5

 こんにちは。  △ 自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである  ☆ これを読んで意味が分かるひとがいるのですか。  (あ) まづ 自分のであれ他人のであれ 命を救おうとすることが いけないことなのでしょうか?  (い) 命をうしなうことが よいことなのでしょうか?  (う) 命をうしなうなら 生きていないのですから どうして《いのちを保つ》と言えるのでしょうか?  (え) 表現の問題で争わないならば――つまり言葉による表現は タトヘとして言っているという場合を考慮しなければならないのでそうするならば―― それにしてもタトヘとして意味のとおる解釈が出来るでしょうか?  (お) 質問者のおっしゃるところの:  ★ 人の子の再臨がそれぞれの時代の各個人の内面で起こるということであればまだわかるのですが。  ☆ は 辻褄があっていますよね。  (か) ですが 《イエス・キリストの再臨》って何ですか? そんなことが人間に分かるのですか?   (き) いま問題の文章は タトヘとして読んで この再臨説は 文字どおりに読むのですか? という問題が 消えないと言えば消えません。  こういった疑問をも押し切って タトヘ説で解釈がなされましょうか?  意味をおしえてくださいという投稿でした。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9724/12096)
回答No.4

>マルコによる福音書8:35とルカによる福音書17:33には両方とも >自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである >といった内容のことが書かれているのですが、マルコの方はイエスに従う者としての教訓として書かれているのに対して、ルカの方は終末に人の子が再臨したときにどうすれば取り残されずに救いにあずかることが出来るか、という意味で書かれています。 >これは一体どういうことでしょうか。 ⇒以下のとおりお答えします。  鳥瞰的に見て、つまり、全体を俯瞰して前後の脈絡を考えると、何となく比喩的な象徴的な意味が推測できますよ。 例えば、マルコ伝8.35には、おっしゃるように、「イエスに従う者としての教訓として」書かれています。これは何を象徴しているかと言えば、「古い律法の中で死んで(それを捨てて)、私の説くことに生きなさい(私に従いなさい)」ということでしょう。ほとんど同じことが、マタイ伝16.25にもあります。  ルカ伝17.33では、歴史的な天変地異などの騒動を引いて、「回りの者の言動に煩わされることなく自分自身の考えで行動せよ」、と言っています。これすなわち、「古い教え(ユダヤ教)に囚われず、主体的に新しい教え(イエス)に従いなさい」、と言っているわけですよね。  そのほか、回答No.2さんもご指摘のように、マタイ伝11.39やヨハネ伝12.25にも似たような場面が出てきます。前後の文脈は上に見たマタイ16.25やルカ17.33と違いますが、「新しい教えへのいざない」という点では共通しています。想像力を膨らませながらそれぞれの章節の象徴性について考えてみると楽しいですよ! 以上、ご回答まで。

noname#234406
質問者

補足

マルコ8章35節、マタイ10章39節、16章25節、ヨハネ12章25節でいわれている、どの時代に生きている人にも共通する生きる上での教訓が、ルカ17:33でいわれている、ある特定の時代に起こる終末期のかなり差し迫った状況においても共通して教訓として心得ておくべき、という意味で同様に「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」が用いられているという解釈でよいのでしょうか・・・。

noname#210716
noname#210716
回答No.3

まず・・・ イエスが キリストの使命を全うすれば 再臨主は必要無かった・・ イエスが キリストの使命を果たせない場合に限り 再臨主が キリストの使命を継ぐ事になるのです・・ 其処を理解しないと 聖書が同じ様に書かれてる事が理解出来ません・・

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