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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《無に還元する》の《無》とは 何でしょう?)

無に還元するとは?

このQ&Aのポイント
  • 無に還元するとは、何かを完全になくして、元の状態に戻すことを指します。
  • 無に還元するとは、何を指しているのでしょうか?その意味について考えてみましょう。
  • 無に還元するとは、何物も残さずにすべてをなくすことを意味します。なぜ人々は無に還元を追求するのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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  • ways
  • ベストアンサー率31% (79/253)
回答No.12

No.10です。補足的に。 「無」という状態は、心の状態で、感じるものです。感覚的に。 亡くなっても、無に帰るとは言ってません。自然に帰ります。死ぬと人は、体を脱ぎ捨てて、心と意識だけになります。体は生きてきた証でしょう。骨は残ります。 座禅などで無になる、無心になって仕事をする、無心になって趣味に没頭する、など、邪念の入ってこない、子供のように純粋な心の状態になる、ということです。座禅を長くしている人は、周囲の音がよく聞こえます。雑念が少ないので、辺りのことを見ているようにつかむことができます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  疑いの側からの補足になります。  ★ 死ぬと人は、体を脱ぎ捨てて、心と意識だけになります。  ☆ というのは 生きている人のおこなった推測ですよね。  《心があって意識がはたらく》というのは その本人が自覚しているということでしょうか?  でも そのことは 他の人には分からないことです。生きている人にも すでに死んでいるほかの人にも。  ということは そうあって欲しいといういま生きている人間の願いなのでしょうか?  そういう願いの中に《無》の問題が入って来ているということでしょうか。  ★ 「無」という状態は、心の状態で、感じるものです。感覚的に。  ☆ 何か或るものごとを感じるのではなく 無いものごとを感じるのでしょうか?   あるいは たった今わたしは 何も考えていなかった。いえ 意識は無くなっているのではなくはたらいていました。けれども わたしは わたしであることを超えていたかのように何も無い状態にあった。  ――たとえばこれが 無を感じたということでしょうか。  だとすると いちいち座禅によってそういう境地になる必要はないように思います。  朝起きて夜眠るまで つねに無の状態に人間はある。のではないでしょうか。  つまり 《雑念が入る》ならそれとしてわたしはそのことを知る。なぜなら わたしは無の状態にあるから。  雑念が入ったまま過ごしていても そのことを知っていてそのように無の中に雑念が交じった全体の状態をむしろたのしんでいる。それが わたしであり これでも無の状態がつづいている。のではないでしょうか。  つまり 無の状態をそれほど特別のこととして扱う必要はない。そのように特別視する見方こそが マチガイである。と言えるのではありますまいか。  

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その他の回答 (12)

  • asisai888
  • ベストアンサー率15% (11/73)
回答No.2

>(い) 《無に還元する》というときそれは 何のことですか? どういった文脈で無に還元するという言葉を使うのかによって意味が変わると思います 国語辞典によれば還元とは 「物事をもとの形・性質・状態などに戻すこと」 とあります、これを参考にすると無に還元するとは形や性質や状態などが無である物事が 有に変化したものを無に戻すことであると言えます 思いつく例を挙げるなら、体重計です 体重計は誰も乗ってなければ0を指してます、そこに人が乗ればその人の体重を指します これが体重計の針が示す数値が無から有へ変化した状態です この目盛を無へ還元するにはどうしたらよいか それは体重計から降りることです そうすると体重計内部の機械の働きによって目盛は0に戻ります つまり無に還元されたのです

bragelonne
質問者

お礼

 体重計の例は 体重計に乗って体重を測ったというだけのことです。計器に乗ったものの重さを 体重計は 目盛りで示すだけのことです。  文脈はと言えば とくに明らかにしませんが 回答No.1のひとがその著者ですので 《無に還元する》は 有るモノを否定することだと言っています。  《還元する》という言葉を間違って使っています。  そういう事情だと理解ください。(No.1の回答をもらったあと 閉め切ればよかったかも知れません)。  ご回答をありがとうございます。

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回答No.1

有と判断する根拠の全ての否定が無である。 逆に聞くが、あなたは有るものについて問うているが、 “それ”についてどれだけ知っているのか? 問う前に、まず何について問うているのか、明確に 知るべきだろう。 そうしたら、その「そこに何かがあるかも知れない」 という疑問として生じた宇宙は、無に還元された、 という事だ。 自分(認識)を先入化して対象の議論をする限り、 何ものかの第一条件が必要になる。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 有と判断する根拠の全ての否定が無である。  ☆ だとしたら 《無に還元する》とは言わない。言ってはマチガイである。  ただ 《有る》と規定されたもの・およびその規定のための根拠としたもの これらすべてを――われは かくかくしかじかの理由で――否定する。というだけのことです。《還元する》のではありません。  ★ 逆に聞くが、あなたは有るものについて問うているが、 / “それ”についてどれだけ知っているのか?  ☆ さらにその逆に訊きますが その答えを聞いてどうするのですか?   《わたしは――デカルトはアリストテレスの《真理の対応説》をそのまま再説したのだと聞いたあと それを否定して《思惟と事実との対応の以前において 主観内面における明証性〔のみ〕を 真理についての根拠としたのだ》と その訂正について触れられずに うけたまわったとき――あざむかれた。だとすれば わたしはある。わたしはあるのでなければ 他人がわたしをあざむくことは出来ない相談だから》――ということを たとえばですが 《有るもの》について知っています。  ★ 問う前に、まず何について問うているのか、明確に知るべきだろう。  ☆ それはそうです。一般論として そのとおりです。  ですが 問うべき主題に入る前にも 用語の定義について共通の理解を得ておくことも 必要であり大事です。ですから 《明確に知る》前にも 《問う》ことはゆるされます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  そうしたら、その「そこに何かがあるかも知れない」  という疑問として生じた宇宙は、無に還元された、  という事だ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ?????????????????   ??????????????????  何を問いかえしていいのかも分からない。  ★ 自分(認識)を先入化して対象の議論をする限り、/ 何ものかの第一条件が必要になる。  ☆ 《自分(その認識行為)》とその《対象》があるという前提は分かりました。  《自分(認識)を先入化して》が分かりません。《先入化する》が分かりません。    《対象》について先入見を持つということですか?  《何ものか》が 何の前触れもなく突然出て来ます。何のことですか?  ここで分かったこと:  ○ 《無に還元する》という表現は マチガイであった。そんなことはしないし――いまのところ―― あり得ない。  ○ すなわち 《無》とは 命題を否定すること。である。

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